23、長い一日の終わりとはじまり
わたしを振り返りもせず勢いよくオリガが駆けだすとアウロスも追って、二匹は雨上がりの街へと駆け出して行ってしまった。方角は、街の中心に近い。あっちの方角に妖の道があるのかなと思いついてみて、冷静に公国の大使館のある方角かもしれないなと考え直す。追いかけるのを諦め、わたしは小指を噛んでラボア様にひとまず精霊の子供の無事を伝えた。これで、じきに花屋へも伝わり、庭園管理員達にも吉報は共有されるはずだ。
遠くなっていく二匹の影を見送り、大通りを渡り北東へと向かう。
雨の音で王都に定期的に時間を告げる鐘の音が聞こえなかっただけに、時間が気になり始めていたのもあって急ぐ雨上がりの夕暮れの帰り道の濡れた路面にはわたしが暗く映る。
オリガたちを追っても追いつけないのだから帰るしかないって心のどこかで思っていても、本当にこのまま聖堂へ帰ってしまっていいのかなって迷う気持ちが多少はある。
交差する通りを渡る度に聖堂へと近付いて、西の方角の沈んでいく太陽の赤い光がどんどん暗くなっていく。
通りの先を歩く人はいなくて、わたしだけが、聖堂へと戻っていくのだ。
人気のない聖堂の裏通りの通用門の門番小屋から出てきた門番に外出届を見せると、「ここで回収するんだ。間に合ってよかったな、」と言われた。
「みんな雨が降り出す前に帰ってきたんだ。それにしても、ひどい通り雨だったな、」
じっくりと身なりを観察されるのは居心地が悪い。
「ええ。」
会釈しわたしが敷地内に入った途端に、外出届から白く煙が昇った。
「?」
驚いて目が釘付けになったわたしの顔を見て、門番は「間に合ったのだから気にするな?」と言って笑った。わたしの行動の記録が焼き付けられたのかな、と思ったりもするけど、見せてもらえないので断定はできない。
「それにしてもずぶ濡れだな、早く風呂に行っておいで?」
門番に促されて、内心は火光獣のマントのおかげで実はあんまり被害はないのだと思っていても説明する気分じゃなくて、わたしはおとなしく寮の自分の部屋へと向かった。
※ ※ ※
寮へ戻って浴場へと行き身綺麗にして、夕食を終えて無事に自室へと戻る。夜の礼拝の時間は移動中だったので立ち止まって済ませたのもあって、特に誰とも話などはしなかったし、誰からも声を掛けられなかった。狭くて何もない部屋には、わたし一人しかいなくて、わたしに害を与えようとする者もいない。
ほっとした気分と、誰からも必要とされていないような疎外感とを感じながら部屋の灯りをつけると、入ってすぐの床には二つ折りの紙が落ちていた。今朝と同じならジェーニャだ。直接手渡してくれればいいのに、不在時にドアの隙間から滑り込ませたようだ。
任務の確認は朝食後、最初の礼拝堂にて。
今日は早く寝なさい。
ジェーニャ
どうして直接会って話をしてくれないのだろう。今朝も、聖堂へ戻ってからも、まだジェーニャを見かけていない。ついでに言うと、モリスもだ。
灯りを消し、廊下から差し込んでくる光だけを頼りにベッドに寝転がって窓の外を見上げる。細い月の夜空は、雨が空を洗ったおかげでとても澄んでいる。公国の山奥の村にいた頃、星空を見上げて父さんに星を教えてもらったのを思い出す。公都へ移ってから見上げた夜空は、星座の煌めきに加えて空を彩る精霊たちの姿が華やかで賑やかだった。同じ夜空なのに、王都の聖堂では、星の数は少ないし精霊の姿など見えない。
今頃、アウロスは妖の道を通って自分の親と暮らす家へと帰っていったのだろうなと思うと、よかったねって言いたくなる嬉しい気持ちと、あの踊り子な冒険者の正義が果たされてよかったっていう満足感と、少しだけ、妖の道を把握できなかったっていう残念な気持ちが心で混ざる。
妖の道があるのだけは判ったのだけは収穫だったと思うしかないのかな。
手を翳して、指を追って振り返る。
今日一日を通して、よかったことは、シャルーを離宮へと持ち出せたこと、花屋で話ができたこと、精霊に憑りつかれたと思われるブレットに古銭を預けてまた会えるきっかけを得られたこと、古銭が冥銭だと知れたこと、宿屋のおばあちゃんに方解石の白い鳥を貰ったこと、騎士様と友達になったこと、オリガことシオロンと契約出来たこと、踊り子な冒険者を助け出せたこと、アウロスを故郷へと帰せたこと、なにより、離宮へお借りした服を質流れにせずお返しできたこと、だ。
これだけあればとてもいい一日でとても充実した休日だったのだと言えるけど、ひとつだけ、忘れたいけど忘れてはいけない不快な出来事もあった。あのヘビ男に叩かれたという事実は、痛みを魔法で治療して消してしまっても、心の中に傷として残っている。呪縛のような捨て台詞を思い出すと、絶対にそんな風にはならないって思っていても、一方的な暴力に敗北感があったりして単なる脅しだと割り切れなくて、今度会ったら捕まってしまうかもしれないという恐怖を感じる。あんな男の言いなりにはなりたくないし出来るなら捕まえて対価を支払わせてやりたいと怒れる気持ちもあるけど、ただ捕まえるだけじゃなく、わたしを害した者を懲らしめてやりたいという報復心があったりする。わたしの中に生まれた後悔や復讐を考える気持ちは、時間が経つと消えるのではなくてどんどん勝手に育っていて止められなかった。
冒険者として追いかけ捕まえ罪を償わせたいと思ったりする感情は、もしかすると、わたしを罠にかけようと企むヘビ男が手ぐすね引いて望んでいる行動かもしれないと思うと、関わるのを断ち切って無視して忘れてしまうのが一番正解な行動なんだろうなって判ってはいるけど、何も反撃できなかったという悔しい感情や『やられっぱなしで悔しくないの?』ってわたしがわたし自身に呆れる感情があったりして、どうしても何もしないで感情を手放すという選択ができそうになかった。
誰かに話すことで楽になったりするのかなと思っても、こんな黒い感情をどういう相手にどんな状況で話せばいいのか思いつかなかった。母さんは基本的にレース職人としての納期に追われていて仕事三昧で深い話をする時間など持てず、父さんは悪い魔性なので、うっかり話すととんでもないことになるってわかっているから話せるはずがなかった。もしかするとわたしの生きてきた時間の中でどんなくだらないことでも話を聞いてくれて話をしてくれたのは1周目の世界でのシューレさんとコルで、次いでアウルム先生やラフィエータやオルジュ、聖堂での先輩の治癒師だ。
1周目の世界でより多くの人や精霊と出会っているはずの2周目の世界になってからは、意外に誰もいないのかもしれないって思えてきた。聖堂にいて1周目で見知った顔に出会えていても、まだ一番よくしてくれた先輩の治癒師には再会できていない。任務なのだとジェーニャからの連絡はあったけれど、聖堂に戻ってからもジェーニャもモリスも見かけていない。シャルーは離宮へと帰らせてしまった。オリガも、アウロスを送って行った後、わたしの元へは帰ってきてくれていない。契約した精霊と言っても、オルジュと言いオリガと言い、彼らは自分の価値観があって自分の日常も持っているので契約者であるわたしの傍に四六時中一緒にいてくれている訳じゃない。わたしは、こんなに大勢の人々が暮らす王都でも、聖堂という限定した場にあっても一人なのだ。
どうしようもなく寂しく混乱した気持ちに苦しくなってきて、きっと疲れているからだって理由を見つけ、気持ちを切り替える。
こんな狭い部屋にいるから窮屈な感情ばかりになるんだわ。
環境を変えたら違う感情が出てくるかもしれない。
窓を全開にして、窓縁に腰かけてみる。
夜の静けさの中に耳を澄ませて、雲の切れ間の月を見上げる。
見える世界は寮の部屋の明かりが漏れる遠い地面と、中庭の闇と、他の建物のうっすらと闇の中に見える輪郭と、北側の軍幹部たちの暮らす棟の屋根の上を歩く闇の塊のような人影とだけだ…。
?
違和感に顔を上げて凝視する。もちろんはっきりと見えないので、目や耳の感覚を『強化』してみる。
その人物は、頭に布巾を巻いていて背に籠を背負い黒い服に黒いズボン姿で、しかも手には棒のようなものを掴んでいる。灯りを手にしていないのに歩みに迷いがないので、相当に夜目が利く。その人物がわたしの居る部屋の位置から見えているのは偶然で、もしかすると屋根の下に暮らす軍幹部たち自身は気が付いていないのかもしれない。
わたし、疲れすぎて幻覚が見え始めているのかな。
何度見直しても屋根の上には誰かが歩いているようにしか見えなくて、だんだん、これは尋常ではない事態なのだと思い直していた。消灯時間にはまだ早いとはいえ、夜の闇に紛れて屋根の上を歩くなんてどう考えても穏やかな状況じゃない。ここは聖堂という宗教団体の暮らしの場で、王都にあっても聖堂の教理が絶対な異質な環境だ。籠の中に入っているものが安全なものだとしても、昼間ではなく夜に活動している点で不信だ。
気が付いてしまった以上、こっそりと屋根の上で何をやっているのかを確かめなくてはいけないなと思い始めていた。このまま見逃して眠ってしまうのが一番楽な方法ではあるけれど、日中に踊り子な冒険者の正義を見てしまったばかりだし、名のある盗賊団ギルドの一員であるヘビ男と関わってしまっているのも事実なので、何もしないわけにはいかない気がする。わたしも、堂々と冒険者なのだと言える立場であり続けたいと思ってしまったのもある。
あれが聖堂に属している誰かなら、冒険者としての正義感からの行動だと説明して、何をしているのかを確認するだけでいい。聖堂に属していない誰かならできるなら揉めずに追い払うのが一番良くて、他に仲間はいるのか、単独犯なのかを確認して、なるべく大事になる前にこっそりと対応したい。警備兵に見つかって加勢してもらえるのが理想ではあるけれど、許可なく出歩いていたという理由でまずわたしが怒られるという可能性は捨てきれない。
幸い、わたしは配給服という簡素で動ける格好である。相手が盗賊団だとしてわたしひとりで勝てるのか不安になり、手持ちの琥珀で魔力を回復してみる。方解石の白い鳥や翡翠のカエルを摘まんでみてもいい策が思い浮かばず、他の荷物にしても使えそうな武器はない。
助けとなってくれる精霊のオルジュを呼んでみようかと考えてみて、まだ早いと判断する。
それならばと、契約した群青色の石のイヤリングを撫でながら<オリガ、>と呼んでみても反応はない。契約していても肝心な時は来てくれない精霊なようだ。わたしの魔力は使うだけ使っておいてわたしの求めには応じないって不条理に思えて、契約内容を見直した方がよさそうな気がしてきた。
治癒師のわたしの攻撃では、接近戦で『骨接ぎ』の魔法が有効な程度だ。地属性の魔法を屋根の上で行うにはなかなかに無理がある。どうすれば勝てるのかを考えてみても思いつかなくて、勝とうと思わず追い払えばいいのだと考え直してこっそり部屋を出る。
足音を忍ばせて階段を静かに上がって息を殺してドアを開け屋上階へと出て、洗濯物干しの並んだ屋上をこけない様に気を付けながら進む。洗濯物が干してある方が意外と距離感が掴めて安全なのだと妙に納得してしまった。
屋上の縁まで来た時、向こうの棟の屋根の上にいた人物がこちらを見ているのに気が付いた。周りを見回しても、他に人影は見えない。
着ている格好は軍服でも配給服でもなかった。
黒い影は、ひとりだ。他に、誰もいない。
屋上は、涼やかな風が吹いている。
向こうの棟との距離はかなりあって、間に中庭と礼拝堂がある。
月が、雲に翳った。
強い風が吹いて、目を瞑る。
人影が揺れた。
あ、っと思った瞬間、その人はわたしの前の、空中に立っていた。
「お嬢ちゃん、お久しぶりだね?」
風に消えるような闇に囁くような声でも、わたしは誰の声なのかを知っている。
「呼んだだろう?」
まさかそんなはずは…?
思わず反射的に後退ると、屋上の縁へと降り立った。
「あの子を迎えに来たついでに顔を見に来たんだよ、元気そうだね?」
「あなたも、元気そうですね?」
ギプキュイを見やると、目を細めて「お互いにね?」と答えてくれた。格好だけ見ていると、アンテ・ヴェルロで仕事をしていた帰りなのかなと思えてきた。
「あの子は、あなたの知り合いなのですか?」
ここには海鳴りの弓矢もいないし、退魔師である師匠もいないし、アウルム先生もいない。友達である証だけが、わたしが無事でいられる根拠だったりする。受け答えは慎重にしなくてはいけない。
「そうだよ。あの子の父親とは古い付き合いだから、まさかお嬢ちゃんが見つけてくれるとは思ってもいなかったよ。」
「わたしも、偶然です。」
「遠雷が鳴った時、丁度水田で作業をしていたから驚いてしまったよ。雷はあの村では歓迎されていないんだ。」
苦笑いをするギプキュイにつられて、わたしも笑い顔を作る。
「ところで、お嬢ちゃんはひとりなのかい?」
「訳あって、ひとりです…。」
あんまり言いたくないけど、ひとりには違いない。
「あの後、ずっと?」
ブロスチの騎士団の駐屯所から消えてしまった時のことを言っているのだと察する。
「そうです。」
「そうかい。だからこんな場所にいるんだな? そっちも?」
ナーと鳴く声が少し離れた物干し台の土台の陰から聞こえた。
目だけ光らせた、野良の黒猫姿のオリガだ。
来てくれたんだね、オリガ。
じっとわたしを見下ろしていたギプキュイは「近いうちに、迎えに来るよ。お嬢ちゃんに礼をしたいとあの子の親兄弟が言っていてね?」と肩を竦めた。
「お礼なら…、あの子を助けた冒険者にしてあげてください。」
「そっちはもう済ませてきた。お嬢ちゃんは、あの子を親の元へ返してくれただろう?」
「それは、」
オリガが妖の道を使ったんです、と言いかけたわたしの足首を、駆け寄ったオリガがペシリと叩いた。爪を立てた手でやられたので少しばかり肌が裂け、ざらざらとした痛みについ「痛っ」と言葉を遮ってしまう。しゃがんで足首を治癒して血を止めて治すと、睨んでくるオリガに<私はすべて秘密よ?>と囁かれてしまった。どうやら自分の手柄だとギプキュイには知られたくないようだ。わかったわ、と小声で答えたわたしに、オリガは立ってとばかりに腕を振って陰へと逃げた。主従関係があるとするなら、完全にオリガが『主』な気がしてきた。
立って姿勢を正したわたしと土台の陰に隠れて目を光らせるオリガを見比べていたギプキュイは、やがて、オリガから目を離した。
「友達だと言ってくれたのは嬉しかったよ、お嬢ちゃん、」
他に言いようがないんだもの。心の中で呟いて手にある証を撫でてみる。擦るだけで何も告げなくても手の甲が輝いてくるのは、ギプキュイ本人が近くにいるからだと思われる。
ギプキュイは嬉しそうに目を細め、わたしのおでこを指さした。
「加護がある者と友達なら、私は長生きできそうだ。」
「それとこれとは違う気がします。」
「似たようなものさ。」
そういうものなのかな。
籠を背負い直して、ギプキュイは「そろそろ行くよ」と言った。
「お嬢ちゃん、ここへ来たついでにここいら一帯の掃除をしておいた。ゆっくりとお休みよ?」
「掃除って…、その籠の中にゴミでも集めてくださったのですか?」
中までは見えないけれど、生きている何かが入っている気配はする。
「アハハ、そうだよ、面白いほどにいいゴミだ。」
いいゴミってどんなゴミ?
首を傾げたわたしの前へと差し出すようにギプキュイが手にしていた棒を何度か振ると、バサリと音を立てて傘が開いた。貴族の御婦人方が使うようなレースの豪奢な布製の傘ではなくて、油紙を重ねて張ったしっかりとした番傘だ。
大きな傘で風を持ち上げるように何度か上下させると、やがて、傘がふわりと浮き上がる。
傘を掴んだギプキュイも浮かび上がって、パチンと指を鳴らす音がしたかと思うと、そのまま、風に乗って空中に浮かんだ。
「またな、お嬢ちゃん。」
いったいどんな魔法だろう。
想像もつかなくてすごいなって感心しながら空を見上げて消えていく影へと手を振り続けて見送るわたしに、オリガが足元で<ビアはすぐ騙されるよね>と呟くのが聞こえた。
騙すって、どこからを?
誰を?
もしかして、わたしを?
<どういう意味?>
オリガへと視線を向けると、オリガは静かに歩いて、屋上の縁まで行って身を竦め、下を覗き込んだ。
<あれ、>
中庭を、黒い布巾で頭を隠し、黒い服に黒いズボン姿で背に籠を背負った男性が走り抜けていく後姿が見えた。手には長い柄の箒を持っていたりする。
振り向かず一直線に突っ切って、食堂や倉庫のある方角へと消えて行ってしまった。
<もしかして、今の…?>
<人間に化けて入り込んだのだと思うわ? ここは網だらけだから。>
網ってきっと、結界だ。
<オリガも?>
<誰に言ってるの、ビア。>
くすくすと笑って、オリガは<でも、ゴミ拾いは本当、>と教えてくれた。
<ゴミって何かを、オリガは知ってるの?>
<さあね?>
野良の身軽さで黒猫オリガは尻尾を立てて歩いて、器用に尻尾で屋上のドアを開けて先に行ってしまった。
見渡せど、何も落ちていない。
ゴミが何なのかは想像もつかなかった。1周目の聖堂では拾うほどゴミが落ちていたのかなって考えてみて、思い出せなくて、訳が分からなくなってきた。
階段をこっそり降りて、廊下の角で警備兵が通り過ぎるのをやり過ごし、ひっそりと自分の部屋へと戻る。
先に行ったはずのオリガはとうとう見つけられなかった。せっかく来てくれたのにもう行ってしまったのかなって思うと、物足りなくて寂しくなってくる。
魔石に魔力を補充してから眠ると決めて、肩掛け鞄から黄水晶や琥珀、方解石を取り出して胸の上に置く。
手で握って魔石を意識していると、フカフカとは言えない厚みでも枕には違いなくて、月明かりだけの灯のない部屋の静寂に何も考えられなくなってきて、いつの間にかわたしは、ドアを閉めたのかどうかすら確認しないまま眠ってしまっていた。
※ ※ ※
翌朝の食堂ではいつも通りの活気が戻っていて、聖なる泉が枯れてしまった影響は一日で持ち直した様子だった。改善策として誰かが王都にあるいずれかの女神さまの神殿の聖なる泉を汲んでくるのか魔石を浸しに行くと決まったのだとすると、ひとりでは無理だろうし何人も何人も行き来したのかなと想像できてしまって、思わず聖堂の信者の皆さんである奉仕者たちの何気ない日常を支えてくれる献身に感謝したくなってくる。
ただ、今日から任務なのだと思うと、あれこれと考えていたり緊張してしまっていて、あまり食が進まなかった。王都を出たら機会を見計らって聖堂を脱会できるようすべての荷物を持って就く任務だ。わたしには荷が重いのだと演技するには体調不良を理由にした方が手っ取り早いのもあって『食べない』という選択もあるのだけれど、その後待っている移動を考えると少しでも食べておいた方がいいと判っている。食堂にいる間にジェーニャやモリスに会えたのなら、少しでも話をして脱会するための下準備をしておきたいという下心もあったりする。要は考え過ぎていて気詰まりなのだと思う。
時間をかけて食べていたのもあって聞くとはなしに聞こえてくる他のテーブルの噂話は、どれも今日は医務室が使えないという事柄に関してのものだった。
あちこちからの断片を拾い話を統合すると、明け方にかけてあちこちで意識を失った神学者たちが何人も見つかって、朝早くから医務室勤務の治癒師たちが呼び出されて治療にあたっている、という状況らしい。研究者と呼ばれるような学者たちも何人か倒れているのが見つかり医務室に運び込まれたそうで、とにかく人手が足りないらしい。囁く中には「こんな状況なら冒険者の採用の試験も訓練も中止じゃないの?」という浮ついた声まである。
任務、影響しないといいな、とふと思う。
食事を終え部屋に戻り、配給服を脱いで手持ちの白いシャツに黒いズボンという手持ちの服に着替える。ここへ帰るつもりがないので、配給服は置いていくのだ。ジェーニャからは任務中の服について何か指示があったわけじゃないので、何かを言われても聞かなかったことにしようと思う。
肩掛け鞄を肩から下げて、二度と戻らないつもりで片付けをして、火光獣のマントを片手に集合場所である小さな礼拝堂へと向かう。
頭上を、白い鳥が飛んでいくのが見えた。離宮のお庭で見かけた白鷺に似ている。聖堂のかなり上空を、くるりくるりと旋回している。
吉兆の印なら、朝から快晴に晴れただけではないはず。きっと、この先、うまくいくはず。
「何かいいことがあるのかな。」
呟いて見上げたわたしの顔を向けた先には、両手に大きな荷物を持った従者たちを従えたキーラやラザロスが小さな礼拝堂へと入っていく姿があった。
ありがとうございました




