20 悪い魔法を食べると、お腹が痛くなる
旧城のフリッツたち王族の居住区にある部屋まで見送られ、「見舞ったついでにカークに土産を渡してきます」と言ったキュリスたちと別れると、去り際にランスが「明日、改めてお話があるそうです、」と囁いてきた。
「今日ではないのか?」と囁き返すと、「今日は休日だと申し上げたでしょう?」と言われてしまう。
休日という名目で動きを封じるつもりか。
フリッツは一呼吸して「わかった」と答えておいた。
一晩あれば、調べものも情報収集も、しようと思えばいくらでもできるのだ。
つい先ほど会ったブノワーの話を思い返す。
『危険物を処理するために呼んだ魔法使い』は王都の噂話として『斎火が火の精霊王様の神殿に現れた』と立ち会った兵士に話し、『すごい魔法使いだから一度お目通りになるといい』と謙遜したそうだ。報告で知ったのでブノワーはまだ直接神官の顔を知らず、有益な者なら早々に伝手を作ったほうがよかろうという判断で急いで王城へやってきたらしかった。
「火の精霊王様の神殿に確認に行かせたら本当にいたそうですから、さっそくご報告に上がったのです。」
嬉しそうなブノワーの様子に嘘ではないのだろうなとフリッツは感じたし、ランスたちも信じると決めたようだった。
王都に現れた斎火はコルなのだろうか。
聖堂が、斎火という価値が判っている魔法使いをやすやすと手放すのだろうか。
フリッツとしては、詳細は不明なので慎重に対応した方がよさそうだとしか現段階では思えない。
明日には真偽は判るだろう。
ラナの件も、明日まで待てば、父・アルフォンズは今日何が行われたのかを隠さずに話してくれるのだろうか。
ランスは黙るフリッツの顔をじっくりと見た後、「ごゆっくり休まれてください」と言って去っていった。暗に「動くな」と言われた気がするけれど、フリッツは気のせいだと思うことに決める。
自室に戻ったフリッツは、侍従たちに申し付けて早々に浴室へと向かった。
傅く侍従や侍女たちの中には、カークもドレノもいない。気の休まらない煩わしさは、今はいらない。一人になって頭の中の情報の整理もしたかったし、気持ちを切り替えておきたいと自身の騎士団の夏服姿が映る鏡を見て思ったからだ。
※ ※ ※
フリッツ専用の浴場にはひとりにしてほしいと断ったのもあってフリッツしかおらず、一人きりの時間だった。
しかも今日はあれこれとドアの向こうから話しかけてくるカークがいないので静かだった。
入浴を済ませて着替え、風のある窓の前のソファアに寛いでいると、部屋の隅に白銀色の猫の姿が見えた。
蹲る白銀色の猫は金色の瞳でフリッツを見つめ、「ナー」と弱弱しく鳴いて身を震わせても動こうとしない。
「どうしたんだ、お前。」
おとなしい白銀色の猫は、消え入りそうな声で「ナー」としか鳴かない。
綺麗に水で洗って、本翡翠を白銀色の猫に渡してみる。
「これが必要なのか?」
しゃがんだフリッツを見上げたまま、か細い声で<違うのが欲しい>と言った。
<ジーブル、緑の石は少しだけ好き。黄色い石、もっと好き。>
そう言われても、フリッツは輝石を他に持っていない。
<石はまた今度探してみよう。代わりに、何かしてやれることはないか?>
ジーブルは震えていて、じっとフリッツを見上げている。
こんな時は抱きしめて温めたほうがよさそうだ。
フリッツは手を伸ばして白銀色の猫を抱き上げた。
嫌がりもせずにフリッツの腕の中に抱かれてくれたジーブルは、漸く<ジーブル、弱い。フーより弱い>と女神の言葉で話してくれた。
よくわからないな。
弱いとか強いとか、基準はどこにあるのだろう。
フリッツはジーブルと話をしてみたいと思った。猫のような何かとぼんやりと存在を認識していたジーブルは、猫のような人間の姿になったり白銀色の猫に変わる。精霊の王であるダールや精霊となってしまったキイホ博士と接してみて精霊なのだと判ってきたし、どうやらフリッツに力を貸してくれている存在なのだとも認識し始めている。
<強くなりたいのか、お前、>
フリッツ自身も、強くなりたい。魔法が使えるようになりたいし、剣の腕を認められたい。
<私たちは、仲間だな。>
「ナー」と鳴いて、ジーブルは猫の姿のまま、顔をフリッツに擦り付けてくる。
<今日は猫の姿でいたいのか?>
「ナー」
<逃げないのか、>
「ナー、」
フリッツの胸に頭を寄せてくるジーブルはとても小さくて弱弱しくて、視覚に入るようになった頃の、大きな姿をソファアに隠して様子を伺っていた猫人間と同じには思えなかった。
<フリッツ、あったかい。>
いくら風が吹き抜けていても季節は夏だ。暑くないのかと思いながら、フリッツはソファアに白銀色の猫を連れてきて座った。膝の上に置いて撫でても、ジーブルはおとなしくされるがままになっている。小さな白銀色の猫はとても軽い。
<ジーブル、>
<フリッツ、守りたい。ジーブル、弱い。>
<弱くなんかないさ。>
<ジーブル、力が足りない…、>
目の前で消えた驚きを思い出す。精霊王のマントを探してくれたのが影響しているのだろうか。
<あまり無理はするなよ。>
フリッツが撫でるたびに、ジーブルの美しい白銀色の毛並みにきらきらとした光が集まってくるように見える。
光が反射しているのか?
フリッツは窓の外を見て、暮れていこうとする空を確かめて、違う気がするなと思う。
太陽の光のような輝きというよりは、ジーブル自体が持つ輝きに思えてくる。
ゆっくりと「ナー、」と鳴いて、心地よさそうに撫でられていたジーブルは<ジーブル、フリッツの役に立ちたい>と顔を上げた。
私はジーブルの髭のおかげで精霊を見えているんだ、役に立っているよと伝えようとして、フリッツは、出発前に本翡翠を持たせてくれたのは何かの意味があったのだろうかと思えてきた。
<この石を出かけに渡してくれただろ? 何か理由があるのか、>
<ジーブル、外へ行けない。器に乗って、フリッツと外へ行く。>
本翡翠に姿を隠して一緒に出かけてくれた、と言いたいのだろうか。まるで精霊憑きの魔石のようだ。フリッツはエドガー師とアオイ姫を思い出して、ジーブルも人の姿になれるのだろうかと想像してしまった。意識したことはなかったけれど、猫のような何かとは精霊で、姿かたちから地属性なのだろうなと見当もつく。地の精霊王ダールの眷属であるのだ。
黄色い石のほうが好きというのは、緑の石は相性がよくないとでもいう意味なのか。
<器を持っていれば、ジーブルが一緒に来てくれるのか、>
白銀色の猫は「ナー」と鳴いた。
<ラナを探しに行った時も、今日一日も?>
<ジーブル、フリッツ、守るだけしかできない。フー、フリッツのために戦った。>
<戦う?>
フリッツは首を傾げた。フリッツのために戦ったフーとは誰を差すのだろう。
<フリッツ、フーが守った。>
<誰かって誰だ?>
もしかして、あの白っぽい鎧を身に着けた赤銅色の瞳の猫人間だろうか。
<フーは、ジーブルの家族。フリッツ、フーに会ってる。>
<廊下にいたあのジーブルに似た精霊か。>
「ナー」と、ジーブルは答える。
火か。赤銅色の瞳を思い浮かべながら、フリッツはジーブルの金色の瞳を見つめた。
白銀色のジーブルは、雪原に風が舞い上げた薄氷が光に輝く色だと思えた。とても美しい名前だな。そっと、目を細める。
<フー、強い。悪い魔法を食べた。>
頭を撫でると、ジーブルはフリッツを瞬きもせずに見上げた。
<ジーブル、フーより弱い。悪い魔法、食べると、お腹、痛くなるから食べない。>
ジーブルは悲しそうに口を噤む。
お腹が痛くなるような悪い魔法を食べるからフーは強いのか。
赤銅色の瞳のキリっとりりしい猫人間はジーブルの家族で『フー』と言うのか。
しかも、あの黒いのはやはり悪い魔法なのか。
そんなものは食べなくてもいい、と言いかけて黙る。あの場には、フリッツも指導教官役のランスも、風砕の剣を操るニアキンもいたし、聖水を持つキュリスとビスターもいた。
そんなものは、虚無に帰してしまうから、大丈夫だ。
フリッツは白銀色の猫を撫でながら考える。
悪い魔法を食べる精霊とは、どういった類の精霊なのだろう。
フリッツは逸る気持ちを抑えながら、やさしく白銀色の猫を撫でてみる。
<ジーブルの家族は、もしかして他にも沢山いるのか?>
母クララの部屋に暮らす猫のような何かたちと、時々中庭付近で見かける猫のような何かとを連想する。話せると想定していなかったのもあって、フリッツはお城に暮らす猫のような姿をした精霊たちと話せると今まで考えてみた機会などなかった。
そうか、公用語で話せばいいのか。
<このお城、みんなで棲んでる。ジーブルの兄弟、ジーブルの両親、みんな家族。>
それはいつからなのだろう。
精霊と人間の子である半妖が、人間として生きて程よく輪廻の輪に帰るか、精霊として生きて長い時を経て輪廻の輪に戻るかを決めるとして、どちらを選んだのかを知っているのはそれ以上に生きている者しかいない。
イーラが精霊と人間の子で、精霊に分岐したと言ったジーブルは、イーラが人間だった頃を知っているという理屈になる。
髪の毛を渡し名乗りあった時、ジーブルは『ジーブル・トリ・ヴァニス・スヴィルカーリャ』と名乗った。スヴィルカーリャはこの国の名だ。ヴァニスとは王都の名だ。
ジーブルは、この国名と王都が苗字なのか?
この国と、契約しているのか。
閃いた答えに戦慄して、心の中を鎮めるように、フリッツはやさしく白銀色の猫を撫でる。
領主と契約した守護精霊は土地と契約している。
土地と契約しているから土地の名を名字とするのなら、ジーブルたちは家族で守護精霊だ。
ジーブルはこの国とこの王都と契約している精霊のひとりだ。
<フーもか?>
確認するように尋ねると、ジーブルはフリッツを見上げた。
<フーは、外が好き。門番や兵隊が好き。>
<ジーブルよりも強いのか?>
<フー、人間の道具、好き。道具、自分で作る。ジーブル、真似っこ出来ない。ジーブル、弱い。>
<そんなことはない。>
真似ができても、あの猫人間とジーブルは違う生き物だ。同じ結果になるとは思えない。
<フリッツ、あの子に近付くと弱くなる。あの女の子のところへ行ったらダメ。>
<あの子?>
<あの女の子、フリッツのいない間に取り込みすぎた。魔力、いっぱい使う。フリッツが近付くと、フリッツ、取られる。>
<取り込むとは、もしかしてラナか。>
<あの子、ジーブルの家族、飲み込もうとした。逃げている。隠れているけど、フー、怒ってる。結界があって助けに行けない。>
<ジーブルは?>
<ジーブル、器があるから大丈夫。フリッツ、大好き。フリッツ、ジーブル守る。>
いない間とは、フリッツが王城を空けていた期間を言うのだろう。
ラナがジーブルたち精霊の家族を陰火の力で取り込もうとして失敗したけれど、ラナの部屋か周辺のどこかに隠れていて、フーが助けに行きたくても結界があって入れないので閉じ込められている、という状態なのか。しかも、フリッツが近付くとラナに魔力をとられてしまうので、ラナの近くへ行かせたくないと、魔石に隠れることができるジーブルは考えているようだ。
フリッツがラナを拒絶して魔力のつながりを立たない限り、この先もずっと、ラナがフリッツの魔力を使い続ける状態が続くのだ。
<…母上の部屋にいるジーブルの他の家族たちは無事なのか?>
<守護精霊の印、ある。あの部屋、大丈夫。主様から特別にお力をいただいている、あの部屋、安心。>
やはりジーブルたちは守護精霊なのか。
白銀色の猫の頭を撫でると、耳が立った。
<ジーブルも、守護精霊なのか?>
<ジーブル、フリッツ守る。ジーブル、フリッツと契約した。>
嬉しそうに「ナー」と鳴いて、ジーブルは<ジーブル、特別。フリッツ大好き、>と膝の上に座りなおした。
きらきらとした輝きのある髭をピンと張って、白銀色の猫は<フリッツ、力、くれた。いい人、>と嬉しそうに言った。
力をくれる?
撫でていただけだが、何か効果があるのか。
<ジーブル、フリッツ、守った。ジーブル弱いけど、フリッツ守った。>
得意そうに言うと、白銀色の猫はひょいっとフリッツの膝から降りた。
とことこと歩いていくと、執務机の影へ潜んでしまう。
魔石の中に潜んでフリッツを守るというのなら、ジーブルは魔石の中から魔法を使ったのだろうか。
フリッツが出かけていたのは学術院と太陽神の神殿とバルと地の精霊王の神殿で、どこも魔法が使われたような感覚はなかった。
精霊憑きの魔石は、精霊を開放すると精霊は戻らない。魔石の中に閉じ込めたまま使うのだとアンシ・シでは学んでいた。
ジーブルは出たり入ったりを繰り返している状態で、自分の意志で魔石を器の代わりに使っている。
魔法が使われた形跡が感じられないのにジーブルが守ったと主張しているのなら、ジーブルはフリッツの身代わりになって攻撃を魔法でそらしていたのかもしれない。
攻撃を攻撃としてやり返していないから、弱いと言っているのか?
フリッツは哀れに思えてきていた。
ジーブルにできることをしてくれているのに、私は知らないまま、ジーブルに守られていた。
<ジーブル、先ほど私を守ったと言ったのは、>
フリッツはジーブルがいる方向を見つめながら尋ねてみる。
<私の盾に、なっていてくれたのか、>
沈黙したままのジーブルの耳が、執務机の角から見えた。
<ジーブル、守ってくれていたのだな?>
フリッツが知らぬ間に拾ってしまった悪い魔法をジーブルが追い出していたから、本翡翠を入れた皮の小物入れの外に黒い汚れとなっていたのだろう。
偶然キュリスが拾ってしまったのを、フーが回収したのだ。
気が付いてやれなくてすまない。
そう言いかけてふさわしくない気がして、フリッツはジーブルに<ありがとう>と伝えていた。
くるり、と白銀色の猫が回転して飛び上がったのが見えた。
執務机の角から顔をのぞかせて、猫のような何かが「へへへ」と笑った。
※ ※ ※
ソファアを立ちあがったフリッツからは、執務机の影から除く猫のような何かの目と耳とが見えた。
じっと上目遣いに行方を追う目は、どこへ行くのとでも言いたそうな色だ。
<ジーブル、ここで待っていろ、>
下手に連れて行くと、フリッツの身代わりになると言って無理をしそうだ。
フリッツは、絶対にラナは私には何もしない、と妙に自信があった。
<封印の影にいるのだろう、お前の家族が。>
ラナの部屋のある方角へと顔を向けて、フリッツはひとり呟いた。
部屋を出たフリッツに、警備の近衛兵たちが近寄ってきた。
「休日の散歩だ、気にするな。」
ついて来ようとするのを振り切って、フリッツは部屋を出る。
すぐにキュリスやビスターに伝達されてしまうだろうという予感はあった。
ランスやニアキンも、カークもドレノも、フリッツを追いかけてくるかもしれない。
そうなる前に、ジーブルの家族を見つけよう。
「見に行くだけだ。いるかどうか、家族を、見に行くだけだ。」
そう小さく呟くと、フリッツは表情を引き締めた。
ありがとうございました




