45、治癒師である前に認めなくてはいけないこと
馬車のクッションの織柄は、閣下と一緒に乗った馬車と同じように抽象化された薔薇の意匠が描かれていた。この馬車もあの時の馬車も高級ホテルの所有する馬車なようだ。頭の中に広げている地図に書き足そうと、道を覚えるために角を曲がる度に左右を確認していると、気が付いたらしいリオネルさんが振り向いて「一方通行の多い道ですから、帰りは違う道を通ると思いますよ、」と告げた。徒歩で帰ってくる予定だから馬車が通れるかどうかは関係ないのですと思ったけれど黙っておく。帰り道までにリオネルさんを撒くつもりなのだと今バレてしまうのはまずい。王都の外れに近いのもあって周辺は庶民向けの住宅の多い地区なので、一人で歩いていても不審じゃないはずだと想定しているのも内緒だ。
「花が多いなって思ったんです。」
苦し紛れの言い訳にしても、貴族のお屋敷ほどではないけれど美しく手入れのしてある庭を持つ家が多くて、角を曲がる度に記憶する特徴が花の名前だったりもする。言い訳が事実として成り立つのは助かる。
「王都の中でも比較的平穏な暮らしを好む者が集まる地区ですからね。王都で一番の治安の良さです。」
明るい声で答えるリオネルさんはちょっと誇らしそうだ。
平穏な暮らしを望む王都民なら理想的な地区でも、冒険者として言わせてもらえば、主要な施設が同じ区画内の市場周辺に集中してしまっている影響で実はホテル周辺はあまり魅力のない地区だったりするのは内緒だ。いくら一晩眠ったらある程度魔力を回復できるとはいえ、日中に気軽に魔力を回復できる場から遠すぎる。
わたしの中にある魔力は夜を待って眠って回復するのを期待しなければならない程度にしかなくて、イヤリングもハンカチの中の魔石に溜めておいた魔力もない。あのままホテルで夜を待つのは、聖堂への潜入が決まった現在、限られた時間しかないのにもったいなくてとてもじっと待っていられない。
「リオネルさん、帰りに寄ってほしいところがあるのですが、いいですか?」
「時間にやりくり出来たらいけると思いますよ。どこですか?」
「実は、魔力を回復したいのです。ついでにはならない距離かもしれませんが、女神さまの神殿へ向かってほしいのです。大丈夫そうですか。」
「ええ、それくらいなら可能でしょう。」
たぶんリオネルさんは時の女神さまの神殿を想像しているのだろうなと思うけど、脳裏に閃くのは、トマスさんが儀式を行っている最中かもしれないという予感だ。
「申し訳ないのですが、できるのなら、」
「なんですか?」
かわいそうな少女の遺体としてのヒパルコスの乙女が関わっているのなら葬礼かもしれなくて、儀式は儀式でも葬礼は見世物ではないだけに、事情を知らないリオネルさんを近付けたくない。
「時の女神さまの神殿と、太陽神様の神殿は避けてほしいのです。春の女神様の神殿か、月の女神さまの神殿でお願いします。」
振り向き、一瞬だけ何か言いたそうな顔になってすぐに感情の消えた表情になったリオネルさんは、「判りました、春の女神様の神殿へ向かいましょう、」と快く引き受けてくれた。
市場への道はリオネルさんが「市場帰りの馬車を避けますね」と言って裏道をあえて選んで通り抜けてくれたのもあって意外と早く市場へと辿り着けて、午後の休憩時の閑散とした市場の通りの中までも馬車のまま進むことができた。周りを歩く人々の歩調に合わせてぽくぽくとのんびりと行く馬車から見るので見下ろすような高さになってしまったのもあって、顔を上げて空を見ていると店の2階から休憩がてら通りを見下ろす休憩中の店員たちと目が合ったりする。気まずくて顔を伏せたわたしにリオネルさんが気がついて小さく笑ったのを見てしまうと、ますます恥ずかしくなる。
顔を伏せていても、屋根や壁がない分直接耳に入ってくる車輪の音や馬の足音や街の喧騒や人々の話声で市場の様子は判る。
通りを裏通りに曲がって、皇国人の主人の宿屋の店先まで馬車は進んでくれた。見上げると、昨日の夜中に抜け出した時のまま、わたしの部屋の窓はカーテンがしっかりと閉じてある。
開けっぱなしの入り口のドアの奥はひっそりとしていて人の気配が無くて、このまま誰にも会わないまま部屋へと行けたなら昨日の夜からの不在をごまかせそうだなと思えてきた。
「送ってくださってありがとうございました。ちょっと行ってきます。」
リオネルさんに声をかけると、リオネルさんは振り向いて空中を見つめた後、わたしの顔を見つめ直した。
「私はここで待っていますから、おひとりで運びきれないようでしたら呼びに来てください。」
ここは市場で、防犯は自分でするのが一番確実だ。馭者のいない馬車を置いていくのは短時間とは言え不用心なので、リオネルさんの判断は当然だ。
「判りました。着替えたいので少し待ってもらうと思います。待っている間、退屈でしょうからホテルに戻られても大丈夫ですよ?」
ニヤッと笑って、リオネルさんは「どうやって戻るおつもりですか? ホテルの名前すらご存知じゃないでしょうに、」と笑った。
「名前が判らなくても、道くらい覚えていますよ?」
「待つのは慣れてますから、お気遣いは無用です。」
このまま逃げ出し程よい頃合いで戻る、というのは無理みたいだ。
勢いをつけて馬車から降りると、リオネルさんは馭者台に座ったままわたしを見下ろして「宿の主人に尋ねられたら、『ローズテラス』に言ったと答えてください。そういえば判るはずですから、」とにっこりと笑った。
ローズテラスがあのホテルの名前なんだ、と理解して「そうします、」と答えて手を振って、わたしは開けっ放しの宿屋のドアから中へと入った。
※ ※ ※
「お客さん、お帰り。」
意外にも、人がいた。早速見つかってしまった?
「も、戻りました、」
声のする方向へ恐る恐る顔を向けると、カウンターの裏にある椅子に身を屈めるように座って宿屋の主人が帳簿の整理をしていた。宿屋の主人はわたしの返事に驚いた表情をしているので、足音で反応しただけなようだった。帳簿を置いて手を止めて、改めてわたしの顔を確認して「おや、お出かけだったのかい、」と言い直した。もしかして声を出さないまま通り過ぎれば気のせいで済まされていたのではないかな、と思ったりもするけどもう遅い。かといって、昨日の夜からこっそりお出かけしてました、と素直に白状する気はないので「ええ」とだけ答えておく。
「そういえば早朝にブレットが尋ねてきていたね、呼び出されたのかい?」
知らない出来事なので答えようがない。なにしろ離宮のお屋敷で眠っていた頃なので、会えるわけがない。さて、どうしようか。思いつくままに嘘を並べてみても、この先辻褄が合わなくなるとブレットに迷惑がかかる。
「入れ違ったみたいです。」
会っていない事実だけを伝えてしれっと誤魔化したわたしを、宿屋の主人は「そうかい、そんな日もあるさ、」と慰めてくれた。勘違いしてくれてありがとう。
部屋へと向かう階段を上っていると、じわじわとブレットは何の用事できたのかが気になり始める。こっそり夜更けに抜け出したのもあって鍵もかけず鍵を預けずなのは不用心だとは思うけど、来客を想定していないからできた判断だった。そもそも鍵に関しては、盗難すら考えてもいなかった。こういう宿屋は主人がどういう素性の者なのかで随分安全度が変わってくる。誰でも金さえ払えば泊める宿屋よりも知り合いからの紹介がないと泊めないと決めている宿屋の方がだいたいにおいて安全だし安心できるので選ぶ際の大まかな目安になるけれど、その中でも家族経営でしかも成人前の女の子の同居する宿屋は紹介の客でもさらに選別するのでより安全になる。しかも料金高めに設定しているのなら、持ち合わせの金がなく他人の持ち物に関心を寄せなくてはいけないような手癖の悪い者は女子供にとっても害悪なのでもともと泊めていないのでもっと安心できる。この皇国人の冒険者向けの皇国人の主人の宿屋は、ブレットの紹介があり、皇国人を優先していて、客層も優良で治安がかなり信頼できるはずなのだ。…と自分に言い聞かせるように思ってみても遅いかもしれない。夏が来ようとしている季節だから存在を忘れていたけど、火光獣のマントは貴重品だった。なくなっていたらどうしよう!と気が付いてももう遅いのだ。
部屋の中には、特に何の変化も見つけられなかった。
丸みのある盛り上がりが眠っているように見えるベッドへ近寄り、シーツを剥いで服や手提げ袋やベットの枕とで偽装した『眠っているわたし』を解体してみても、わたしの服も荷物も火光獣のマントもそのままにある。
ブレットと昨日別れた時、迎えに来るとは言われたけど、いつくるのかは聞いていない。王都を出るとしかわたしも漠然としか伝えていないからだ。常識的に考えての『朝』と言える時間にビアを迎えに行ったら就寝を偽装していて居なかった、となると、順当に考えて、ビアという人物は約束を破って黙って出ていったと理解すると思う。
ただ、ブレットがそう受け取っていたとなると、出ていってしまったビアのことを宿屋の主人に尋ねていなかったのはちょっとおかしい。宿屋の主人の口ぶりだと、ブレットは主人にわたしが留守なのを伝えていない。自分が去った後の昨夜のビアの様子を聞いてもいないようなので、ブレットは、自分を出し抜き去ったビアが寝ている姿を偽装するのは変だと気が付いていると思う。ビアが夜中に宿屋を出立してしまうのなら、偽装してもしなくても朝以降に訪れるはずのブレットは追いつけないので、偽装する時間がビアにとって無駄となるからだ。
寝ていると偽装したベッドに置いたままの荷物、鍵のかかっていない伝言のない部屋、という手掛かりから、ひとりで王都のロディスの店を任されているブレットなら、わたしがつかの間の留守のつもりで宿屋を出たのだと気が付いていて、あえて部屋のカーテンもベッドの偽装もいじらず、宿屋の主人に尋ねて留守を暴かず、ブレット以外の誰かに留守を知られないよう置手紙すらも残さずに部屋を出てくれたのではないかなと思う。
聖堂へ潜入する前に、どうにかしてブレットと連絡を取らなくてはならない。わたしを信じて案じてくれているからこそ、しばらく王都にいることになったとは伝えておいた方がよさそうだ。閣下にはロディスの商会の話をしていないので、できればこの外出中にブレットと接触できたらいいなと思ったりもするけど、リオネルさんの監視からどうやって逃げ切るかが問題だ。
ドアを閉めると途端に部屋の中はカーテン越しの仄明るい日差しだけになる。音も光も、雑多な余計な情報が消えた部屋の中で借り物の菫色のワンピースを脱いで、ショルダーバッグの中から半袖の服とカチアさんから返してもらった黒いズボンに穿き替える。生成り色の半袖のブラウスシャツは公国を出る時に来ていた服なので、まだひと月も経っていないはずなのにとても懐かしく感じてしまう。
ワンピースを折りたたんで改めて観察してみると、生地の滑らかさや織り目の正確さ、色合いからも布は貴族ものと呼ばれるような上質な綿で、仕立ても目零れがなく丁寧で細かく、何より服の型が古くても全体に品がいい。ラボア様に頂いたドレスと同等か少し劣るくらいのお値段がしそうな代物だと思えてきた。とても庶民の古着には思えない上質な服なので、一介の冒険者が借りていい服じゃない気がしてきた。しばらく滞在するつもりで追求せずに借りていたけど、この服は誰の服を貸してもらったんだろう。まさかとは思うけど先代の国王妃さまである奥様の持ち物では?と閃くと、そうなのだとしか思えなくなってきてしまって冷や汗が出てきた。適当にざっくりと洗って豪快に天日に干すような扱いをしてはダメな気がする。あとあと後悔したくないので、例え値が張ってもきちんとした洗濯屋を紹介してもらった方がよさそうだ。
1周目の未来でこれまで利用した街はどこでも、服屋があれば必ず仕立て屋が存在していた。仕立て屋には母さんのようなレース職人、寸法の補正や縫う専門のお針子と呼ばれる仕立て職人といった出入りの職人がいて、なかでも布職人と呼ばれる者たちは布の管理、糸の解れや布の虫食い穴などの修復をする。布職人は仕上げたドレスの手入れや管理を納品後も委託されている場合が多く、染み抜きや洗濯を専門にする洗い専門の職人に伝手を持っている。ブレットに布もの屋を紹介してもらっているので、あの店に行けば仕立て屋を紹介してもらえ、布職人か洗濯職人までも紹介してもらえるはずだ。
聖堂に潜入する今後、計画としては、お休みを貰ったら改めて手土産を持って離宮に菫色のワンピースを返しに行こうと心に決める。
仄明るい室内には、はっきりとした影はない。カーテンを開けて、陽の光の中で忘れ物がないかを確認してみる。
ふいに、父さんとこの部屋で話をしたのを思い出す。わたしのカバンを届けてくれた父さんは、果樹園を出る前に姿を消した。
昨日の夜消えた父さんは、あの後、どこへ行ったのか気になる。
今日も聖堂に潜入していたりするのかな。いったい誰と仕事をしているのか、聞いておけばよかった!
窓を背にして立つとできた影に向かって「父さん、」と呼んでみても父さんが現れる気配はなくて、少しだけ安心して、少しだけ残念に思いながら部屋を後にした。
※ ※ ※
カバンを肩から下げ脱いだワンピースを抱えて宿屋の入り口のカウンターまで向かうと、皇国人の主人が先ほどと変わらず帳簿を確認していて、その隣には主人と親密そうな皇国人の女性がいた。主人と同じ年頃の年齢や似通った雰囲気からして奥さんで、肩書があるのならこの宿屋の女将さんだ。
「お世話になりました。宿を引き払おうと思います。短い間でしたが、ありがとうございました。」
カウンター越しとはいえ深々とお辞儀をすると、宿屋の主人は立ち上がって「丁寧にすまないね、」とまず笑い、ついでに、「ブレットは一緒じゃないのかい、」と聞かれてしまった。
「はい。あとで会う予定です。」
あとは『後日』なのだ。正確には、きっと必ず会う予定を企てている。
「そうかい。」
ちょっとした間があって、座ったままの女将さんが顔を上げちらりとわたしの顔を見て目を逸らして、何か言いたそうな顔になって口を閉じる。
そんな仕草を見やって、宿屋の主人は「気を付けていくんだよ?」と言ってくれた。笑顔で会釈するわたしの顔を見てコホンと咳払いをひとつして、帳簿を閉じて直し、「お代は昨日のうちにブレットが前払いしてくれているから気にしなくていいよ。王都に来る機会があったらまたおいで。今度はゆっくり過ごしていっておくれよ、」と柔らかく微笑んでくれる。
「失礼します、」とお辞儀を仕掛けたわたしに、「ちょっといいかい、」と女将さんが引き留めた。
「あの、表に停まっている馬車、お客さんの仕事仲間かい?」
リオネルさんのことなのだと判るけど、仕事仲間っていう言葉の意味が引っ掛かる。どう受け止めたらいいのかわからなかったのもあって「ええ、」と曖昧に微笑んでおく。女性でも男性でもあまり仲間のことを仕事仲間とは言わないので違和感がする。仲間は仲間だし、仕事仲間と言い方をするのなら、わたしは同じ制服を着ているのではないのかなと尋ねたくなる。これって、皇国独特の言い回しなのかな。
「ブレットは知っている人なのかい?」
「いいえ、」
暮らす世界に表の顔と裏の顔とがあるのなら、同じ王都に暮らしていても、公国人向けの高級ホテルで働くリオネルさんの暮らす世界と王国を網羅する商会の王都支店の店長であるブレットの生きる世界は交わる機会などずっとない。わたしも、つなぐつもりはない。
瞬く間に女将さんの表情は曇って、主人も不安そうな表情になった。
「そうかい、」
女将さんはふっと微笑んで、わたしの抱えているワンピースを指さした。
「お客さんは皇国から来たばかりなようだから、変な男に騙されてやしないかい? ね、その服も、借りものだろう?」
「借りものですが、あの…?」
「やっぱりそうかい、ね、何があったか私たちに話してごらんよ、悪いようにはしないし、力になるからさ、」
戸惑うわたしの顔を、女将さんは心底心配そうな顔をして覗き込んだ。
どうしてこういう質問をされるのかわからなくて説明してほしくて視線を宿屋の主人の方へ向けると、宿屋の主人も険しい表情でわたしを見ていた。
えっと。
これってどういう状況なんだろ?
「この表情だと、騙されている最中なのかもしれないな。」
?
「ねえ、お客さん、皇国の親御さんには話せないような…、何か厄介ごとに巻き込まれていやしないかい? 王都には見目の良い若い男に若い女の子を誘わせて悪い大人が囲う世界もあるから、取り込まれてしまう前に教えてあげないとねってこの人と話してたところなのよ。表の高そうな馬車といい…、もしかしてこの後、そこへ行くのかい、」
閃くように、夜中に抜け出したことはとっくに宿屋の主人にも女将さんにもバレていて、一晩で人生が変わったと思われているのだと判った。さしずめ、田舎から出てきた皇国人の女の子が騙されたか何かで借金を負ったと思われていて、これから借金を返すために身売りするのではないかと勘違いされているのだ。
ドキドキと胸が鳴るのは、想定もしていなかった『女の子』としての扱いを受けているからだ。若い女の子を騙して囲う世界って言い回しが女衒か花街を指しているのだとしたら、とてつもなく勘違いをされている。
「ブレットに話せないような目にあったんだろ?」
「いえ、違います。大丈夫です、」
確かにブレットには話せないけど、意味が違う。
リオネルさんもわたしを囲っている雇い主の手配した者なのは間違いないけれど、わたしの雇い主は花街の楼主ではなく公国のお姫様であるラボア様で、だからと言って庭園管理員である以上、ラボア様の名は出せない。
言葉を探そうにも、昨夜から今日にかけての体験談を語れそうにないし、花街に身売りしたのではないと証明するだけの根拠を示せそうにない。
人間だけど、半妖だから純粋な人間じゃないし、目が青いけど公国人だし、冒険者で治癒師だけど庭園管理員だから行動に目的があっても理由を語れない。
何より、わたしの周りは秘密だらけだ。
「若い女の子だから、何があったのかを言えないのかい?」
「違います。」
「ねえ、今なら間に合うんだ。身の丈に合わないような奉公先を持ちかけられていないかい? お客さん、私らにまでも話せないような仕事なら、やめておいた方がいいんじゃないのかい?」
「何なら私らが騎士団に掛け合ってあげるよ? 皇国から来た若い娘が不当に買い叩かれているって話してあげるよ?」
親身になってくれる言葉が優しさからなのだと判るだけに、違うと言えば言うほど、裏切るような気がしてきて心が苦しくなってくる。
口の中が妙に乾いて逃げ出したくなって、泣いて誤魔化せたらいいのになんて思ってしまうけど、わたしがわたしであるために、自分の弁護は自分の口で語りたい。
1周目の未来では未分化だったから少年だと言い張れば信じてもらえたし、シューレさんやコルが傍にいてくれたから、旅の冒険者としても治癒師としても矢面に立つことはなかった。
この2周目の世界は、わたしは分化して女性化している。この先もこの体で生きていくのなら、この先も誤解を受ける時が来る。そんな時のためにも、心を強く持っていたい。
「いいえ。違います。あの表の馬車は、わたしの治癒師としての雇い主の借りてくれた馬車です。あの人はわたしを大事にしてくれます。騙したりはしない人です。」
リオネルさんとわたしとは閣下がつないでくれている縁なので、閣下から信頼を受けている人でもある。まかり間違ってもわたしを売り飛ばすような人ではないと言い切れる。
「この服は、治癒師として仕事をした時に汚れてしまったのでお借りした服です。悪いことをして得た報酬ではなく、御好意でお貸しくださった善意の塊です。」
わたしの中にあるのは、消えかけた命をつないだという自信と、希望をかける力になれたという満足感だ。
「心配してくださってありがとうございます。わたしは、大丈夫です。」
にっこりと微笑んで言い切ると、女将さんは目を見開いてしげしげとわたしの顔を見た後、「わかったよ、」と言ってくれた。
宿屋の主人が女将さんの肩に手を置いて、「そうかい、なら安心だ、」と眩しそうに目を細めた。
※ ※ ※
改めてお礼を言って宿屋を出ると、馬車で待ってくれていたリオネルさんが「意外と早かったですね、」と言って軽く手招きをしてくれた。
手を借りて馬車に乗り込むと、リオネルさんはわたしが宿屋から持ってきたカバンとワンピースとを見比べて、「それだけですか、」と驚いていた。
「これだけですよ?」
「意外と時間がかかったのですね!」
「そうです。」
「なにかあったんですか?」
リオネルさんとわたしとを見て、女衒と身売りした娘の関係に間違われたなんて言いたくない。
「なんでもありません。」
説明したくなくて、そのままわたしは黙る。
宿屋の主人と女将さんの誤解が解けたからって、この先もずっと、わたしという冒険者が正当に評価されるわけではないと判ってしまった。
リオネルさんがわたしの顔を見て言葉の続きを待っていると判っていても、何も言いたくなかった。この胸のモヤモヤは言葉にすればするほど、未分化のままのわたしではなくなったのだという現実を否定したくなってくる気がするのだ。
「そうですか、」
リオネルさんはにやっと笑うと「そういうことにしておきますか、」と言って馬車を走らせ始めた。
ありがとうございました




