29 もう少しだけ、待ってくれないか
「もう朝ですよ、お寝坊さんですね、」
聞きなれた声はカークで、腕を伸ばしてフリッツは、いつの間にか寝室のベッドに眠っている自分に驚いた。ソファアで眠ってしまいそうになって、移動しなくてはと思っていた辺りまでは記憶に残っている。
「もう、いいのか?」
何人かの侍女たちと寝室の重いカーテンを開けて、カークは「当たり前です、大したことありません。休暇はもう終わりです」と胸を張った。
あんな大怪我をしていながら大したことがないというのか。
カークはフリッツの視線に気が付いて「なんです、その表情、信じられませんか?」と不快そうな顔つきになる。
「あまりやりたくありませんが、殿下の鍛錬の相手役になって差し上げてもいいですよ?」
「余計な気を回すな。」
カークが剣が不得手なのは、フリッツはよく知っている。
「では、文句ありませんね?」
「ああ。」
ニヤっと笑うと、カークは、「まずは朝食にしましょう」とフリッツの着替えを用意し始める。
「これは…、騎士団の制服か? 出かけるのか?」
本当に剣の鍛錬の相手役でもしてくれるつもりがあるのだろうか。
「今日の殿下は休日ですから、ゆっくり時間を潰しましょうか。」
カークは答えをはぐらかして「さ、お急ぎください。そうと決まれば一日は早いですから」とフリッツを急かした。
※ ※ ※
「まずはこれをどうぞ。」
「本気なのか?」
「今日は休日ですよ。これを使えば有意義ですよ。」
フリッツに白いフワフワのタオルを手渡しながら、カークはにっこりと微笑んだ。ここは鍛錬場で、騎士たちは午前中の稽古を済ませているのもあって、実質、フリッツたちの貸し切りでもある。
「剣の稽古なら、木剣だって練習用の銅剣だってあるだろう?」
銅でできた練習用の剣は重さになれるための剣なので、刃が殺してあるので叩いて攻撃する。
「あれは扱いの上手い者が叩くとそれなりに痛いですし、関節部を狙えば骨が折れますからね。そんな物騒なものは今日はいらないです。」
「だからって、タオルを何に使うのだ?」
フリッツが首を傾げていると、鍛錬場のドアが開いた。
「殿下、」
ぞろぞろと、ランスたちが現れる。任務の一環なのか、ニアキンやキュリス、ビスターもいる。騎士としてのドレノもいるので、執事服なのはカークだけだ。付け加えるなら、ランスもドレノもフリッツも、騎士団の半袖の夏服を着ていてる。
「やあやあ、遅いですよ。殿下がお待ちじゃないですか、」
カークが軽い口調で言うと、キュリスが挨拶もそこそこに、「呼びに行かせておいてその言い方は何だ、カーク」と指で鼻をはじいた。
「殿下、この通り、訓練教官殿もお呼びしましたから。ご安心ください。」
教官殿とはもちろん、ランスのことだ。
「剣ではなく、なぜタオルなのだ?」
布巾でもなくタオルというのフリッツとしては解せない。すぐ乾くからという理由で騎士団の騎士たちは布巾を常用しているのにと思うと、さらに謎は深まるばかりだ。
にっこりと微笑んで、キュリスが首を傾げた。
「我々もタオルを手にお相手しますから、殿下、逃げていないでタオルで攻撃してくださいね。どんな風に使ってもいいですから、私達に一回ずつでもタオルで触れてください。いいですね?」
「どういう意味だ?」
「私達も殿下をタオルで攻撃します。ほら、こんな風に、」と言うなり、カークは手にしていたタオルをフリッツの頭に被せた。
「私の勝ちです。殿下、痛くないでしょう?」
「そういう問題ではないだろう、」
視界を隠すタオルのおかげで、カークの表情は見えない。数の力で圧倒的に負けているではないか、とフリッツは呆れたけれど、恐らく、カークがしたいのはタオルを使っての遊びではないのだ。
何がしたくてこんな真似をするのだ?という言葉を、フリッツは心の中に留めておいた。早速、答えの切れ端がカークから貰えたからだ。
カークは、フリッツに被せたタオルを取りながら、「昨日の夜、斎火が火の精霊王様の神殿でさっそく術を使ったそうです」と教えてくれた。
反応しようとするフリッツに、カークは、「そのままで、」と囁いた。「もうじき、王城に神官としての挨拶の為に斎火が現れる手筈になっています、」と付け加える。「私達は、接触を希望していません。ですが、表立って理由をお伝え出来ないのです。」
「どういう意味だ、」
フリッツが低く小声で尋ねると、カークは後ろに飛んで、「さあ、殿下、ルールは覚えましたね?」と大きな声で言った。
「勝ったので私が審判役をしてあげます。殿下、くれぐれも反則はしてはいけませんよ、」
「反則とは何だ。」
「魔法は使ってはいけません。それだけですよ?」
私が魔法を使えないのを知っていてそれを言うのか。フリッツが無自覚に眉間に皺を寄せると、カークが「念のため、ですよ、わかってます。お使いになれませんね」と軽い口調で言った。どうやら、フリッツの不快感を煽って攻撃性を刺激したい意図があるようだ。
「タオルだからって、見くびってはいけません。」
手にしたタオルの両端を握ると絞って細くし始めたキュリスとビスターはタオルを棒のように握って、「こうやって持って打ち付けると、結構いたいですよ、」と言いながらじりじりと近付いてくる。表情だけ見ていると、本気で攻撃するつもりがありそうだ。
フリッツはタオルを手に後退りして他の者たちの顔色を窺った。鍛錬場の窓の外には、警備のための兵士が中庭を巡回しているのが見える。
タオルなのは遊んでいるように見せるためか?
私の休日なのだと、ここを使う時に説明しているのか? フリッツはカークがどう言って鍛錬場を開放してもらったのかを考える。そうなると、本当にこれは遊びなのか?
「殿下、脇が甘いですよ、」
ランスは肩慣らしでもしたいのか、軽く握ったタオルを腕の付け根から振り回し、空中で交差させている。
あとは動いていないのは、ドレノとニアキンだけだ。情報を持っているのは、ランスとキュリス、ビスターだと思った方がいいのか?
本気の遊びとして、私は逃げた方がいいのか?
躊躇いながらフリッツがタオルを手に間合いを取っていると、キュリスの後方から、タオルを手に回転しながらドレノが飛び上がったのが見えた。キュリスの背中を蹴って飛んで、フリッツめがけて飛び込んでくる。
剣の代わりにタオルを使う意味とは何なのだ?と思いつつタオルを持つフリッツは手を突き出した。勢いを無くしたタオルは手元から項垂れていて、攻撃には程遠い。
しまったと思った瞬間、バシッという派手な音をさせてタオルが肩に打ち付けられた。
「ドレノの勝ちですね、」
背中を擦るキュリスを上から撫でながら、カークが笑った。
何かを告げるのかと待っていたのに、ドレノは一仕事終えたとでも言いたそうな顔つきで、タオルを手にさっさと鍛錬場の壁側に歩いて行ってしまった。窓から死角になるようにしてしゃがむと、タオルを折りたたんでクッション代わりにして座っている。
情報をくれるわけではないのか?
面喰いつつフリッツが視線を向けると、ランスの後方にいるカークは「残念でしたね」とだけ言った。
「さ、殿下、集中してくださいね。」
ビスターとキュリスは両手でタオルを広げて持ったままで、背後からニアキンが手にしたタオルを振り回しながら近付いてきた。
ふにゃふにゃと柔らかいタオルは武器にできない。武器にするなら、魔法が使えないといけないな。
フリッツはタオルを持ち直した。端を両手で握って広げて楯のようにして使う他、現時点でタオルを有効に使える方法が思い浮かばない。
せめて魔法が使えると、タオルを固めて剣にして武器にする方法だってあっただろうに、と思えてくる。タオルの先だけ燃やしてトーチの代わりにして振り回せばやすやすと近寄ってこれないし、石や砂を包んで持てば攻撃力が増せそうだ。
でも、フリッツは現段階で魔法が使えない。魔法を使わずにタオルだけで戦う方法を考えなくてはいけない。
近寄ってくるニアキンからタオルを振り回すだけでびゅんびゅんと風を切る音がするのは、よほど腕に力を集中させて重く早く動かしているからだ。
さっきドレノに撃ち込まれたのよりも被害が大きそうだ。フリッツはタオルを受け止めると決めて、両手でタオルを持って広げた。広げたタオルで衝撃を包み込んで逃がすのが一番正解に近そうだ。
「さっさと済ませます。私はこういう遊びは苦手ですから。」
口ぶりとは裏腹に、ニアキンは大きく振りかぶって振り回していたタオルを一気にフリッツへ向けて振り下ろした。
広げたタオルで受け止めても、タオル同士とはいえ、手に重い衝撃がやってくる。ニアキンはすぐさま鞭のようにしならせて、タオルをフリッツの頭に柔らかく乗せた。
剣だと、勝てない。実力の差を思い知らされる。
「斎火と呼ばれる神官は、『ニコール・ティリニー・マルルカ』と名乗りました。元は聖堂に所属していた軍人だそうです。」
ニアキンはかがんでフリッツに囁くように告げた。「ドレノは『深くは話せない』と言いました。『レノバと私の恩人だ』そうです。」
「だから、あの態度なのだな?」
「そうです。気を悪くなさらないでください。」
ニアキンは簡潔に言って一礼をすると、ドレノとは別の、鍛錬場の入り口の方へと去って行ってしまった。
「さて、残ったのは、私達ですね、」
ランスやキュリスたちがタオルをしならせながら近付いてきた。
「殿下は、タオルしか武器を持っていないと思っていますね?」
「しかも、魔法で強化して使おうと思っている。違いますか?」
目を細めてフリッツを見ると、ランスは「それを油断と言うんですよ、」と体を回転させていきなりフリッツの脇腹に向かってタオルを打ち付けてきた。
咄嗟の判断で避けようとして腕に当たる。
「逃げないんですか?」
ランスの笑う顔を見て驚くフリッツに、ランスは「同じように振り回して相殺する、とはお考えにならないのですか?」とニヤニヤと目をさらに細める。
「止せ、」
フリッツは頬を伝う汗を手の甲で拭った。妙に、鼓動が早くなる気がしていた。
この者たちは、真剣を使っていないだけで、実質決闘をしているのだ。
気が付いてしまうと、言動は慎重になってしまう。
体感として伝わってくるのは、怒りだ。私を試そうとしているのではない。私を、諦めようとしている。そうフリッツは感じていた。
思い込みだ、早とちりだと思おうとしても、眼差しから伝わってくる熱気は、想像以上に深刻に思えてくる。
「今回斎火として見つかった神官は、先日、殿下が王城でお会いになった魔法使いだと思われます。王女殿下の部屋にドニが隠れるきっかけを作った者たちのひとりでもあり、王女殿下が聖堂の集落に向かわれた時、居合わせた人物でもあります。どういう心変わりがあったのかはわかりませんが、行動は説明できなく不可解で、常識的であるとは言い切れません。マルルカ公爵家の令嬢とはいえ、裏があると思われます。私達は、公国の一国民が王国に亡命を前提で斎火と打ち明けた、とは思っていません。何らかの意図があって王国の中枢に乗り込んで来ようとしている、と考えています。」
フリッツは真剣なランスの瞳を見つめるしかなかった。目を逸らせば、思いに応えないと言っているような気がして、動かせない。
コルとの関係はそれだけではない。妖の道でも出会ったと言ってしまうと、コルの立場は今よりももっと悪くなる。
どうしてなのかフリッツには、今は言うべき時ではないと思えた。
「殿下、今回の一連の出来事の黒幕として、この者が関わっているのではありませんか?」
ランスは何も言わないでいるフリッツを見て、小さいけれど明確な発音で言った。「疚しさのある奸婦を、神官と認めてもいいのでしょうか、」
「ランス、」
言いすぎだ、と咄嗟に言いかけたフリッツは、自分を見ているのはランスだけではないのだと気が付いた。キュリスもビスターも、カークも、フリッツがどういう反応をするのかを見ている。
正確で、悪印象を覆す道しるべになるような説明を簡潔にしなくてはならない。
コルと直接話した印象として、独特な感性があっても悪心があるようには思えなかった。
ただ、妖の道で初めて出会った時と、聖堂の集落で出会った時の印象は確かに違う。
変わってしまったきっかけは何だ?
フリッツはコルにかかわるすべての記憶を掘り返して比較する。ラナが言っていた言葉や、四阿で聞いた言葉、ハリセンボンの指切り…。
「あの者は、冒険者だ。」
フリッツは記憶を辿って、答えを見つけ出す。
「月の女神エリーナ様と冒険者は誓約をするそうだ。『汝、親を泣かすなかれ、神に背くなかれ、子を泣かすなかれ、』と。王国の王族を誑かし中枢から腐らせようなど奸計を巡らすなれば、誓いに反するのではないか。」
目を見開いて息を呑んで、ランスはにっこりと表情を柔らかく作り変えると、「判りました」と上擦った声で言った。一瞬にして瞳の色が澄んだように見えた。
「そうかもしれません。」
ほっとした様子のキュリスとビスターの肩を軽く叩いて、ランスは軽く口角を上げると一礼をして、ドレノとは反対側の壁際へと行ってしまった。
「残ったのは、私達ですね。」
絞ったようにして縮めたタオルを握りなおすと、キュリスとビスターはフリッツを囲んだ。
ふたりがかりか。一度に2方向から打ち込まれるのは、タオルはあまり痛くないと判っていても避けておきたい。フリッツにできるのは、せいぜい両手で広げたタオルでキュリスとビスターと距離を取ることぐらいだ。
「これ以上近寄れないとお思いですね、」
キュリスは楽しそうに笑って、フリッツの広げたタオルの中にわざと胴体を当てるようにして包まれてしまった。フリッツは不本意にも、両手をキュリスに拘束されてしまった。
「ほら、こうやって囮になれば、こうやって攻撃できるのですよ。」
握っていたタオルを広げてフリッツの頭に被せ目隠しすると、ビスターはそのままフリッツを背後から両手で抱きしめた。
「離せ、」
白い柔らかなタオルは、厚みがある分、繊維の向こうも見えない。
誰かが、近付いてくる気配がする。
「殿下、」
囁いてくる声は、カークだ。
「殿下、ラナ様はもう王位継承権があるだけの臣下とおなりになりました。」
「離せ、」
「殿下を蔑ろにする者を、いつまで自由にさせておくおつもりですか、」
言葉の意味を、フリッツは理解したくなかった。
その言葉を発しているのがカークなのだという事実も、フリッツは知りたくなかった。
一番の忠臣で、一番の理解者であるカークが、ラナに対して怒りを抱いている。
フリッツを大事に思ってくれているからこその怒りだ。
面と向かって問えない言葉だからこそ、顔を隠し、囁いて問いかけている。
自由にさせておくという言い方はかなり遠回しだな。フリッツは心の中で呟いた。ラナ様に盲目過ぎる、と、日頃の口の悪いカークなら言いそうだ。殿下は甘い、とも、言いそうだ。
私が王子でなかったなら。ラナが王女でなかったなら。私達が破邪の聖剣の正当な使い手候補でなかったなら…。
フリッツは、もう、運命から逃れられないのだと知っている。
ラナが、陰火でなかったなら、単なる兄妹喧嘩で済んでいたかもしれない。
魂の半分を取り込まれたという結果始まった物語は、ラナと、私だけの秘密だ。たまたま私がアートと私という二つの魂を持つ者だったから今現在生きているだけで、そうでなかったら、ラナは人の魂を食う人以上の存在ではないか。そんな秘密を、言えるわけがない。
ラナを哀れだと思っていると、言えるわけ、ないじゃないか。
フリッツは知らず知らずのうちに、溜め息をついていた。
騎士としての在り方以前に、兄として、言ってはいけないと判っている。秘密の為にはこんな風に誤解されてしまうのだとも、判ってしまった。
「呆れてしまわれたのですか?」
ふんわりと、頭から被せられていたタオルが取られて、キュリスもビスターも拘束を止めて離れてくれた。
「いいや、」
自分が何を考えているのかを、知ってしまっただけだ。フリッツは視線を落とした。愛おしい存在だった妹を、いつの間にか、哀れな存在だとして必要以上に特別扱いしていたのかもしれない。正義も善悪も、いつの頃からか、見失っていたのかもしれない。
「殿下、そんな顔、なさらないでください。」
悲しそうな顔をしていたのは、カークも同じだった。
目の前にいるのは敵ではなく、私の味方であってほしい人たちだ。
フリッツはカーク、キュリス、ビスター、ランス、ニアキン、ドレノの姿を改めて見た。
「もう少しだけ、待ってくれないか。」
声が震えないように、ゆっくりと、でも少しだけ胸の痛みを感じながらフリッツは答えた。
「もう少ししたら、諦めがつくんだ。」
フリッツのタオルで崩れた髪を、カークはただ黙って、優しく撫でて直してくれた。
ありがとうございました




