5 誤解で助かるのは、
窓の葉陰から零れる日が短くなって、天井の隙間から外を見上げれば夕暮れが色鮮やかに見えて、メルは吸い寄せられるように窓辺へと寄った。家の周りには誰もいなくて、ルーグもスーシャも、家の奥にある水場で夕食の準備をしている。
こっそりと足音を忍ばせて、メルは玄関のドアを開けた。振り返ってもスーシャもルーグも気が付く気配がなくて、そのままドアの隙間から体を滑らせるように出てしまっても、何も言われなかった。息を殺して音をさせないようにドアを閉めると、堂々と家の前の道を歩き出した。
夕暮れ時だからか、通りには誰もいなくて、昼間襲われた辺りを通っても、誰の気配もなかった。
メルはここの住人のように自然なそぶりで当然のような顔をして村の入り口から森の中へと歩いていく。
スーシャの話が本当なら、この森を出てはいけない。森の中だけで移動したほうがいいだろう。
それでも、あちこちを見ておきたかった。
森の出口まで、行ってみたくなる。
ここは本当に、私の住んでいたククルールの町の近くの森なのだろうか。
この森を抜けると、私の住んでいた町が、あの街並みが見えるのだろうか…。
歩いているうちに緩い下り坂の勢いに飲まれて小走りに走り始めたメルは、やがて、何かの息遣いを感じたような気がして、追手を意識した。
気のせいではない誰かの気配に、捕まることを覚悟する。でも、逃げられるのなら捕まりたくはない。追いつかれるのかと思って振り返ったけれど、その何かは見えなかった。
森の中に入っているのに、ドラドリでいう『レベル上げのための魔物』には遭遇しなかった。
ルーグやスーシャではないのなら、他の誰か…。
ああきっと、迷いの森に迷い込んだ人間を送り届ける山犬が習慣でつけてきているのねと、妙に納得してしまった。
暗い闇に紛れてしまうように森を抜けてしまいそうになって、メルは立ち止まった。気にそっと手をついて飛び出したくなる衝動をいなして、呼吸を整える。暮れていく空には登っていく大きな月が見えた。ほぼ丸い月に、明日には満月になりそう、と思う。
「スーシャを、置いていくのか、」
ゆっくりと歩き始めたメルの後方から聞こえる声は、静かにメルに問いかけた。
暗闇に紛れてしまうから山犬は黒いんだ…。メルはそっと振り返った。声のするあたりの地面に、白く靴下を履かせたような犬の足の先が4本見えた。
あの靴下さんだ。他に仲間の山犬はいるのだろうか。
「行かない。ここで我慢する。」
メルの近くに近寄った靴下さんは、メルの傍に立って、遠くに見える街の明かりを一緒になって並んで見つめていた。
野原を越えた向こうに街道の石畳が見えて、つながる道の先にはククルールの街の門が見えた。街の明かりも見えて、メルは懐かしくて涙が零れそうになる。やっとここまで帰ってこれた。あの夜からもう何日も経っている。やっと、ここまで来れた。
「あの町に、住んでいるんだろう、」
「…うん、」
「帰りたくないのか?」
「帰りたい。」
「送って行ってやろうか?」
笑ったような気配がして、メルは靴下さんを見た。山犬はこの森が縄張りだからこの森からは出ていかないとスーシャは言っていたのを思い出し、冗談にしては軽はずみな提案だと思えた。
「あなたは、もしかして誰かを送ったことってないの?」
もしかして、今まで誰かを送ったことがないから、やり方を知らないのだろうか。
「…どうしてそう思うんだ?」
「あの時、他の山犬さんたちが得意そうに笑っていたのに、あなただけ浮かない顔をしていたから。」
ふうっと溜め息をついた靴下さんは、「そうだ。私はこの手足の色が目立ってしまうから、まともに誰かを送れたことがない。いつも途中で逃げられてしまう、」と俯いて笑った。
「暗闇に紛れて息遣いだけを聞かせて圧を感じさせながら送るのが山犬の仕事の流儀だ。俺のように目立つ毛並みをしていては、送っている最中でバレてしまい失敗してしまう。だからいつも、誰かに尻ぬぐいをしてもらっていた。」
確かに暗闇に白い足だけ見えたら、違う妖を想像して混乱してしまうだろうなとメルは思う。山犬は送るだけと知っていたら、二度と迷ったりしないと誓いながら冷静に帰っていけるだろうに。
「逃げまどわせているうちに帰り路が本当にわからなくなってしまわせるなんて、情けないよな。送り損ねるなんて山犬の名が廃る…。」
自嘲気味に笑う靴下さんを見ているうちに、メルは励ましたい気持ちになって、「あなたにはあなたに合ったやり方を見つければいいのでは、」と言いそうになって、黙った。
メルには白い手足を生かす方法が提案できないのに、無責任なことは言えない。
話を変えてみることにして、メルは考える。この迷いの森のルールを、この森を棲み処とする靴下さんならスーシャとは違う見方で捉えているのかもしれない。
「同じ人間がまたここに戻ってくることはあるの?」
「ない。俺たちが呪いをかけて送り返しているからな。」
「どんな呪い?」
「俺たちの棲み処に二度と近付いてはならぬという呪いだ。唸り声を聞かせて『食ってやるぞ』と脅すだけで効果は倍増だ。」
「それは、人間にだけかける呪いなの?」
暗示みたいだ、と閃いて、暗示よりは強烈だから呪いなのかなとメルは考え直す。
「ああ、人間だけが俺たちを怖がるからな。怖がらないものには効かない呪いだ。」
「妖には効かないの?」
「あいつらは仲間だから、俺たちが食わないと知っているから、怖がらない。俺たちが他者を傷つけるのを良しとしないのも知っているからな。でも、俺たちの縄張りだって知ってるから、入ってもこない。」
やっぱりこの森にはまだルールがあるんだ、とメルは思った。
山犬の性質を知っているかいないかで、意味が変わってくるんだ…。
一度迷い込んだ人間は呪いをかけられるのでもう二度と入ってこれない。
ここに住んでいた妖たちは人間ではないから二度とはいってはいけないという呪いをかけられることなくこの森を抜けていける。でも、縄張りを尊重して入ってこないようにしている…。
「妖で、戻ってきた者はいたりする?」
スーシャの話だと、戻ってきた者がいた、ということなのだろう。
「いるかもしれないが、たいしたことはない。俺たちの縄張りを脅かさないならここに棲めばいい。すでにもう、いるからな。」
乾いた声で笑って、靴下さんは冷ややかにメルを見つめた。
「お前はどうする?」
「…私が今ここで、この森を抜けたとしたら?」
「二度と近付けないように呪いをかける。」
「スーシャに、もう会えなくなっちゃうのね?」
「ああ。でも、お前は帰る場所があるのだから、帰ればいいだろう?」
「そうだけど…、」
メルは、スーシャがしようとしていることを知っている。愚かしいまでに幼い交渉をしようとしていることを知っている。
「スーシャをほっとけない、」
素直な気持ちで、メルは呟いた。
かわいくて過激なウサギさんなスーシャを、メルは短時間だけど一緒にいて、好ましいと思えるようになっていた。
「ふうん、そうか、」
鼻で笑った靴下さんを見て、メルは「村に帰ろうと思う。一緒に帰ってくれる?」と尋ねてみた。
「ああ、一緒に帰ろう、」と靴下さんは森の中へと体の向きを変えて歩き出した。
※ ※ ※
森の木の間から見上げた月を追いかけるようにして、メルは来た道を靴下さんと一緒に歩いた。
靴下さんは犬の姿ではなく犬人間の姿になっていて、手が届きそうな距離でメルの隣を歩いてくれた。靴下さんはメルよりは背が高いけれど、手足が白いので、なんだか可愛らしく思えた。
「誰も追いかけてこなかったのに、あなたは来たのね、」
「ああ、たまたま見えたからな、」
「どうしてみんな気が付かなかったのかな、」
私は生贄にされようという人間なのに。
「決まってる、お前は自分の意志で帰ろうとあの村を出たのだから。あの村の住人ではないし、人間だ。ほっておいても大丈夫だと判断したんだろう。」
「あなたは、どうして?」
「お前は予定外の人間だ。村の者達と俺たち山犬は考え方が違う。俺は、習性で、追いかけてきてしまっただけだ。」
確かにそれもそうだ、と思いかけて、メルはふと、疑問に気付く。
「スーシャを欲しいと、地竜王の使いは言ってきたの?」
「ん?」
「スーシャの存在を知っていて、女を出せと、言ったの?」
「ああ。ここへ来てもすぐに飽きて女の妖はうまくこの森を抜けて場所へと帰って行ったからな。帰らずにここに留まって残っていたのはスーシャだけだった。」
「その…、女性がいない村って、機能するの? ほら、例えば、結婚とか、そういう家族を作る関係って、」
メルが言葉を濁すと、靴下さんはヒッヒと笑った。
「俺たち妖は同種でないと縁を結ばないから、ただの仲間でしかない。男だろうと女だろうとあまり重要だと思っていない。仲間で行動を共にすることが多いしな。」
「あなたたち山犬には、女は…、雌はいないの?」
「ああ、もともと野犬だったものや長生きした犬が地の精霊王さまのお許しを得て山犬になるから、雌も雄も必要ない。」
「あなたも?」
「そうだ。その頃からこんな形だった。」
山犬は黒色じゃないと難しいのじゃないのかなと思ってしまい、メルは尋ねてみた。
「その…、真っ黒にはならなかったの?」
「ああ、前の世の名残を地の精霊王さまが惜しまれたのだそうだ。気まぐれだとしても、この姿を尊いお方に気に入られたと言われてしまっては、受け入れるしかなかったんだよ、」
そのおかげで山犬としての仕事ができなくなっても? と言いかけて、メルは黙った。
私は髪が短くても竜の調伏師になりたい。それときっと同じなんだろうなと気が付いてしまう。『男はこうあるべき、』や『女はこうでないと、』といった価値観が守られているこの世界で髪が短いのは、女のメルには不利なことが多すぎる。
メルは髪が短くてもメルなのと同じように、隅々まで黒い犬じゃないと山犬にはなれないという先入観が邪魔をしているだけで、靴下さんは手足が多少白くても山犬に違いない。
「お前、名はなんという? 俺はティヒという。」
「私は、メル。」
ティヒは靴下さんではなくテッちゃんだな、とメルは勝手に呼び名を考える。
「メルはひとりで旅をしているのか?」
「ええ、たまたまそうなったっていうか、」たまたま、ひとりでここにいるのと言いかけて、メルは人間は私だけなんだと実感する。妖だらけの村で、人間は、たった一人…。
「ひとりは怖くないか?」
「え?」
「俺は、ひとりが怖いから仲間と暮らしている。山犬の仲間がいるから、俺は俺でいられる。」
「人間と暮らしたことはないの?」
「ないな、いや、覚えていない。山犬になる時に忘れてしまった気がするな…。」
自分の縄張りに入ってきたものをつかず離れずで見送って帰すという山犬の仕事は、自分に関係がある人間を覚えていたらやりにくいだろうなと思えて来た。メルなら、生前に親しくした人間に出会ってしまったら、また会いたくなって、二度とこの森に来るなという呪いをかけられなくなるかもしれないなと思う。
「そうなんだね、」
「メルには帰る家があるのだからと判っていても、もう会えなくなるのだと思うと寂しいな、」
テッちゃんは気難しそうな見かけよりも優しいんだ。メルは微笑ましく思えて、「じゃあ、今日は一緒に帰れてよかったね、」と微笑んだ。
「お前は子供だから余計に嬉しいよ。俺は子供が大好きだ。」
ティヒが舌を出して笑うので、昔は人間に飼われていた犬だったのかなとメルは想像した。
ふと、気が付く。
どうして生贄は男ではいけないのだろう。メルは不思議に思えて考え込む。
どうして、私のことは『人間の子供』という言い方をして、女だと言わないのだろう…。
「あっ、」
髪が短いから? このズボンが、お下がりの服が、男の子に見られているってこと?
メルは自分の外見を思い出して、思わず驚きの声をあげてしまっていた。
「どうした?」
私が女だと判ったら、スーシャではなく私を生贄にするのだろうか。
生贄になりたいと思わないし、スーシャと代わりたいとも思わない。
でも、黙っているのは卑怯な気がする。
どうしよう、このまま子供として扱われたままでいいのかな。
メルとスーシャとの扱いの違いがはっきりしてしまった以上、メルは自分が助かるためにスーシャを犠牲にしている気がし始めていた。
「何かあったか?」
ティヒはまだメルが女の子供なのだと気が付いていない。
「いいえ、なんでもない、」
メルが誤魔化そうとした時、夜空に何かが翼を広げて飛んでいるのが見えた。
大きな翼…。
あれは、何?
何かが焦げている匂いがした。
何かが壊れる音がする。
「襲撃だ、急げ、」
ティヒが犬の姿になって走り出した。「村が襲われている、」
「待って。こんなこと、よくあるの?」
「ない、初めてだ、」
息を切らして走ってメルが森の中の村へと辿り着くと、村の広場の真ん中で、村人たちが空を見上げていた。
ありがとうございました




