7 12号棟には秘密がある
ニアキンの言葉に反応したのはフリッツだけではなかった。
知り合いかと尋ねようとした矢先に、ビスターがキュリスと目配せをして歩みをゆっくりと止めた。さりげない素振りで、上着やズボン、剣を撫でて小首を傾げる仕草までしている。
「どうかしたのか?」
尋ねているキュリスも、わざとらしく微かに笑みを浮かべているように見える。
「先に行ってください、忘れ物をしました。」
ビスターが急ぐでもなく離れていくのを見送っていると、すれ違った男が建物の入り口へと入っていくのも見えた。
「馬車を用意させます。検問所で待ちませんか。」
キュリスはニアキンの肩を引き寄せ、自分に注意を引き付けるようにフリッツの顔を覗き込むと早足に歩き始めた。
「ニアキン、少し聞かせてくれ、」
眼差しは真剣なのに、キュリスの声は作り物のように明るい。
「さっきの男は知り合いか?」
「ああ、知っている顔だったと思う。ただ、向こうはどう思っているのかは知らないな。」
「どういうことだ。」
キュリスはちらりとフリッツへ視線を向けていた。やはりキュリスたちもフリッツと同じであの男を覚えていて、こんな場所で会うとは思っていなかったのだと思えてきた。
フリッツの記憶が正しければ、ニアキンがあの男と言った男はアンシ・シの宿屋での入札で知り合った書籍の仲買商のダクティルで、ニアキンが気に留めていなければフリッツも気にはしなかったと思えた。アンシ・シで雨が降り魔香の隔離が終わった後、駅馬車を利用しての移動なら日数的には王都にいてもおかしくはないけれど、ニアキンとも知り合いという縁が引っかかる。
「あれは、」
言いかけてニアキンもフリッツの存在を意識するかのように見て、一瞬迷うように顔を空に向けると、小さく溜め息をついた。
「あれは本売りです。依頼された本を探して大陸中を歩き回るのを生業にしている男です。私の家にも昔は通ってきていたのですが、祖父が接近も出入りも禁止にしましたので、成人してからの私を知らないと思います。父も公爵家として関わりを禁じています。私たち孫の代にあたる者たちは直接の面識がありませんから、向こうは私を知らないと思います。」
「先代のデリーラル公だな?」
「そうです。幼い頃に見たままの姿だったので、すぐにあの男だと気が付いたので驚きました。思わず声が出てしまいましたが、考え直してみるとそんなはずはないですね、」
照れくさそうにニアキンが言うので、キュリスは「そんなはずがあるのさ」と小さく呟いている。フリッツは意外と人間味があるのだなと思っていた。ニアキンの言動は言葉が少ない分、誤解しているのかもしれないと思えてくる。
デリーラル公爵家として出入りを禁じている理由が風砕の剣にあるなら、ダクティルと縁がある偶然を気楽に喜べない。
「名は覚えているか?」
「確か、本屋のダクティルと言ったと思います。」
声を潜めるキュリスは、探るようにニアキンを見つめている。
「出入りを禁じた理由は知っているか?」
「祖父は『本は理由で、本には興味がないのが本音だ。あれの興味は剣だ』と言っておりました。」
ニアキンはそれ以上言わなかったけれど、フリッツには、風砕の剣を指しているのだと理解できた。
「そうか。」
手を放して離れて歩き始めたキュリスは、考え事をしているようで険しい表情をしていた。
「何か不都合でも?」
ニアキンが尋ねても、キュリスは返事もしない。
白い蛇の皮の入札会にいたのだと説明しかけて、フリッツも、言葉を飲み込んだ。頭の中にあったいくつもの出来事が、火花が散るようにつながっていく。
皇国人の特徴をした容姿で、話す言葉からも皇国人であると想定していたダクティルが、皇国と王国の国境の街アンシ・シにいたのは不自然ではない。
アークティカのような領主家に縁を為すような料金が高めのしっかりとした宿屋に連泊していたのは、扱う本が貴重で取引をする相手が裕福だから資金も充実しているからという理由なのだとすると特におかしな点はない。クオアーの評価の通り、『本館にお泊りのお客様で、支払いの良い上客で、今回の魔香騒ぎでも動じないような懐事情のお客様』と認識されていても妥当だ。
ではなぜ、白い蛇の抜け殻の入札会に参加する理由があるのか。
宝石商が宝石を買うため、素封家が道楽で体験談を買うため、古物商が貴重な逸品を買うためなら解る。
書籍商のダクティルは、大切な本を買うための金を使うまいとするなら断ってもよかったのに、あの場にいた。
あの時フリッツは、紹介された面々に対して入札への参加の理由を深くなど考えなかった。書籍商も貴重な体験談を聞いて好事家に四方山話として話して聞かせるのかと心のどこかで納得していたし、実際に父・アルフォンズがそうやって巷の怪談話を仕入れては悦に浸っているのを見知っている。父と同じような物好きがいるのだという程度の認識しかしていなかった。ここにいるのが当然とばかりに理由も語らず他の者たちのする質問を聞いている姿を見ても、書籍を扱う人間ならそういうものだとしか思っていなかったので違和感を覚えなかったのだ。
閉鎖されている街で人質になりえそうな有力な人物が集まっていた入札会だったと、今なら振り返れる。あの部屋にいた皇国人は資産家ばかりで、王国側の人間としてクラウザー家のラウルやフォート、王城の騎士団の所属であり王国の貴族の子弟であるキュリスたちもいた。公国人で貴族の子弟でもある魔法使いのイリオスや、何より、新人騎士に化けた王族のフリッツもいた。あの街で国境警備隊の宿舎で何が行われているのかの情報収集をしたいのなら、領主家が秘密裏に開催した入札会に参加するのが手っ取り早く、あの時点で重要な情報のすべてがあの部屋に集まっていたのなら、下手に質問しないで聞き役に徹するのが得策であると、今なら思える。
イダが食事会の別れ際に『この宿には皇国の諜報部の人間が滞在しています。お早めに宿をお引き払い下さい、』と囁いたのを、不意に思い出してしまう。『もうお会いになってますよ、』と微笑んでいただけで誰とは教えてくれなかったのを、フリッツは追及もしなかった。追及することで逆に正体がバレるのを避けたのもあるし、聖堂の諜報部隊がやってくればどのみちすべてがバレてしまうと覚悟していたのでそれまでに解決するつもりでいたからだ。
だけど、その諜報部の人間が仮にダクティルで、王都にフリッツたちを追ってやってきているのなら、話は変わってくる。
皇国からやってきて、見分し潜入し情報を集めているのなら、フリッツたちの持つどんな秘密を探り当て追求し暴露しようとしているのだろう。
突き詰めて考えようとして、フリッツは自分を見ているニアキンの視線で我に返った。拒絶されたのを嘆くような悲しい瞳の色で、感情に呑み込まれないように自分を律している為に硬い表情なのも見て取れる。
「私には話せない話ですか?」
「いや、」
言いかけて、フリッツは黙る。
デリーラル公爵家に通っていた男が実は皇国の諜報部の人間で、本屋という仮の姿で王国を旅して周り情報を集めているのだとしたら、迂闊に口に出せる話ではない。
いくらここが王国の王都でも、油断ならない場所なのだと先ほど知ったばかりなのだ。
フリッツは簡単にだけ伝えることにした。
「あとで教えるからいったん忘れろ。」
偶然が重なったからと言って、断定するには短絡的すぎる。まだ根拠が足りない気がする。
手元にある情報のどこから説明すればいいのか迷っても、アダンの人形の話はしなくてもいいだろうとだけはすぐに決まった。
※ ※ ※
学術院の入り口である検問所は、通常通りに兵士や騎士たちが身分を照合したりしていて人の行き来がある。ここでは天空で竜の儀式があろうとなかろうと、審査に関係がないのだ。当たり前の業務が行われている事実にフリッツはほっとして、規律を守る者がいるからこその安全なのだと安心もする。
馬車寄せにはすでに騎士団の馬車が待機していたのもあって、検問所の中からは門番たちに加えて、出迎えに騎士が何名か出てきていた。フリッツたちを見つけると同じ騎士団の一員として親しみを込めた笑顔で手を振ってくれる者もいる。
「ご無事でしたか、」
その中には、行きの道案内をしてくれた騎士もいた。険しい表情でフリッツたちの姿の隅々を確認するとほっとした表情になった。
「ご安心を。ふたり、遅れてきます。じきに追いついてくるはずです。」
「そうですか、中でお待ちになりませんか。お茶のご用意くらいはできますよ?」
検問所の入り口を指さす者たちに「ありがとう。助かります、」と会釈して、キュリスはフリッツとニアキンを手招きする。
「先ほどの地竜の騒ぎは偶然とはいえ、驚きましたね。」
「天変地異の前触れかと思いましたよ。」
「剣の手入れをしていてよかったと思いましたね。」
冗談にしては騎士たちの表情には真剣みがあって、彼らは無力な学者たちを守る騎士なのだなとフリッツは感心する。
「これも日ごろの善行のおかげだと自認しています。」
キュリスは明るい顔で笑うと、騎士たちも「頼もしいですな」と楽しそうに笑う。
ニアキンも調子を合わせて笑っている。出遅れたフリッツは頷くだけにしておいた。
「さ、入った入った。ちょっと休憩していきなさい。」
門番たちが笑いながらフリッツとニアキンを先に検問所の中に押し込んだ。
「肝が冷えただろ? あんな騒ぎはなかなかないよ。」
「ありがとうございます。新人が先ほどの騒ぎを怖がってしまって。」
新人とは私か? フリッツは戸惑いながらもキュリスに調子を合わせて俯いてみせる。
「やはりそうですか。竜はどうあっても竜ですからね。」
「ここには腕の立つ騎士もおりますから、安心してください。」
人のよさそうな騎士や門番たちの暖かなまなざしに、フリッツは黙って会釈しておいた。
促されるままに検問所の奥へと入ると、すぐさま検問所のドアは閉められて、騎士はドアノブに手のひらほどの大きさで白銀色に光る錨型の模型をひっかけた。
「さ、これでおかしなものは入ってこれません。」
「魔道具ですか?」
「検問所は何が起こるかわかりませんからね。一応結界を置くようにと指示があるのです。」
中にいた騎士たちが「歓迎するよ」と言いながらフリッツたちに椅子を用意してくれた。検問所の中は以外にも広く、廊下を挟んで待機室のほかにいくつか部屋があるようだった。
隣の部屋では騎士たちが書類の整理をしているのがドア越しに見える。棚に並んでいるのは、どうやら出入の記録帳らしかった。同じものが棚を埋め尽くしているので、かなり古くからの記録が残っているのだと想像がつく。
「悪いな、後は任せた。」
キュリスはそう言って騎士たちのいる奥の部屋へと入って行ってしまった。
残されたニアキンと並んで椅子に腰かけていると、窓の外で行われている検問の様子が見えた。出ていく者はいないようで、入ってくる者はたいてい大きな籠を下げている。
「あれは、食事を運んでくる者たちです。」
案内をしてくれた騎士が、視線に気が付いて解説をしてくれる。
「学術院では学者たちも学生も昔から出不精で、なんでも取り寄せるのです。本でも、食べ物でも。今は昼時ですから、食事を運ぶ者ですね。」
「市場に出かけたりはしないのですか?」
ニアキンが尋ねると、「時間がもったいないのでしょうね。学ぶべき学問は膨大なのに私の生きる時間は少ないと嘆く学者が多いですから。持ってこさせたほうが早いらしいですからね、」と肩を竦めた。
そういうものなのか、と納得しかけて、フリッツは父のアルフォンズが学者を呼び出すのは国王だからできる暴挙なのだろうなと思ってしまった。
気が紛れ明るい表情になったフリッツやニアキンの顔を見て、騎士は「落ち着きましたか?」と改めて尋ねてきた。
「意外と、ああいったものにはお強いようですね。」
どういう意味だろう。フリッツが口を開く前に、ニアキンがフリッツを庇うように身を乗り出した。
「確かあなたは、12号棟に入る前にも言葉を濁していらっしゃいますね? ここは結界があって安全なら、そろそろ理由を教えてくださってもいいのではありませんか?」
学術院が開校されて以来、12という特別な数字がドアに記された奇妙な建物にも理由があるのなら、フリッツとしても聞いてみたい。
「入る前にお教えすると、先入観で見えないものが見えてしまうなどの錯覚となってはいけないと判断したので口を噤みました。あなたたちはきっと見えなかったと判断してお伝えします。あの12号棟には、秘密があります。」
騎士は不安を鎮めるように、肘をそっと撫でた。
「王国にはいくつか竜穴と呼ばれる場所があるそうです。太古の昔、竜の子供が宝物を埋めたとされる場所で、掘ってみても何も出土しないと研究済みではあるそうです。竜穴には魔力が溜まりやすく精霊が実体化しやすい傾向があるそうで、初代の魔石学の研究室を作った学者は石の持つ力を生かすためにあの場所に研究棟を建てたそうです。実際、魔力がなくても魔石の研究ができるからと便利なのだそうですが、」
口を閉じると、騎士はフリッツとニアキンの顔を見比べた後、呟くように続けた。
「あの付近には、人ではない者が集まってきます。校舎内にも、人ではないものを見たとの、数えきれないほどの目撃情報があります。しかも、人の形をしているならまだましです。人に害をなすような、人を嫌う悪しき精霊も時には寄り付きます。人の心の隙間を埋めるかのように人に憑く邪な精霊もいたりして、善良な者は瘴気に当てられたりもしています。私たち騎士も、何度か悲鳴を聞いて駆け付けた経験があります。」
「そのような場所でどうして学者が研究を続けているのですか?」
ニアキンの質問は至極真っ当に思える。
「他の学者はあの12号棟には基本的に用事がありません。王国の内外からやってくる学生や学者が被害者となる場合が多いです。被害者と言っても近年は目撃情報ばかりですし、行かなければ見ないで済みます。学術院としても、開院当時からの施設なので建築物として危険を理由に何度も閉鎖や取り壊しや立て直しの話は出ていますが、現状として崩壊する気配もなければ修復の要望もありません。他の号棟ほど維持費用もかかりませんし、魔石学の学者がそこが最良と主張するのもあって移築もなく、あのように存続しているのです。」
「校舎は古くも新しくもなく、手入れが行き届いていて清潔だったように思いますが…?」
靴を脱いで靴下で歩き回ったニアキンは、フリッツを確かめるように見て言った。反論したくなる気持ちがよく判る。
「あの建物は人によって見える状態が違うようですね。新築のままあり続けるという者あれば、私のように朽ちかけたおどろおどろしい建物に見える者もいるようです。建て替えの記録も増設の記録も、修復の記録もありません。記録を遡ってもらっても構いませんよ?」
「もしかしてあの時、あなたには精霊も見えていたのですか、」
神妙な面持ちでニアキンが尋ねると、騎士は肘を撫でた後、「ええ。窓に何名か動物の耳を生やした子供がいましたね。他の、騎士の仲間で先日あの付近を通った者が『タヌキの親子が泊まりに来ているようだ』と話していたので、ああ本当だったなと思いましたよ」と言った。
タヌキの親子?
狸の獣人というならキイホ博士としか思えないけれど、他にもいるのだろうか。真偽はともかく、何かがいたのだとは判る。
ただ、フリッツがいた時には、人ではない存在はキイホ博士しかいなかったように思う。
入れ違いに消えたのだろうか?
見える見えないは個人差があるのなら、真偽はどうやって確かめるのだろう。
不思議な状況に戸惑いフリッツが目をぱちくりとさせていると、ニアキンは咳払いをして足を組みなおした。
「その竜穴という特別な場所は、王都ではいくつもあるのですか? 恥ずかしながら、初めて聞いた言葉です。ご存じなら詳しくお教えいただきたいのですが。」
「私もこの学術院に来て初めて知ったので、そういう場所があるのだと12号棟へ行ってみて初めて知って実感した程度にしか知りません。王国は竜王の影響の強い国ですから、ありえなくはないだろうなとは思いますね。強いて言うなら、伝説も伝承も、魔力の持たない人間が増えたのと同じ頃合いで途絶えてはいそうですね。何しろ先の大戦時に学術院も空襲にあい莫大な量の資料が燃えて消えていますから、王国の各地でもその土地の竜穴の情報は消えていそうです。」
「この学術院も、被害を…?」
「この付近は王都の端ですから。書物保管庫が全焼したそうですよ。」
「書物保管庫…、誰か、巻き込まれたりはあったのですか?」
積極的にニアキンは情報を引き出して、話を変えようとしているようだった。
「半壊した建物があったりもしたそうです。死者はなかったようですから、その程度で済んだというべきなのかもしれません。」
「現在は復旧はされているのですよね? 蔵書を返却に来たのですから、図書館はありますよね?」
「図書館は別にあります。こちらは現存していますが、学生に開放しているような資料なので、いわゆる『整理された情報』の保管庫です。書物保管庫は当事者たちだけがわかるような断片的なものや未整理なものが多かったようです。基本的に各号棟で学者たちが研究用の書類や資料を確保していますから、書物保管庫は溢れた本や資料が持ち込まれていたようですね。代々の学者たちの使っていた資料を、捨てるのは忍びなくてそのまま保管していた場所だといった方が正しいのかもしれません。」
「この敷地内で開けた場所を考えると、中庭にあったのですか?」
「12号棟の付近の大楠の近くにあって、0号棟と呼ばれていたようです。先の大戦後に各号棟の建て替えや建て増しがあり建物全体の間隔が変わっています。道や植木で整備されているのもあって全体の印象も変わっています。かつてあの場所にそんな建物があったとは、見る影もないですね。」
「つくづく、数字のつけ方がよくわかりません。」
ニアキンがしみじみ言ったのを、騎士はくすりと笑った。
「12は思うに古では力のある数字で、0は始まりの数字です。『魔法の世界を構成する4人の精霊王と、物質の世界を統治する4匹の竜王と、根源をなし世界を統べる4人の女神がこの世界を創造し統治していた』という話を、聞いた経験はありませんか?」
あります、とフリッツとニアキンが答える前に、ドアを叩く音がして、窓の外に、ランスとビスターの姿が見えた。
「いらっしゃったようですね、」
白銀色に光る錨型の模型をドアノブから外す騎士の様子を見守っていると、用事を済ませたらしいキュリスも奥の部屋からやってきた。
「来たようですね。行きましょうか、」
急き立てるようにしてフリッツを立たせると、キュリスは「収穫がありました」と囁いて片目を瞑った。
ありがとうございました




