1、春の嵐は夏の夜も
目が覚めた時、丁度女性たちに蒸したタオルで肌を拭われている最中だった。温かいタオルで肌を擦られている感覚で目が覚めた、というのが正しい。
下着姿のわたしの体を支えていた女性がわたしの顔を見て、「ビアちゃん、あら、気が付いたの?」と言った。すぐさまに誰なのかわからなくて見つめていると、「まだ寝ぼけているのね、無理もないわ。長く眠っていたものね、」と笑った。
強いて言うのなら、彼女の他にわたしの体を拭ってくれていた女性と温かな湯桶を抱えているもう一人の女性たちは鼠色の地味なワンピースに白いエプロンが目立った格好をしてて生活感があり、腕捲くりした簡素な白いシャツにスカート姿でさっぱりしすぎている目の前の女性とは雰囲気が違った。
「ここはデリーラル公爵様の御領地のホバッサよ。領都でもあるわ。」
キーラが向かうことになっていた場所だわ。
閃いた言葉に、自分がどういう状況でこうなったのか、ある程度筋道立てて理解できた。わたしは自分の意志できたのではなく連れてこられたのだ。眠り薬の上に魔法まで掛けられて深い眠りについたまま王都から馬車で運ばれた先は、当初の目的地であるピフルール公領ではなくデリーラル公領となったのだ。
記憶の中で、キーラが笑っていた。薬を使ってまでしてキーラのわがままを通すんだと思うと、悔しくもあったし、わたしは大事にされていないという実感もする。
そうか、わたしは今、2周目の未来にいるからだ。1周目と違うのだと認識し直さないと。
「わたし…、」
自分の声が、自分の声なのにびっくりするほどか弱くてか細い声でびっくりする。わたし、こんな声だったかな。
頭に、温かなタオルが乗る。髪を拭いてもらえている。優しい手付きに、少しだけホッとし直す。
「もう少しで終わるわ、私達はここへ到着してからそれぞれお風呂を使わせていただいたの。ビアちゃんがかわいそうだわって思ったから、手伝ってもらって清拭しているの。起こしてしまって悪かったわ。でも、起きてくれて助かった。よかった、目が覚めてくれて。」
されるままに体を預けていて、言葉を忘れちゃったのかなと思うほど、何も言えなかった。
「もしかしてお腹が空いていたりする? さっき回復の魔法を掛けたから無理をしなくてもいいのよ?」
お腹が空いているなら何か用意しようかと言われないのは、用意できないからだろうなと思えてしまった。
迷惑をかけるつもりもないので、小さく首を振っておく。回復の魔法で今は十分だと伝えてみる。
肌から、ミントの香油が香る。
先輩に夜着を着させてもらって、もう一人の女性がわたしの足や太ももをタオルで拭ってくれているのを見ていた。
この人たちは、わたしを大切に扱ってくれている。
「足、少し上げてみて?」
優しく言われて気をよくして、わたしは太ももをあげようとして、足に力が入らないのを感じる。
「無理みたいね、持ち上げるから力を抜いて? 手伝うわ、」
先輩が手を添えて足をあげてくれていると、太腿の裏を拭ってくれた女性が「もういいわよ、」と言って微笑んでくれた。
わたしの体を清拭し終えると女性たちは片付け始めた。
部屋には先輩とわたしだけになる?
行かないで。
手を伸ばそうとして、自分のなのに腕の付け根辺りからやけに重くて、久しぶりに自分の体を自分の意志で動かしている感覚に、いったい何日わたしって眠っていたのだろうと考えてしまった。
掴めなくて空を掴んで、前のめりに倒れそうになる。
そんな手を両手でしっかりと握りしめて「ビアちゃん、目が覚めてよかったわ。予定通りよ。これなら大丈夫そうだから明日からお務めを果たしていきましょうね」と先輩に言われてベッドへと倒されてしまった。
たったそれだけなのに、親切というよりは管理されているだと感じ方が変わってしまった。
言葉に、引っ掛かっていた。
予定通りって何? 眠る日数を計算してわたしに眠り薬を盛ったの?
わたしを見つめる視線に、今は従った方がいいと気がついて頷いて見せて、疑われないよう先輩へ縋るようにして見つめてみる。相手は魔法使いだ。治癒師でもある。騙し合いをするには用心したほうがいい相手だ。
「今夜はゆっくり休んで。ここは聖堂の集落よ? 信頼できる仲間の暮らす街だもの、大丈夫よ? ビアちゃんに危害を与える者などいないから安心してね、」
髪の毛を撫でてわたしの目を覗き込んだ先輩は、わたしに微笑み、優しく教えてくれた。
あなたが一番危険だと思えるのに?
真似して微笑み返して、心の中の呟きを閉じ込めて、口を噤む。
ゆっくり頷いたわたしに先輩は満足して、「おやすみ、ビアちゃん」と言って、待って様子を見ていた他の女性たちを連れて部屋から出て行ってしまった。
もちろん部屋の灯りは消されてしまったし、廊下側から聞こえてくるカチャリという音とで部屋の鍵もかけられているようだと判る。
1周目の未来でのわたしは感じなかったのに、2周目で薬を盛られたり騙されたりを経験しているわたしは、先輩の態度に少しばかり嫌悪感を抱いてしまっていて、どうしてわたしにたいして呼び方と言い馴れ馴れしくしてくるのかと気味の悪さすら感じている。そもそも馴れ馴れしいと感じてしまっている時点で先輩に対して好感を抱いていない証拠な気がする。
1周目のわたしは必要以上に親切にされ、信頼する先輩に成長を止め分化を遅らせられる薬を盛られている。2周目でも先輩はわたしの為だと言いながら眠り薬を飲ませてきた人だ。この先もなんらかの薬を盛る人なのだと覚悟しておいた方がよさそうだ。
暗がりの中で耳を澄まして、誰かが戻ってくる様子も、誰の気配もないのも確認して起き上がる。
用心の為に、首に提げて下着の下に隠していたお守り袋の上から中身を確認する。指輪やイヤリングを触って、わたし自身の魔力が馴染んでいるのか魔力は十分にあるのかも確認する。
怪我や傷が増えていないのかも肌を撫でて驚きと何の異変もないのを確認し一安心する。ベッドの上に正座して、自分の体を確かめる。
他に変化があるとすれば、少しばかり肉付きが悪くなり痩せていて、心なしか胸のふくらみが減り、体型が未分化の頃の発育していない状態に近くなっている気がする。痩せて子供の体型に戻ったの? そんなこと、あるのかな。
顔を撫でて髪を触ってみても異物も傷も指に引っかからなかったので、顔かたちは変化がないようだ。
自分自身を『診察』してみてわかったのは、『分化の停滞』と『冬眠状態からの覚醒』の状態にあるという情報くらいだった。
…。
分化の停滞って、もしかして、分化して女性に成れた事実は一旦保留にしてしまうって意味なのかな? まさかとは思うけど、未分化の半妖のような状態へと戻ったりするのかな。
地の精霊王様のお力で分化が進んで女性化したと思っていたのに、停滞って、どういう意味だろう。
考えたくはないけど、おそらくわたしは眠っている間にも何らかの薬を飲まされている。
1周目のわたしと2周目のわたしの最大の差は、分化していないか分化しているかだ。繰り返したくない。結局同じような状態まで戻ってしまうのは嫌だ。
なくなったはずの未来を再現するのは、絶対嫌だ。
不安に負けそうになるのが癪で、指に『灯火』の魔法を掛けて、そろそろとベッドを這い出す。
会場は王都の聖堂の寮の部屋が2つほど入りそうな広さの部屋で、部屋の中の調度品は椅子や机程度であまりない。
体が重い。体の感覚からすると、1日や2日の怠さには思えない。室内履きは白くてよく目立って助かる。ぶつからない様にのろのろと歩いて手で距離を測りながらカーテンを目指す。
情報は最低限よりも、よりあった方がいい。
※ ※ ※
夜の街と生活音とを遮る意外にしっかりとした厚みのある赤茶色のカーテンを開けると、もう一枚白いレースのカーテンがあって、清貧を唱える聖堂の施設なのにお金がかかっているなと感心してしまった。王都の寮ではもっと薄いカーテンが使われていた記憶がある。
音を立てないようにカーテンを開けると、まだまだ灯りの騒がしい夜の街が見えた。すぐ近くの通りの角では、犬を連れ巡回し警護している兵士が通り過ぎるのが偶然見えた。
空の月は、見えない。
王都から離れて何日経っているのか具体的には判らないけど、別れてからの日数は経っているはずだ。わかる方法があるとわたしは知っている。わたしには、わたしの代わりに情報収集をしてくれる優しい精霊がいる。
窓を少し開けると、王都にいた時よりも少し風が暖かい。
部屋の真ん中まで戻って、耳の群青色の石のイヤリングを触りながら囁いてみる。
「オルジュ、」
名を呼ぶ声は大声でなくてもいいのだ。契約した精霊を呼ぶだけなのだから。
隙間風が通り抜けて、一瞬、勢いに怯んで瞳を閉じてしまった。
風が止んだので薄目を開けてみる。
わたしを見つめる人と目が合った。
来た!
人差し指を口の前に立ててみる。
秘密の話がしたいという気持ちを汲み取ってくれるのを期待する。
僅差で、『金風』の魔法が部屋の中へ広がった。
ほっとすると、吐息が漏れた。
「オルジュ、」
空間が遮断された。
同時に、聖堂の結界を管理している誰かに、わたしが精霊と契約しているとバレてしまった。
これ以上は用心しないといけない。聖堂は私とは真逆の立ち位置で、契約した精霊を個人ではなく全体で共有したい人々の集団だ。価値の見込める精霊だとバレてはいけない。
「もう、これで大丈夫、ビア。」
「会いたかった。元気にしてた?」
ぎゅっと再会のハグをして、わたしの為にヒト型になってくれ実体化してくれているオルジュを抱きしめる。王国はオルジュの国だ。わたしには魔力が十分にある。例えオルジュが聖堂の結界内にある場所でヒト型になることで魔力をいつも以上に消耗しても、わたしがいる。
「やっと呼んでくれたね。」
わたしを見下ろすのは、わたしよりも少し背が高い美しい春の嵐の精霊だ。耳の下で揃えた流れるような黄緑色の髪が揺れている。白いシャツに白いズボン、緑色のストールを肩に巻き付けている姿は少し季節外れでも、季節が夏になって最良の状態とは言えなくても、王国固有種故の王国の土地に対しての影響力は他国以上にある。
「ごめんね、ずっと眠っていたの。王都で再会したかったけど、ここに連れてこられてしまったわ。来てくれてありがとう。オルジュ。」
美しい涼やかな顔立ちのオルジュの爽やかに澄んだ緑色の瞳は、柔らかな眼差しでわたしを見つめている。
「いいよ、どこでも行ってあげる。ビア、長かった。公国は遠かったよ。」
王都での5月の終わりの夜にわたしが頼んだとはいえ、オルジュはずっと虫使いのマハトを追ってくれていた。
「ありがとう。ねえ、公都のわたしの家の…、母さんには会いに行けたりしたの?」
時間的な余裕があったのかを聞いてみる。
「無理だよ、公都にずっといたわけじゃないんだ。アイツはかなり移動しているよ。ずっと、標的だと思うけど、誰かを探し続けてずっと追いかけて移動していたよ。」
風の精霊であるオルジュが忙しなさを口に出すのなら、相当に慌ただしい毎日だったのではないかなと思えてくる。
「誰を探しているのか、オルジュは知っているの?」
オルジュは黙って頷いた。風の魔法使いは時として秘密を聞いている。言葉を紡ごうとして閉じてしまう口元には、躊躇う迷いが見える。
「オルジュが見聞きしたことを教えて欲しいわ。わたしは、オルジュを信じてる。オルジュがわたしの目や耳になってくれたのだと判ってる。」
精霊や妖精は、人を騙したり揶揄ったりする。かといって、嘘を付くばかりでもなく、真実を語る口だって持っている。
人間と同じように相手への信頼度が言葉を選んでいるのだと考えるか、誤魔化していると受け止めるかは、わたしがどこまで契約した精霊を信頼できるかにかかっている。
「わたしは、オルジュを信じてる。」
信頼できない相手と契約なんてしない。わたしは、オルジュだからオルジュを選んでいる。
「ビアにはかなわないよ。」
オルジュはそう言って、「座ってもいい?」と言いながらベッドに腰かけた。
「ビア、隣に座って?」
実は足が震え始めていたので、気遣いが嬉しい。体力は回復していても、心は体を重いと感じているのはどうしてだろう。
「公国へ入ってすぐに、現地の風から情報を得て、アイツを探した。見つけた時、公都にいたんだ。」
わたしの家に、婚約者として挨拶に行ったりしたのかな。
母さんが驚くのを思い浮かべて、微笑ましいのではなく、想像とはいえマハトの行動に嫌悪感を持ってしまったのは自分でも不思議だ。
「誰かと会っていたりしたの?」
「仲間、なのかな、知っている者がいるみたいだったよ。そうだね、そういった者たちに接触しては情報を集めていた。昔なじみの顔を探して、しきりと話しかけて情報を得ようとしている様子だった。観察する中で、あいつが自分の置かれた状況を語ったり交渉する際にする説明だったりを何度か聞いたよ。どうしてビアを置いて皇国から出たのか、王国へ移動した理由も、公国へ来て何をしようとしていたのかも、説明できると思うよ。」
「どういう相手なのか、わかるの?」
「多すぎて誰というのは難しいよ。ただ、ビアが絶対に行かなかっただろうなって場所の、ビアの生活する時間帯とずれて生きている者たちが多かったってとこかな。」
「どういう意味?」
「怪我をしても、治癒師じゃなくてその辺の酒でも煽っておけっていう信念の男たちの暮らす場所だ。」
公都の歓楽街と言われる地区に屯する人々を思い出す。確かにわたしとは相いれないかもしれない。
「別の、わたしでも知っていそうな人と接触はしたりしなかった?」
「ああ、ビアが会いに行けなかった夕凪の隠者と接触しかけたよ。実際に交渉できたのは弟子のひとりみたいだったね。」
夕凪の隠者は伝説の大魔法使いで、虫使いであるマハトとの接点が見えてこない。
伝説の大魔法使いが虫使いと親交があるといううわさも知らない。
わたしが飲まされた虫卵から孵る特異な虫によってマハトもある程度は魔法が使えるのだろうけど、相手が悪い。
「アイツは…、『見える』から、公都で見つけてからはうっかり姿を見せないように気を使ったから、いろんなことが聞けたよ。ビアを置いて姿を消した理由も、大体聞いたよ?」
そう言ってオルジュはわたしを見て反応を待った。
皇国のクアンドの街で消えた後のマハトは、王国へ入り、王都へやってきて公国へと向かっている。
公都で何をしていたのか、夕凪の隠者とどうして接触したいと思ったのか、とても知りたいし、興味もある。
「教えて。隠されている方が辛いことになるのなら、先に知っておきたいわ。」
「それもそうだよな。」
オルジュは意地悪く笑って、「きっかけはアイツ、マハトの父親だ。ずっと父親を探しているみたいだ。だからビアよりも優先しているようだよ」と言った。
「…わたしよりご家族を優先するのはおかしくないと思うわ。」
オルジュの言い方が引っ掛かって、わたしはつい口を尖らせ、呟いた。
「おかしくはないだろうけど、多分ビアが思っているような感情じゃない。アイツの父親はエクスピアと行動を共にしているようなんだ。」
意外な告白に面食らって、何も言えないまま固まってしまった。
エクスピアと虫使いの接点が判らないし、協力関係にあることで得られる利益も見えてこない。
「…聞かせて?」
想定していなかった事態に、わたしはまず落ち着いて話を聞いてみることにした。
ありがとうございました




