2 この人は、人じゃない
「人間がこんな時にこんなところに来るなんて怪しい。」
メルの前に立つウサギ耳の妖は、他のものと比較すると若く見えた。男の影からメルをじっと見つめているウサギ耳の女の子は妹か何かだろうとメルは思う。茶色い瞳に焦げ茶色の髪は三つ編みで、ウサギの特徴が色濃く出ているだけの毛深い人間といった雰囲気で、年はメルと同じぐらいに見えた。ここにいるのは、野に棲む精霊と言われる者たちだろうと見当を付ける。
「名を名乗れ、ここに来た理由を話せ、」と、怒鳴ったウサギ耳の肩をポンと叩いて、丸い頭に長い髭の亀のような印象の老人が「まあ怒るな、ルーグ、見たところこの者は悪しき気配がせん。何より、身に纏っているものはどこにでもいそうな人間の服じゃぞ、この近くの街の子供かもしれん、」と宥めた。
言葉が通じているだけでも幸運だったと思うしかないかな、とメルは思いながら、状況を考える。
この服はカイル兄さんのお下がりの服だもの、普通の町人の格好よ、と言いかけてメルは黙った。
この村の者たちは見るからに水の精霊王の配下ではなさそうで、どっちかというと、地の精霊王の影響下にある者たちに見えた。水の精霊王にしろ地の精霊王にしろ、仲がいいと聞いたことはないし、影響下にある精霊や魔物たちが仲がいいと聞いたこともない。
ついさっきまで水の精霊王の神殿にいたと言うことは良い印象を与えるとは思えなかった。普通の人間はあんなところにはいない。こんなところにもいない。言い訳はうまく考えないといけない。
『妖は人間を騙そうとするけれど、自分に対しては嘘は生存競争で破滅につながるから嫌がるんじゃ、』とじいちゃんは教えてくれたっけ…。
妖を見るのは初めてではないと言っても、知り合いがいるわけじゃない。
竜の調伏師を目指しているといってもメルは街育ちの下町っ子で、野に棲む精霊と接点がある暮らしをしていたわけではなかった。
妖は人間に干渉されなくて済むように自分たちの世界を魔力で守って隠れ里を作っている…、普段なら魔力の無い人間の目には見えないように目隠しがされているのだろうと思う。自分に魔力があると思いたくないけれど、メルは気が付いてしまってこの村に来てしまっていた。
大丈夫、うまくやれる。ごくりと唾を飲んで、気持ちを確かにしながらメルは名乗った。
「私はメルと言います。自分の家に帰る最中で川に落ちて流されて、ここに辿り着きました。」
嘘は言っていない。本当のことだけ言った、とも言えた。メルはじっとルーグと呼ばれたウサギ男と亀老人を見つめた。メルを見つめる他の住人たちの視線を浴びても、震えないように手をしっかり握って堂々と胸を張った。
「なんだお前、帰る家があるのか、」
メルの返答に安心したのか、ルーグの表情は気が抜け柔らかくなったように見えた。帰る場所があると反応が変わるの? と不思議に思いながらもほっとして、メルは周囲を囲む者たちの顔を見た。
長い白い顎鬚を撫でながら、亀老人は用心深くメルを品定めしている様子だった。
「家とは、どこのことだね、言ってごらん。」
どこまで具体的に言えば信用してもらえるのだろう。
でも、竜の調伏師の家だとは言えない。精霊にしても魔物にしても、基本的に名を取られ使役される調伏を嫌がる。
竜の調伏師は竜を調伏するから竜の調伏師と呼ばれているだけあって、竜を召喚することもできた。メル自身は竜と契約したことがないので召喚できないけれど、勘違いされて妖を意図せずに刺激したくはなかった。
「黙っていないで、言ってごらん。お前さんを取って食おうってわけじゃないんだ。ただ、ここからどれくらい離れたところから来たのか知りたいだけなんじゃ、」
メルの脳裏に、滝壺に落ちるまでにぼんやりと見えた街並みが蘇る。
あの街は、私の街。あの街に帰りたい気持ちは嘘じゃない。
「…ククルールの街の、『白波』という酒場です。」
「ああ、あの酒場か、」
知っているのか、黙って様子を伺っていた黒い犬のような風貌の妖たちが声を上げた。黒い犬人間の集団のうちに両手両足の白い者がいて、ああいう白い靴下を履かせたような犬もいるのねと何気なく思う。
「よくこの森の近くまで迷ってくる人間どもにどこまで帰るんだと尋ねると、上機嫌で歌いながら帰っていくところだ。森の出口まで何度かついていったことがある。」
オオオ…、と感嘆の声が低く上がり、メルはよかった、そんなに名を知られているのね、と少し嬉しく思った。ただ、得意そうな黒い犬人間たちの中で靴下さんだけ浮かない顔をしていて、変なの、と思ってしまう。
「随分、遠い散歩をしたようだな、」と亀老人は低く笑って、「まあ良い。身元はよくわからんが帰る家がある者のようだが構わん。ルーグ、この者を頼んだぞ。連れて行って食事を与えてやれ。あとは任せた、」と言った。
誰もが引き締まった表情に変わって、「判った、そうする、」と頭を下げていた。
ルーグの影に隠れるようにして立ってメルを見つめていたウサギの女の子はメルの手を取ると、「行こ、あなたのお世話は私がするわ、」と言って微笑んだ。
※ ※ ※
「メル、私はスーシャ。スーシャって呼んで、」
ウサギの女の子はメルと手をつないでくれていて、メルはウサギと手をつなぐのって初めて、と思った。毛がチクチクするわけでもないし、指も5本ある。
思ったより握力を感じない。軽い優しい感覚に、人間の私を気を使ってくれているのかなと思う。この子、いい子だ。見た目が毛深いだけの人間のお友達みたいね、と思いながら「スーシャ、ここは、地図にない村よね?」と尋ねてみた。地図にあれば名前だってあるだろうに、と思ったからだった。
クスクスと笑ったスーシャは、メルを見て、「ここはただの森の中の村よ。いつからあるのか知らないけれど、ずっと昔から何となく集まって暮らしているわ。私も兄さんとここに辿り着いて、居心地がいいからここにいるの、」と後ろを振り返った。「兄さんとずっと二人だけで生きてたから、ちょうどいいの、」
メルとスーシャの後ろについて歩くルーグは面白くなさそうな顔をした。
「お父さんとお母さんとはどこかではぐれちゃったの。竜が暴れて村を焼き尽くしたから、みんな逃げてバラバラになって、ここにはたまたま来れたの。竜がたくさん来て、本当にあの時はこの世の終わりかと思ったわ、」
不機嫌そうなルーグと、その様子がおかしいのかクスクスと笑うスーシャの様子を見て、メルはここ最近の話ではなさそう、と思った。この二人は見かけよりも案外年を経た妖かもしれない。
ここ数年、竜の群れがマルクトやククルールの街の周辺で暴れた話は聞いたことがなかった。竜が人間の暮らしを脅かしたことなど遠い昔のおとぎ話に思える程で、もっぱら魔物の出没情報ばかり噂に聞こえていた。このあたり一帯を縄張りにしているという地竜の集団は山の上の神殿に籠ってしまったし、スーシャたちのいう話は、どこか遠くの領地での話だろうと思えてくる。
「それって、結構昔の話だったりするのでしょうか?」
改まった言葉遣いにしたメルに、スーシャは答えないで笑った。
「メル、もっと気楽にお話してよ。私たち、しばらく一緒に暮らすんだから、」
「スーシャ、」
家に帰らせてもらえないの? とメルが尋ねかけた時、カンカンカンと甲高く鍋底かヤカンかを叩くような金属音が聞こえた。
「いけない、伏せろ、」
押さえつけられるようにルーグはメルとスーシャを地面に伏せさせた。
鳴り続ける鐘の音は、自分の胸の鼓動の音よりも早い気がした。
何が何だかわからないうちにメルは押さえつけられ、息を殺して、カンカンと響く金属音と大きな音を立てて何かが羽ばたく音を聞いていた。
何人かが走り回るような音や、「それっ、」と何かを投げつける音、破裂する音が聞こえて、歓声も聞こえる。
やがて、羽ばたく音は遠くなっていって、「もう大丈夫だー!」という誰かの声とともに、歓声がまた沸き起こった。
「もう大丈夫だ、」
ルーグが先に立ち上がって、「すまなかったな、」と言いながらメルに手を貸してくれた。
「いったい、何が起こっているの?」
ルーグは見かけよりも力が強くて、すんなりとメルを助けてくれた。起き上がったメルが服についた砂埃を払い落としていると、立ち上がろうとせず、スーシャが「地竜王さまの下僕に襲われているの、」と地に手をついたまま、肩を震わせながら言った。
この近くにいるのは、地竜? ここは、地竜王の神殿の近くの森なの?
頭の中で攻略マップを思い浮かべると眩暈がする思いがした。ソローロ山脈のルルディ山の頂近くにある地竜王の神殿は王国の西部にあるミンクス領よりもはるかに北東だわ…。あの一瞬見えた自分の街を思い浮かべると、そんなはずはないと思えてくる。川に流されたとしても、距離感がおかしい。
考えられるのは一つだけ。地竜が単体で行動している…?
「どうしてそんなことに…、」
穏やかなはずの地竜が野に棲む精霊たちの村を襲うなんて。単体で行動しているのだとしたら、何か理由があるはずだ。
「私たち、怒りを買っちゃったの、」
立ち上がって、パンパンと服についた砂埃を手で叩いて払いながら、静かにスーシャは空を見上げ、「今日は大したことなかったわ、」と言った。
ちょっと待って、と、メルは違和感を覚えて、スーシャに尋ねる。
「まだ夕闇も降りていないの、何時も、こんな風に昼間っから襲撃されるの?」
地竜が昼間から活動するのは珍しいと思えた。風、水、火の竜と違って、地竜は明るい昼間よりも闇を好むとされていた。
マードックやシュレイザから、暑さを嫌う地竜が活動するのは夕暮れ時から明け方だと聞いていただけに地竜の行動にしては元気すぎる気がする。
しかも産卵期を迎え地竜たちは山の神殿に籠っているものとばかり思っていた。
地竜王の下僕が襲うなんて話も理解できなかった。見るからに弱そうな、魔力をあまり持っていなさそうな野に棲む妖たちの村を襲ったところで何の利益が出るというのだろう。だいたい竜が野に棲む妖たちを襲うなんて初めて聞いた気がする。まさか、産卵期が近くて気が立っているの?
地竜は地の賢者と呼ばれていて、他の竜よりも堅実で慎重な行動を取るとされていた。
「ありえないよ…、そんな…、」
竜は気高いと聞いていた印象と行動が違いすぎて、メルは頭痛を覚えてしまう。理解したくなくて何度も首を振ってしまった。
スーシャとルーグはちらりとメルを見て、肩を竦めて顔を見合わせた。
「この前もあったよね、兄さん、」
「ああ。居合わせたタズーリが代わりにつれさられたもんな。昼間は…、最近だな。前は夜だけだった、」
「夜? もしかして結構前からだったりするの?」
メルは今日はいつなのだろうと思った。
ルーグは山の方を指さした。
「あの山の雪が解けて花でいっぱいになってからのことだから…、もう満月は2回終わって…、」
花が咲いた?
指を折り降り数えるルーグに、メルはまさかね、と思いながら尋ねる。
「えっと、今日って、何月何日なのか、判ったりする?」
メルが地上からいなくなった頃も3月の終わりで、雪解けの頃の春先だった。
妖にもカレンダーの概念はあるのだろうかとちらりと思ったけれど、聞かずにはいられなかった。
スーシャとルーグは顔を見合わせて考え込んだ。
「今日が何日か? あまり気にしないからなあ。」
「兄さん、来月は領主様のお祭りがあるって、この前迷い込んだ人間が話していなかたっけ?」
「そうだな、この前、そんな話を聞いたな。確かあのオッサン、旅の行商の途中で迷ったとか言ってたな。山犬たちがヒトに化けて話をしながら送って行ってたなあ、」
領主様のお祭り! 夏宵祭り…! 今は6月!
メルは驚愕して目を見開いた。今朝リハマ様が教えてくれたのはもうじき7月になるって話だったのに! まだ6月なんだ…!
「えっと、もしかして、満月が近かったりする?」
メルが黄金星草を摘みに満月の夜に出かけたのは3月の終わりだった。指を折り降り考えながら、メルは頭の中のカレンダーを進めていく。
満月は2回終わったって…! もしかして満月は3回過ぎていたりするの…?
「そうだな。」
ルーグは静かに言って黙ってしまった。険しい表情になり、スーシャは顔を伏せている。
月の周期はだいたい29日…。あの日は3月の27日だったから、今6月なのだとしたらおそらく今日は23日か24日だわ。
よかった。地上へ来る間にもっと時間が経ってしまうのかと思ってた…!
ほっとしたメルの顔を盗み見るようにして見て、スーシャは視線を逸らすと黙ってしまった。
※ ※ ※
集落の奥にある大きな木の下のこじんまりした家に辿り着くと、「まずは家の中に入ろうよ、メル。兄さんも早く、」と、心配そうな顔のスーシャが急いでドアを開けてくれたので、メルは何の抵抗もなく家の中へと入ってしまった。靴を履いているのはメルだけなので靴を脱いだ方がいいのかなと思ったけれど、何も言われないので土足のまま、部屋の中に入る。
部屋の中は、濃いミントと竹の混じったような清々しい香りがした。虫除け用の香とは違う匂いだと思ったけれど、強い香りにメルは一瞬眩暈を感じてしまう。嗅ぎ取れる香りには薬草が混じっている気配はない。清涼感や清潔感のある香りには、幻覚を見せる術が仕掛けられているとは思えなかった。
室内は思ったよりも小綺麗な印象で、床にカーペット代わりの竹細工の敷物が敷いてあって、椅子や机といった家具も籐細工できちんと手入れされ清潔な印象がして、家人のセンスの良さが垣間見えた。
案外明るくて天井を見上げると、屋根板はきっちりと合わさっているわけではなく隙間だらけで、家の上の木の枝葉が見えた。雨が降ったらどうするのだろう。あの枝葉は、雨から家を守ってくれるのだろうか。
興味深そうに部屋の中を観察するメルに小さく微笑むと、スーシャがさらりと自然に入り口のドアに鍵をかけた。
メルは襲われないようにしたのかなと思い、深く考えたりはしなかった。
ありがとうございました




