18 これはけじめなのだ
「声が聞こえた気がしましたが、フリッツ…?」
ランスはフリッツをしげしげと見つめた後、そっと撫でるようにして手の甲でフリッツの額や頬に触れた。
「王城内とはいえ、魔法が使われたようです。意識はありますか? 体に、影響はありませんか。」
「何もない。」
いつになく心配するランスの対応は過剰に思え、フリッツは少しばかり眉間に皺を寄せた。
キュリスとビスターも服の埃を払うそぶりで体に異変がないか意識して確認している。
「子供扱いするな。」
「何か言いましたか?」
くすりと笑って、ランスは「なんともなさそうですね」と安心した表情を見せた。
「ニアキン、何を見たのか話せますか、」
「術者がいたのですか?」
「あの声の主か、」
キュリスは閃いたように声を高くした。
ちらりとフリッツを見て、ニアキンは「精霊だと思います」と答えた。
ラナの一件があるのでどういう反応をするのかを確かめたのか。フリッツは慎重なニアキンらしいなと思う。フリッツ次第で、その先を話すかどうかを決めるつもりなのだろう。
フリッツは黙って頷いた。
「見間違いでなければ、白い…、人ほどに大きな精霊がいました。」
ニアキンは安心したように頷き返し、フリッツの瞳を見たまま続けた。フリッツも見ていたのだとニアキンに確認されていると判る。
「精霊が術を使ったのか?」
「教官殿とキュリスに取り付いた悪しき精霊を摘まんで剝がし、殿下から距離をとった後、始末したのを見ました。」
「私にか?」
驚くキュリスは目を見開くばかりのランスと顔を見合わせた。
「正確には、キュリスから剥がれたものが教官殿にくっつき、体に入りこもうとしたのを捕まえて阻止したと言えます。」
フリッツとしては、何かの気配を感じてはいたけれど目を閉じてしまっていたので細かくは判らない。
「さっきのは言葉だろ? 何と言ったのか聞いたのか、」
「それが、公用語だったというぐらいで、」
「ニアキン、公用語は使えないのかい?」
ビスターが呆れたように口を挟んだ。「君は公爵家の人間だろ、」
「聞き取れるが、なんとなくでしかわからないのだ…。皇国語と公国語の方が判る。」
「ああ、市井から情報を収集しているのだったな」と、キュリスが納得する。
「断言はできませんが、悪い精霊ではないようですね。」
ランスはほっとしたように結論付ける。フリッツとしても、ジーブルに似た存在を悪い精霊と思いたくはない。
「こういう時、魔法が使えないのは痛いです。見えない者は追えません。」
「だけど、王城内に精霊がいてもいいのか? 結界はどうなっているんだ?」
キュリスが首を傾げても、誰も、答えを持っていない。
猫人間、いや、猫のような何かは私の部屋にもいる。
フリッツは心の中で呟いて、猫人間が去っていく後姿を目で追いかける。
あそこにまだいるのだと言いたくても、言ってしまえば追いかけてしまう理由となる。追ってしまったがために悪とされるわけにはいかない。
悪ではないのだからこの状況では追ってはいけないと思っていても、王城内にいるジーブルの他の白銀色の猫のうちのどれかかもしれないなと思うと、どこの場所へ帰るのかが知りたくなってくる。
白い後ろ姿は、もう、廊下のかなり先へと消えていこうとしている。
「何か、ご存じなので?」
キュリスが黙ったまま視線だけ動かして追いかけるフリッツにあえて話しかけてくる。フリッツは何か知っていると勘が働いているのだと思えた。
気が付くと、ランスたちもフリッツを見ていた。
答えを期待されているのをわかっていながら、フリッツは答えずに無言で執務室への階段へと顎を向けた。
※ ※ ※
「なあ、ニアキン、聞いたんだろ。あの精霊が何を言っていたのか言ってみろよ、」
先頭をビスター、ランス、フリッツ、と順番が変わり、キュリスがニアキンに絡むようにして聞き出そうとしているのを背中に聞きながら、フリッツは無言のまま執務室へと向かった。階段を上っている際、ランスやビスターが何度か振り返ったのを気が付かないふりをしてやり過ごす。
ニアキンもフリッツが聞いていると意識してなのか、キュリスに問われても聞こえない素振りで流している。
キュリスは、どうしても知りたいようだ。「聞き取れた言葉をそのまま口にしてくれたらいいからさ、」とまで譲歩している。
苦笑いをしているニアキンは、「間違っているかもしれない」と言って明言を避ける。
ビスターやランスは、キュリスを止めず、むしろニアキンが何を言うのかを聞き耳を立てているような気配すらする。
キュリス、いい加減にしておけ、と言いかけて、フリッツは黙る。
どうしてそんなに知りたいのか。
フリッツとニアキンが知っていては困るようなことをもしあの精霊が言ったのだとしたら、それはどのような表現で伝えられたのかを知りたいからだ。
近衛兵であるキュリスもビスターも立場上、ある程度は女神の言葉を知っている。ましてや、文官から武官へと転身した博識の武官であるランスもこの場で知ったなら、容易く翻訳も可能なのだ。
どうしてそこまでして知りたいと思うのか、フリッツは自分の言動と、猫人間の行動とを遡って考えてみる。
猫人間はキュリスとランスに触れたようだ。
ニアキンは、触れて、悪しき精霊を捕まえたと説明していた。
フリッツはふと、『後ろめたいからだ』と閃いた。
悪しき精霊に付け込まれるようなことをしたのだと、キュリスが思ったのだとしたら。
キュリスは、よりによってこんな日に、と言った。
フリッツにとっては休日という、特別な『こんな日』という意味なのだと思っていた。
フリッツへの計らいではないのだとしたら、言葉の影に、フリッツではない別の誰かがいる。
後ろめたいと思えるような裏切りはフリッツに向けられている。
こんな日と言うからには、今日は、キュリスたちにとって特別でフリッツにとっても特別な何かがある日なのだ。
だんだんとキュリスの声にイラついていく様子が感じられたのもあって、フリッツは執務室の近くの廊下の角近くまで来て立ち止まった。この角を曲がれば、警備の兵士や行き交う文官の注目を浴びてしまうので、気軽に話ができなくなる。
「キュリス、」
フリッツが立ち止まると、先に角を曲がりかけていたビスターとランスが戻ってきた。
「殿下? あ、しつこかったですか?」
ニアキンの肩を抱いて指で脇をつついているキュリスは、どう見たってかなりしつこい執着心を体現している。
「私は聞いていた。何を言っていたのか教えてもいい。その代り、答えろ。今日、私が学術院へ出かけた本当の理由は何だ、」
「殿下、」
ランスが小さく首を振って、フリッツに黙るようにと圧力をかけてくる。
「理由って…、陛下のお使いですよね?」
状況を読んで無難にやり過ごそうと考えているのか、キュリスはおどけた表情で肩を竦めた。
「公用語で『変なものを王城に持ち込むな』とあの精霊は言った。」
フリッツは引く気はなかった。勘が正しければ、父・アルフォンズに会う前に抑えておいた方がいい類の情報だと思えた。
「今日学術院へ出かけた本当の理由をニアキンは知らないのだろうな。私も知らされていない。知っているのは、隊長であり訓練教官役のランス、近衛のキュリスとビスターだな?」
ランスは澄ました顔のままで見守り、キュリスとビスターは顔を見合わせている。
「学術院への外出は私が王城にいてはいけない理由だったのだとして、留守番のカークに関連する出来事かと考えていたが、カークではないのだな?」
確かめるように問いかけると、図星なのかキュリスはきまりが悪そうな顔になった。
「よりによってこんな日に、と言ったな? その言い方をするとなると、何か重要な決め事か、」
フリッツが念を押すように尋ねると、ビスターがキュリスの脇を肘で軽く突いた。
よりによってこんな日と言うのなら、他の日ではいけない理由がある。
邪魔になるような障害は少しでも避けた方がいいとして、フリッツは王城から出されている。
フリッツという王子である存在が邪魔であり、王子の影響を排除して進めなくてはならないこととは何かと考えると、王族かそれ以上の存在が関わってくる。
地竜王の神殿や王城の礼拝堂の工事現場に黒い甲虫があっては不吉であるとされるような大事なこととは、祭礼だ。
キュリスとビスターは、王城全体を守る騎士であるニアキンと違って、王族の身辺を守る近衛兵でもある。
「ラナ、だな?」
ランスをまっすぐに見ると、ランスは暖かい表情で一瞬だけ目を細め真顔に戻った。まるで、フリッツが言い当てたと褒めているような、喜ばしい感情をうっかりと表に出してしまったように見えた。
「ラナにとって、特別な日…、もしかして、ラドルフが来ていたのか、」
フォイラート公爵家の嫡男ラドルフとの婚姻についての進展があるのかもしれない。王族を脅迫して操ろうとしたラドルフとフリッツを生き埋めにしようとしたラナが罰として白い結婚が決まったのは知らされていても、もっと先の話だと考えていた。
何も言葉を発しようとしないランスもキュリスもビスターも、そっと目を伏せてフリッツの視線を受け止めないままでいた。
「私を王城から連れ出すのが、お前たちの今日の任務か。」
無言のままで、否定すらしてくれない。
立ち会わせられないという理由で王城から離されていたのかと思うと、フリッツとしては憤りよりも空しくなってくる。
ラナはどこにいるのだろう。ラナは、どうしているのだろう。
「ラナに、何をするつもりなんだ?」
震える手を握りしめて、フリッツはランスを見つめた。
頭の中に、『双方が整い次第、…来月には、竜魔王退治の旅が始まる前に嫁がせるつもりでいる』と言った父・アルフォンズの声が蘇る。具体的にいつだと日にちを言わなかったのは、言えばフリッツが行動を起こすと見越しての発言だったのかもしれないと思えてくる。
「まさかとは思うが、成婚式を今日明日で行うつもりなのか、」
いくら罪人とはいえ、心を殺すような罰の与え方にしても、早急すぎる執行にしても、あまりにも無情すぎるとフリッツは思えていた。
「…ご安心ください。殿下、私たちは、成婚式とは伺っていません。」
黙ったままのランスとキュリスに変わって、ビスターが優しい声で答えてくれた。
「ただ、『これはけじめなのだ』と伺っています。」
「ランス、」
何がけじめなのかと聞きたくて待っても、ランスは答えてくれなかった。
「教えてくれ。これは誰が考えたんだ? ランスか、」
無言のままランスは首を振って、フリッツを見た。
キュリスも、ビスターも、ニアキンも、視線を向けても黙ったままだ。
「答えてくれ。」
フリッツが魔石学を収集するティオ博士に興味を向かされるきっかけとなったのは、父・アルフォンズだ。
振り返ってみれば、公正さが求められる聴聞会へ国王が推薦する学者にしては、事情が特殊なティオ博士はあまり最適な人材ではないと思えた。学術院に出向き接してみても、ティオ博士の言動はかなり異質だった。キイホ博士と起こした騒動も加われば、彼らは『不敬で危険な言動をする学者たち』と分類され隔離されるかもしれない。
本当の狙いは討伐の旅で使えそうな情報として学術院にある竜穴の紹介だと見当をつけると、推薦する学者は竜穴にある12号棟という研究棟に暮らすティオ博士でないといけなかったのだと思えてくる。
父上はあくまでも討伐の旅が無事に遂行できるように必要な情報を私に与え、ラナを降嫁させフォイラート公を抑えることで環境を整えようとしているのか。
フリッツは小さく溜め息をついた。
「そうか、父上か。」
ランスは、無言のまま、否定しない。
フリッツはランスの肩をそっと叩いて脇をすり抜けると、廊下を曲がって父・アルフォンズの執務室へと向かった。
執務室周辺の守りの近衛兵や騎士たちは、フリッツの顔を見て僅かに目を逸らし、王城の騎士団の夏服という軽装でも咎めたりはしなかった。
誰もが、心のどこかに後ろめたさを隠しているのだ。
そう思うとフリッツは呆れて何も言えなくなると同時に、なぜ王子として公式に学術院へ訪問としなかったのかが判った気がした。
どうして騎士団の新人騎士フリッツ・レオンとしての任務となったのか。
フリッツは振り返り、ランスたちを待った。
今日の学術院訪問に関して、お忍びの外出と計画したのはフリッツではなかった。ランスを中心にフリッツではない者たちが計画しての外出だった。
フリッツが騎士団の制服を着ていたのは、騎士団として国王からの任務で学術院へ出向いたからだ。
私の名が、学術院の訪問記録に残ってはいけなかったからか。
理由は想像できる。
聴聞会の後、ティオ博士は床に頭をこすりつけてまでして、フリッツに自身との話し合いの場を強請ろうとした。
ティオ博士は国王に関して落ち度があり行き過ぎた行動として厳重に注意されるという筋書きができていたのなら、彼らの釈明を聞こうと王城の騎士団が訪問し今日の面会の場を設けたと表向きにはされているのだ。
既にキイホ博士の不在は問題とされていて、もしかすると二人とも、学術院を解雇される予定があるのだろう。
だから、表立って竜穴を知れなくなる前に、偽装した身分での訪問だったのか。
冷静さを取り戻してランスを待って、フリッツは新人騎士フリッツ・レオンとしてランスを先頭に隊列を組みなおした。
※ ※ ※
ランスを隊長として任務の完了報告に入った執務室の中には、国王である父・アルフォンズの他に、国境警備隊の軍人としてのブノワーの姿があった。
ありがとうございました




