42、起こらなかったもうひとつの魔香事件
閣下は首を傾げてわたしの顔をしばらく見て、目を細めて言った。
「話を戻すぞ。王都の太陽神様の神殿に転送されてきたとのお前からの連絡をきっかけに、ラボア様も私も予定を変更せざるを得なくなった。ラボア様はお前は王都に正当な手続きを得て入ったわけではないとすぐさまお気付きになった。5月の段階で、竜退治同盟の関係で王都には各国の要人が集まる予定があるため、異国人には身分証明が徹底されて検問がきつく課せられると判っていた。それに加え、お前たちが滞在していたブロスチを管轄するフォイラート公の要請もあり、冒険者でも特別通行許可証の提示と鉅の指輪の確認が義務付けられた。昨日の段階でわかっている検問所での手続きは正式な開始を前に練習を兼ねた形式上のものであるとは理解しているが、もしさらに何らかの物が利用され記録に残されているのであれば、それを持っていないもしくは預けていない時点で、例え手続きの偽造に成功しても不正に検問を逃れた者という対象に成り下がる。」
お屋敷でマルソさんやサーヴァさんから聞いていた検問の話が念頭にあったので理解しやすい。質問する必要もなくて、わたしは黙って頷いた。
「ラボア様は太陽神様のお導きで『神隠し』にあったのならビアは何らかの得難い報酬を得ているだろうから、不正をする不心得者という烙印が押されてしまった場合神罰が下るのはないかとお考えになられた。ビアが冒険者なのも王都に来たのも動かしようのない事実である限り、後ろめたい気持ちを抱かず太陽神様に顔をお見せできるよう、真っ当な理由を持って堂々と検問所を抜けて王都を出られるようにしてやりたいと仰った。実際、加護をいただいたのだな?」
頷いた胸の中にラボア様の御心の温かさが染み入って、言葉から滲み出る優しさが尊くて、項垂れるように目を伏せる。
「公国で国境を通過にする方法は魔力量の有無が決め手になるが、魔法を頼りにしない王国は違う。検問所で検問されないための方法は、調べた限り、いくつかあった。」
閣下はゆっくりと、指を折りながら教えてくれる。
「ひとつ、王国人であること。ひとつ、検問所で検問を受けた記録があること。ひとつ、大使や大使館秘書といった治外法権の認められた職業についていること。ひとつ、聖堂の治癒師として人道支援者として緊急性をもって各国を移動する身分であること。ひとつ、皇国が与えている女神さまの神殿の神官の親族に与えられる特権を行使すること。ひとつ、王族か貴族の家族であること、だ。」
それにあとひとつ、『妖の道を使って検問を通過せずに別の街へと移ること』があると、心の中でこっそりと付け足してみる。
「ラボア様は、できる限りの方法をお試しになられた。まず、ビアの母親の家系が太陽神様の神殿の神官であったという縁を辿って、公国の公都にある太陽神様の神殿の大神官にも接触された。先祖に太陽神様の神殿の神官の血の流れる公国人を養子にはできないかとお尋ねになられたのだ。王国のフォイラート領のブロスチで巫女として太陽神様の聖域の神殿に召し上げられた経験のある治癒師だと伝えるとあっけなく承諾をされたのだが、交換条件を提示されてしまった。」
『神官の家の子供は神官の家の子供に嫁いで斎火となる子を産むのよ』と教えてくれ、『母さんは種火だったから、お父様もお母様も諦めておしまいになったわ』と窓の外の遠く公都のある方角の空を見上げていた母さんを思い出す。
「神官との婚姻による養子、ですか?」
「察しがいいな。ラボア様はこの話はなかったことにしてほしいとお断りになられた。婚姻が必要なのであれば、表向きには婚約者と公表しているバンジャマンの方が適任だと考え直されたのだ。急遽、ラボア様はランベール侯爵とも面会もされた。」
もともと庭園管理員と公表できない以上仕方なくの婚約関係なので、ランベール侯爵様と話を進めるのは違う気がする。
「意外かもしれないが、ランベール侯爵はあっけなくバンジャマンとの婚姻を了承された。『このままだと吟遊詩人という根無し草なまま一生を終えそうな気がするから、縁あって結婚できたのなら本望だろう』とお笑いになったそうだ。ラボア様の思し召しなら相手に不足はないし出自は問わないとの仰せだから、ラボア様はバンジャマンの到着を待ってビアに婚姻届けを書かせれば検問なしに王都を出られるだろうと判断されたのだが…、手続きをさせるには、ビアと接触をする必要がある。仕上げとして花屋にいる庭園管理員とご連絡を取られビアの到着を待っておられたのだが、来なかったな?」
わたしはブレットと皇国人の格好をして市場を彷徨い、皇国人の大衆居酒屋で食事をとり、皇国人の経営する宿屋に戻っていた。
「すみません。いろいろあったんです。」
「そのようだな。離宮から身分の問い合わせがあったのは、ビアからの王都からの2度目の連絡が届いて以降だ。」
わたしが離宮のお屋敷で記憶を失ったのは真夜中だったのではないかなと思うので、同じ頃、閣下とラボア様は問い合わせがあったのなら、まだ王の庭で仕事をされていたという意味に聞こえた。
「大使館ではなく公国の国境警備隊に連絡があった時点で、ラボア様はバンジャマンとの婚姻による身分の保証は使えないと判断された。貴族と婚約をしている場合、望んでの婚約なら相手の家族に迷惑がかかることを恐れ自ら話すものだ。その場合、大使館へと連絡がついているから、大使館で対応できただろう。告げずに隠したから国境警備隊へと話が来たのなら、貴族と婚約関係にある者であると回答するとビアは真実を隠す者であるという印象に変わる。結果としてビアは信用ならないと判断され、余計に警戒されるだろうとお考えになったのだ。」
ギロリと閣下に睨まれてしまった。
「お前は本名を名乗り冒険者の証を見せ治癒師だと明かしまでした癖に、バンジャマンの婚約者だと名乗らなかったのだな?」
「はい。」
いたたまれなさ過ぎて、身を竦める。
「あれだけ庭園管理員だと名乗れない場合の身分だと伝えてあったのにな。おかげで、計画は台無しになった。」
婚約者が嘘でも本当でも、あの場では師匠に迷惑をかけてしまうと心のどこかで感じていたのだと思う。世界が終わってしまうのではないかとまで追い詰められたあの夜は、わたしの父さんがいかに悪い魔性なのかを再確認した夜でもあったので、わたしにかかわることで不幸になる人がこれ以上出てはいけないのだとも無意識でも覚悟していたのだ。
「すみませんでした。」
「言い過ぎたな。安心しろ、残された方法はまだある。これは一番時間がかかる方法だが、検問の対象が拡大されて冒険者全体やすべての国民が対象となるのを待つのだ。8月に討伐の旅が開始される前に、式典や祭典が行われることになっている。それまでに、混乱を避けるために王都では恐らく今以上の人の流れへの干渉が行われるだろと推測している。警備のためにも王都の検問所はすべての国民を対象に検問されるようになると、いくら検問所の人員が増えても通行許可証の確認の手間も増え、逆に、顔や職業を覚えられ把握されるという機会が無くなり形式化された『検問』が行われるようになるはずだ。混雑と混乱の中で検問所で行われるのは出入の確認だけで、いつ王都へやってきたのかなどといった細かな問題など気にならなくなるほどの人数だろうからな。」
「その日が来るのを待つまで、時間が相当かかりそうですね。」
「そうだ。お前の言う6月の新月の時期までにアンシ・シへと向かうなら、最短は聖堂入りだ。バンジャマンと婚姻関係となり貴族としてこの街を出るのだとすれば、馬車を飛ばしてもアンシ・シへは間に合わない。王国全体が通行許可証の確認をする日が来るのを待つとなると、未来を変える前にお前の命が持たないかもしれない。」
いまは5月の満月が終えたばかりなので、もうひと月とない時間を、待つために過ごしたくはない。
「…未分化ではなくなったので、もう少し長生きできるかもしれないです。」
カエル顔の神官様と話したわたしという魂の器を意識する。魂はひとつに減ったし、地の主様に分化を後押ししていただいたのであれ以来発作などない。無理と無茶さえしなければ、わたしの魂は1周目よりも長くこの世界に留まっていられそうなのだ。
「女性化して少しばかり年相応になったようだな?」
閣下は改めてわたしを頭の天辺からつま先まで見てくるので、恥ずかしくて視線を背けた。
窓の外は明るい日差しの中日差しを避けて歩く人々に影を揺らして、街路樹に風がそよいでいる。
「バンジャマンがフユエ園で再会した時、水の魔法を練習していたと言っていたな。もしかして、属性もひとつに減ったりするのか?」
「そうです。」
「地属性が残ったのか?」
肯定するつもりで頷いてみる。隠していたって見破られてしまうのなら、嘘を付かなくてもよくなったのだと割り切った方が気楽だ。
「そうか、地属性の女性の治癒師か…、」
「いつか神の手になれたなら、属性などあってないようなものです。」
「よかろう、お前の気概を信じよう。」
閣下はニヤニヤと笑ってわたしを見下すように言った。
「その勢いなら、聖堂入り、できそうか?」
ゴクリと喉が鳴ってしまったのは、やりたくないからじゃない。
コルに会いに行ける理由が庭園管理員としてもできたのだと、興奮しているからだ。
顔を向け、「はい、」と答える前に、間ができてしまった。
「よかったな。未分化の半妖なら属性も魔力量も検査されずに済んだだろうが、性別の固定した半妖は人間と同じ扱いをされるだろうからな。未分化の恩恵が無くなった分、慎重に行動しろよ?」
「はい。覚悟はできています。」
避けたくても避けられなかった道ということは、ここを乗り切れば、未来は確実に変わるのだと信じたい。
「バンジャマンもそのうち王都に入るから安心しろ。指導員として補佐してくれる。」
いつになく優しい閣下が気遣ってくれるので、わたしはつい、微笑んでしまった。
※ ※ ※
「そういえば、お前、知っているか、ブロスチの花屋にお前が尋ねたあの日、庭園管理員たちは何をしていたのか知っているか?」
「知らないです。」
閣下の問いに、ゆっくりとだけどはっきりと否定する。
断られたし、あまり好意的ではなかったし、あまりブロスチの庭園管理員自体にいい印象もない。
「王の庭にはお前たちの通信とともに庭園管理員たちの報告も届いていた。どちらも助けとなってやりたかったが、どちらも助けてやれなかった。すまなかったな。」
「大丈夫です。乗り切りましたから。」
「そのようだな。お前たちは成功だったが、もう一方は失敗している。」
確かブロスチの区長のオノレさんと、ティミという緑の手が花屋には残っていた覚えがあるけれど、あの時あの情勢でのわたしは花屋のことなど気にも留めていなくて、今更だけど応援にも救援にも行かなかったし行くつもりもなかったことへの罪悪感が湧いてくる。
「治癒師が、足りなかったのですか?」
作戦の失敗と聞いて真っ先に想像してしまうのは、誰かの無念の死だ。
「失敗ではあったが怪我人はない。作戦とは、盗賊団ギルドとの密売の現場を押さえ魔香を回収するという任務だ。お前がいたあの街には、同時期に魔香が持ち込まれていたのだ。」
息を呑む自分の反応に驚いて、わたしは慌てて首を振った。瞬間的に最悪の想像をしていたのを認めたくない。
ブロスチには、客同士の揉め事は客同士で解決させる不文律がある。もしも魔香があの街で使われてしまったならと想像するだけで、多くの犠牲者と終らない殺戮だけがすぐさまに連想できてしまう。
「取引の情報が入った時、ラボア様は夕凪の隠者がアンシ・シに呼ばれる前にブロスチで魔香が使われることはないだろうと当初推測されたが、精霊使いたちの報告を見てお考えを変えられた。」
「精霊使い、ですか?」
「そうだ。冒険者の予言が当たり精霊王様が紅玉に捕まるという未来が叶ってはならないとお考えになり、各精霊王様や竜王様の動向をこれまで以上に精霊によって把握している。報告の中で、水の精霊王様は来客中とあった。水の竜王様は、外出中だ。」
「召喚しても、応じてくださらないかもしれないのですね?」
「そうだ。不興を招くと召喚魔術師の命が危なくなる。魔香の被害を手っ取り早く一掃するには水が不可欠なのに、協力をいただけないと想定しなくてはならないのは大変困難な事態だ。」
水の精霊王シャナ様は大変美しく怒り顔など縁がなさそうな御容姿ではあるけれど、各地に在る水の精霊王様の神殿の池に無数に生息する黒い魚はシャナ様の怒りから生まれた魚と言われている。公都の図書館にある古文書にある限りでは、怒りを制御するのが難しく憤怒で破裂してしまいそうになってしまわれたご経験から、ご自分に怒りの感情が現れたら魔法で黒い魚に変えて手放されなくてはいけない程にすぐにお怒りになる性格なのだそうだ。
水竜王マルケヴェス様も他の竜王様に比べると友好的ではあるかもしれないけれど、精霊の愛する国・公国人には手が出し難い相手であるには違いない。
「ラボア様は、水の精霊王様や水竜王さまの不在を狙って、取引を装ってわざとブロスチで魔香が使われるのではないかと予想された。『単なる取引なだけならもっと人目につかない寂れた場末の宿でだってよかろうに、わざわざ大都市で取引をする理由があるとするならそこではないといけない理由があるからだ』、とな。」
閣下は小さく咳払いをした。
「公国からの応援に出した精霊使いも使い、フォイラート領周辺の花屋からも応援を呼んで、あの街の庭園管理員が中心となって大掛かりな潜入捜査をしていた。…あの日の宿屋はどこも警戒して紹介状のない新規の客を断っていたそうだ。客同士で揉め事があるとだけは宿屋の主人も耳にしていたようだ。気が付かなかったか?」
「ええ。」
まるっきり、そんな話も雰囲気もなかった。
泊めてもらったのはフローレスの『蒼い蔵』の隠れ宿だったからっていう理由もあるけど、他の『家』の皆さんも、そんな話を微塵もしなかった。
「侠客の不文律だったか? あの街は独特だ。客同士のいざこざは客同士で解決させるという方針は庭園管理員として潜入するには花屋という職業に身を隠せて便利だが、魔香の扱いについてはさすがに客同士で解決などできないし、公国人としても禁忌の売買を看過できない。関係者の確保と魔香の回収だけでもと庭園管理員たちは頑張ってくれたが、妙な魔道具に足を取られて結局どちらも取り逃がしてしまっている。魔香を回収できていない現在、公国からも他の地区の庭師も応援に出て手掛かりを追っている。」
「規模や、潜伏先は判っているのですか?」
閣下は眉をビクつかせて、「大体な、」とだけ言った。
「盗賊が、単なる盗賊じゃなかったんですね?」
「考えたくはないが、先ほど見かけた者たちのような盗賊があちこちに沸いているのだ。人間の盗賊団ギルドに獣人が混じっているのではなく、獣人のみの盗賊団ギルドだ。獣人といっても実体は魔物だ。」
あの街を、潰そうとする者たちが、あの時いたの…?
「…戦争中でもなければ何らかの基地でもないただの領都に、魔香を撒く理由などあるのですか?」
「ラボア様のご推測だと、ブロスチという街に条件が当てはまったからだ。ブロスチはフォイラート領最大の市場を持つ街道の要所でもあり、王国西部の貿易の要だ。海流とは関係なく魔法で船を動かしていた古来より、公国から船の往来がある。もちろん皇国ともだ。ラボア様は、『魔香が使われてしまえば、魔力のない王国人は魔物の襲撃があっても魔香を使われているからだと気が付かないだろう。ブロスチは水は雨よりも海の印象のある温暖で陽光に溢れた街だ。街道でも海路でも、知らずのうちに寄る先々で魔香の影響を拡散していくだろう。周辺の各地方都市では訳が分からぬまま混乱状態となる。その隙に王都で何か大事件があったとしても、魔香の影響下にある領地の領主たちは魔物の襲撃に備え自領の警護を固めるために馳せ参じえない。」
「条件って、そんなの、条件さえ合えばどの街でもよかったってことですか?」
「ブロスチでないとダメだという条件も含まれている。ブロスチで魔香が使用されたとすれば、フォイラート領は壊滅しただろうな。ブロスチに不文律がある限り、客が持ち込んで客同士での諍いで使う魔香なら、情報は街を守る騎士団には入ってこない。街に暮らす住民の誰かが巻き込まれてから魔香なのだと探り当てるには、初動が遅すぎる。」
「あの街には不文律があると知っている者ではないと、考えつかないのですね?」
「そうだ。街の特殊さが条件となるのだ。任務は失敗に終わったが、ブロスチで取り逃がした魔香を持つ者がお前の知る未来の世界でアンシ・シにエドガー師が呼ばれる原因となってはいけないとして、確保しようと全力で追っている。現段階で言えるのは、売ろうとした盗賊団ギルドも取引相手も、ブロスチ以北にはいない。公国への国境へと追い込んでいる最中だ。」
「追い込んでさらに南下させておけば、6月の新月の頃までにアンシ・シへは辿り着かないのですね?」
「最悪、国境で確保するつもりではある。心配するな。」
閣下はニヤリと笑って目を細めた。よほど自信がある計画が進行中みたいだ。
わたしはこれまで、1周目の未来とは違う行動をしてきた。出会う人々も、起こる出来事も、同じであるとは言えない。それでも、アンシ・シで起こる未来は変えられないのと心の中に不満が沸き起こる。
どんなに未来を変えようとあがいても同じように事件が起こるのだとすれば、わたしにできるのは、予防ではなく修復のための準備をするだけな気がしてくる。
「わたしの1周目の未来でエドガー師がなぜアンシ・シへ呼ばれたのかまでは判らないですが、王国でも有名な大魔法使いであるエドガー師を辺境の地へ派遣できるほどの権力や財力を持てるのは王族だけな気がします。王族が、その土地と絡んでいるのでしょうか。」
「考え過ぎだ。アンシ・シになぜ王族が必要なのだ?」
エドガー師は1周目の未来ではイリオスやお供の者を連れていなかったように思う。だからこそ、わたし達のような聖堂の治癒師が衰弱するエドガー師の体調を操れるほどに取り込むことができていた。
エドガー師を単独で呼ぶなら、秘密裏に何らかの事件を解決させている。王国の最北の領を守るクラウザー候が直接依頼するのなら、仲介役として橋渡しをする者が必要になる。『貴族』に依頼すると、よほど強固な立場でない限り弱みを握られるだけで得はしない。支配下にある『商人』の利用が一番手頃だけど、伝手を辿る分関わる者も増えるし一番時間がかかる。緊急性を要するなら『国』だけど、公表もされるし介入も受ける。安全でなおかつ損失を避けるとなると、『王族』にクラウザー候が個人的に依頼をした方が早い。クラウザー候には息子3人と娘1人の子供がいたから、絶対的服従を4人ともに誓わせれば、王族にとって損はない。
「王子殿下の妃候補の名簿に、クラウザー候の姫君があるのかもしれないですよ? あるいは、姫殿下の婚約者にはフォイラート公の息子が決まっているけど、本当は姫殿下はクラウザー候の子息がお好きだったりするとか、秘めた恋があるのかもしれないですよ?」
「プハッ、」
閣下は吹き出して、楽しそうにお腹を抱えて笑って「秘めた恋?」と繰り返し、アハハハと止まない笑い声を手で口を押さえながらも漏れさせ、しばらく肩を揺らして笑っていた。苦しそうに「馬鹿げているな、」とまで言いながらも笑うので、相当ツボに嵌った答えなようだ。
そんなに笑わなくてもいいのに。ちょっとした敗北感があって、自分の口から出た発言だという事実を忘れたくなる気分になる。
「クラウザー候のご子息が王国の王子殿下の親衛隊のひとりとは把握しているが、そのような関係ではない。」
断言されてしまうと、ちょっとだけつまらない。
「エドガー師は大魔法使いだ。いくらだって可能性はある。ラボア様としては、今回の取引に魔法使いは関係ないのではないかとお考えだ。」
笑い顔を収めた閣下は座りなおし、小さく咳払いをして背筋を伸ばした。
窓の外の景色が、どちらの窓も緑色に変わる。密林の中にいるように高い木々が天まで届いて空を覆っているような無造作な植樹じゃない。均等に枝葉が刈られて鮮やかな緑色の葉を茂らせた生垣だ。誰かの私有地に入り込んだのだ。
この先にはいったい誰が待っているのか不安になるけれど、閣下が選んだ相手だ。わたしにとっても敵ではないはずだ。
「案外犯人は施政者なのかもしれないなとラボア様は笑っておられた。ブロスチで魔香が使われたとなると、フォイラート公のご子息は王国の姫殿下と婚約関係にあるから統治者として面目は丸つぶれだが、街を一から作り直してしまう良い理由ができる。降嫁される王族の安全のためにという名分で全く新しい街や仕組みを生み出すこともできるのだ。取引に使われる予定だった宿屋は昔ながらの居住区にあり、近くは財を持つ者が暮らす地区だそうだ。不文律も何もかも水を使わず火を放って一掃してしまう方が指揮系統の再編もしがらみもなく行え、街の再建も早い。財を持つ者たちが生き残り街を再建してしまうと、再び不文律は復活してしまうからな。」
頭の中では、『蒼い蔵』といった『家』の皆さんたちがすべて消えて、生き残った平民と街を守る騎士や新たな行政を作り出す官僚だけが残った『ブロスチ』という土地だけが想像できた。
不文律という自治が無くなった街に残るのは、管理だけだ。
「そんな…、冗談ですよね。」
あくまでも想像の話なのだとしても、不文律を作ったからできていた文化や祭礼も無くなってしまう可能性があるのだと思うと、いつかここで暮らせたらと思い入れのある街だけに言葉が無くなる。
「ああ、冗談だ。何もなかったし、起こらなかったからあの街の香りも街並みもあのままだ。いずれにせよ、捕まえてしまえばすべてが判る。ブロスチへもアンシ・シへも魔香を持ち込ませないから安心しろ。」
「閣下は、ブロスチをご存知なのですね。」
「ああ? 王都へ来るまでにあの街も通ったからな。」
意外な答えが返ってきた。
どうやってですか、と尋ねようとした時、馬車が止まった。
「到着したようだな、」
閣下はドアを開けてくれる馭者を待って、「ここは私の馴染みの商団の経営する施設で、取引先相手の中でも上客にしか紹介していない宿屋だ。いや、違ったな、高級ホテルと言っていたか。お前のことはマルルカ公爵家の客人と紹介してある。ここは王都にあっても王都の騎士団の眼が光らない特別な場所だ、」と言った。
ドアの向こうに見えている、細やかな白い花を咲かせた生け垣を進んだ奥にあるのは、宿屋というよりは貴族のお屋敷のような白く品のいい瀟洒な建物だ。公国の観光地にある貴族向けの長期滞在用の療養施設と言われたらそうなのかもと信じてしまいそうな清潔感と開放感がある。
先にタラップを降りた閣下は出迎えた者たちに手を挙げて挨拶して、白い帽子を被った背の高い王国人な従者たちに丁重に扱われて続くわたしを振り返り、「この者には食事を与えてやってくれ。私はしばらく眠る。何かあったら、すべてこの者に対応させてほしい、」といきなり任務を与えて、支配人らしき年配の男性と先に行ってしまった。
ありがとうございました




