3 こんな姿でも、人間の時と同じ、私の兄
状況を把握しようとしていたフリッツの視界を遮るように人影は動いて、本を蹴り倒す音がいくつか重なった後、剣の硬質なきらめきが部屋の中に残っていた煙を消した。
「そそ…そんな…、」
<何もしません、何もしませんから、許してください、>
風砕の剣を抜いて獣人のキイホ博士の首元に歯を当て静止するニアキンと、腕でがっちりとティオ博士の首を抑え込んだランスがいた。フリッツを守るように、剣を抜いたキュリスとビスターも身構えている。
とっさの判断で動いたランスたちの瞬発力に圧倒されて、ティオ博士と獣人のキイホ博士は震えている。
色合いといい、重量感といい、目の前にいるのは精霊にしては獣な容貌だ。しかも、見覚えがあり、懐かしくもある。オゾス村で見た狸の半妖に似ている。
「何を根拠に何もしないというのですか、ティオ博士。」
ティオ博士の首を固く締め腕で首を折る用意をしているランスは、ニーっと微笑んで、腕の力を強くしている。
「すみませんでした。私たちの認識が甘かったです、許してください。」
ティオ博士はランスの腕を叩くけれど、びくりともしない強固な腕に顔色がどんどん悪くなっていく。
「何が甘かったんです?」
ランスの問いにティオ博士は「それは…、」と言い淀んだ。ニアキンも問う代わりに、ぐいと、風砕の剣の刃を獣人の毛深い喉元に食い込ませている。
「騎士団の騎士を侮っていた私たちが間違っていました。兄さんが人の姿から戻ってもこの学術院の警備の騎士たちのように冷笑するものだと思っていたので、もっと、驚いてくれるものだと想像していたのです。」
すでに、誰かにこの姿を見られているのか。
学術院だから研究の一環と受け取って騒ぎとなっていないだけなのかもしれない。
フリッツは12号棟まで案内をしてくれた騎士の態度を思い出して、警備が彼らでよかったと安堵した。
「キイホ=レオカ博士とおっしゃいましたね?」
剣を構えて臨戦態勢を保ったまま、キュリスたちは黙ってランスとティオ博士たちのやり取りを見ている。
<そうだ。今日のこの案は弟が考えた作戦に付き合っただけだ。私まで同類とするな。>
女神の言葉で話すキイホ博士は、王国語での呼びかけは理解できているようだ。
「兄さん、」
「あなたはどうするつもりだったのです?」
ランスは淡々と尋ねた。見苦しい言い逃れは止せと言い切るのではなく、感情が声に出ない分、ランスが何を考えているのか想像できない。
<私は、どうにでもなればいいと思っている。どうにでもなるのが早かろうと遅かろうと、私の命は私のものだ。>
「兄さん!」
「…どうにでもなっていいのなら、協力しなければよかったのではありませんか?」
ランスは冷ややかにキイホ博士を睨んだ。
「殿下に面会をと望んだのはあなたでしたね、ティオ博士。」
「…そうです。」
「どういう意図があって、このような方法を選ばれたのでしょうか。」
「お話しします、ですから、自由にしてください。」
ランスの腕に首を絞められて、赤くなったり青くなったりを繰り返していたティオ博士の顔色はどす黒くなってきていた。
<止せ、つたない作戦でも弟は弟なりに考えたのだ。許してやってくれ、>
「キイホ博士、どうにでもなればいいのであれば、ティオ博士がどうなろうと、あなたには関係はないのではありませんか?」
ランスが女神の言葉に王国語で返していても、キイホ博士は王国語を話そうとはしなかった。
<それとこれとは別だ、開放してやってくれ。>
「反撃しない根拠は何です?」
ランスは静かにせせら笑う。
<…悪かった。私はどうにでもなっていいが、弟は許してやってくれ。決してあなたたちには攻撃はしない。この姿に誓って、主様の名において、すべてを賭けてもいい。>
「主様とは?」
これまでの経験から、主様とは精霊王のことを差すのだとフリッツは判っていた。ランスもおそらく知っているだろうに、あえて名を言わせようと尋ねている。
<地の精霊王ダール様の名において、私たちはこの国の王子に歯向かったりはしない。約束する。だから、そろそろ剣を収めてくれないか。>
地竜王ギオウの神殿前での戦闘で協力してくれた白い小さな老人が地の精霊王ダールの仮の姿と知っているランスは、はっと目を見開き、フリッツに視線を向けた。
キュリス、ビスターも同じだ。
しかもフリッツとキュリスとビスターはオゾス村で狸の半妖達に会った経験があるし、ランスも狼頭男と交戦した経験がある。人ではないものに関して何も知らないわけではない。
圧倒的な力を持つダールという精霊王の名を出してまで嘘をつくとは思えない。フリッツは小さく頷いた。
ただ一人、ニアキンは、いつでも攻撃をしそうな気迫しかしない。
「わかりました。信じましょう。」
首を固めていた腕を解くと、ランスは「ティオ博士、キイホ博士、怖い思いをさせてしまいましたね」とにっこりと笑って手を引いた。
「ニアキン、剣を収めてください。キュリスもビスターも。いいですね?」
ランスの命令にニアキンだけが一瞬不満そうな表情をして剣を収めたのを、フリッツは小さく溜め息をついて腕組みをしながら見ていた。
※ ※ ※
椅子が転がり本が散らかった室内を片付け終わると、ティオ博士が二列に並べた椅子に座りなおしたフリッツたちに向かって頭を下げた。列の中央正面に座るフリッツはキュリスとビスターに囲まれていて、ランスはフリッツの後ろにニアキンと並んで座った。観客席のようだなと品よく座るフリッツは思う。まるでティオ博士と狸の獣人の講演を聞きに来ているようだとも思ったけれど黙っておいた。手品のような魔法も妙な建物も部屋履きのない部屋も、父・アルフォンズのどういう意図と関係してくるのか、聞いてみなくては判断はできない。
「改めて、ご挨拶します。これは、かつては本当に人間だった兄のキイホ=レオカです。私たちの両親はともに人間で、祖父母も人間です。近しい血縁に精霊はいません。キイホ=レオカという名がある獣人ではなく、兄はこれまでずっと人間のキイホ=レオカとしてこの王都に暮らしてきました。兄はもともとこの学術院で数学科の教授補佐として、主に他の教授陣の演算の処理を任されていました。」
フリッツの隣に座るキュリスが小さく手を挙げた。
「博士たちのご出身はレニエ辺境伯爵領でしたね?」
特に深みのない質問であるはずなのに、獣人のキイホ博士は一瞬目を泳がせた。
「兄も私も、王都で生まれて育っています。幼い頃…、一度だけ、父方の祖父の村での祭りに参加した程度に両親と旅行したことはあります。それ以外は私たちはずっと王都にいます。父は植物学者で、母は学術院で庭師として働いていました。二人とも、魔力はありません。」
答えるのはもっぱら王国語で話すティオ博士なようだ。
「魔石の研究をされていましたね? 魔石の収集はどうやって?」
ティオ博士の視線が机の引き出しへと流れたのを見て、あの引き出しに入っているのだろうかと思いながら、フリッツは白銀色の猫に持たされた本翡翠を意識していた。
「父方の祖父の家が代々商いをしている関係で、鉱石や輝石の情報を送ってくれるのです。魔石の収集は、情報をもとに送金して取り寄せてもらっています。王都に向かってやってくる隊商が運んでくれる場合もありますし、父が昔契約していた造園職人が運んできてくれたりもします。私たちは王都から出なくても手に入れられる手段を持っています。」
<王都にいさえすれば、王国内外から宝石商も集まってくる。弟は宝石商とも仲がいい。貴族が売りに出すこともあるし、冒険者が魔物を倒して得た輝石を宝石商にも持ち込んだりする。>
フリッツは予行演習の旅で魔物を倒して得た宝飾品を思い出して、小さく唇を噛んだ。
魔物を倒して得た宝石や宝飾品がどうなろうと、倒した者の判断なのだから宝石商で転売されていても仕方ないとわかっていても、穏やかな気持ちではない。
「魔石の識別は博士ご自身がされているのでしょうか。」
ランスの声には少しだけ警戒心があるように聞こえた。
「私には、幼い頃から魔力がほんの少しありました。父や母は先祖返りだろうと言っていたので、先祖のどこかで精霊の血が混じったのかもしれないなとは思っていました。先祖に関しての資料がないので断定はできませんが、その可能性はないとは言えません。レニエ辺境伯爵領は王都に比べると田舎です。魔力を持ち、魔法を使う者は王都よりもいます。父も母も魔法が使えないので学者になって王都に出てきたといっても過言ではないかもしれません。」
「ティオ博士はともかく、以前のキイホ博士は魔法は使えなかった、というわけですね?」
<魔法が使えないから、数式ですべてが解決できる数学者になりたいと願ったんだ。王都では賢いほうが得だろ、>
ぶっきらぼうに答えると、キイホ博士は鼻に皺を寄せた後、口を尖らせた。
黙る狸の顔は、表情が読めない。「言葉は公用語だし、感情がわかりにくいな」とキュリスが囁いたのを聞いて、ビスターが「あまり友好的ではないのは判りますね」と呟き返している。
「兄の態度をお許しください。その…、あまり人づきあいが得意ではないのです。この姿になってますます偏屈になった気がします。兄が人でなくなったのはつい先月です。私は陛下と文のやり取りをさせていただいていますから、早々に相談させていただきました。」
「どうして陛下に相談されたのでしょうか。人ではない姿を秘密にしておこうとは判断されなかったのですか?」
ランスが尋ねると、ティオ博士はキイホ博士と目を合わせて、小さく頷きあった。
「竜退治同盟の影響です。」
黙っているキイホ博士は、どこか遠くを見つめたまま、ティオ博士の声を聞いている。
「三国の力を合わせて魔物を倒す討伐隊が編成されると聞いています。王都にも近頃は魔物は出没します。兄が人間であったと知っているのは、はっきり言って兄自身しかいません。私も兄は人間であったと知っていますが、以前の兄と私の隣にいる兄が同一人物であると断言できませんし、今の兄は人間には見えないともわかっています。かといって話をしたり考え方を知ったりと人となりを知ってしまえば、この獣人にしか見えない存在は兄ではないと言い切れないのです。私は…、兄が魔物の扱いを受けて討伐されるのを避けたかったのです。」
「陛下の許可をいただいて特別扱いされるようにと事前に手を回された、と考えてもいいのでしょうか?」
冷ややかなランスの言葉に、ティオ博士は「そうです」と素直に頷いた。
「私は陛下とは、父が御伽衆としてお傍に上がらせていただいた頃より親交がございます。陛下は下々の不思議話に興味を抱いて耳を傾けてくださいます。兄もその不思議の一つとして討ったり狩ったりしてはいけない存在にしてもらい、陛下の息のかかった者として特別に扱っていただきたいと思ったのです。」
フリッツは父・アルフォンズの態度を思い出して、これと言って特にキイホ博士についての情報はなかったなと思い返していた。ティオ博士についても、何も特別な待遇を指示したりはしなかった。
あったとすれば、フリッツと出会うきっかけとして諮問の場に推薦する方法で呼んだというだけだと思えた。直接に面会を調整されたわけでもないので、父・アルフォンズは特別扱いする気はないと意思表示をしている気がする。
その先は、フリッツ自身の直接に面会してみての判断で重要な人物かどうかを見極めて、この先の扱いを決めてみろとでも言われている気がしてきた。
「兄は先ほどのように人間に化けられます。魔力がある程度溜まると魔法が使えると、これまでの実験で判ってきています。」
「では、その人ではない状態の姿は、魔力がない状態だと思っていて大丈夫ですね?」
「だからすべてを賭けて誓ったのですか。」
ランスが確認するのを聞きながら、キュリスは呆れて尋ねている。
「そうです。このひと月の間で研究してみてわかったのですが、兄の一日で回復する魔力の上限が私の半分程度です。レニエ辺境伯領で祭りの際魔力量を測ってもらった幼い頃から成長しているといっても、私の魔力量はレニエ辺境伯爵領では平均より下の方ですから、兄の持つのは本当に微力な魔力です。しかも兄は変化の術しか使えません。先ほど溜めてあった魔力を使って変化しましたから、魔石でも利用しない限りしばらく魔法は使えないと思われます。魔法で攻撃は不可能に近いですからご安心ください。」
<弟と二人で戦っても、戦闘経験がないのだからあなたたち騎士には勝てない。魔法が使える使えないは別にしても、私たちは勝てる気がしない戦闘はしたりしない。>
弱いのに得意そうなキイホ博士を見て、キュリスが「潔いいというよりはふてぶてしいな」と眉を顰めている。
「私たちは根っからの学者です。魔石を使って兄に魔物を倒せるようになってもらいたいとも思っていません。兄さんは、…こんな姿でも、人間の時と同じ、私の兄のつもりでいます。」
ティオ博士は小さく微笑んだ。
心の中で、フォートの姿が思い出されていた。
フォートはどんな姿になってもフォートだと、フリッツは信じていた。
フリッツの中で、初めてティオ博士の言葉に共感が持てた。
「ティオ博士…、」
おそらくランスやキュリスたちも同じで、キュリスの声には好意的な柔らかさがこもっていた。
「姿が変わるのには何がきっかけだったのか、話してもらってもいいですか?」
姿勢を正して、ビスターは椅子を座りなおしている。
「あれは正確には5月の満月の頃でしょうか。」
「5月…、」
同じ王都の街にいて、フリッツは同じ頃ライル元将軍の屋敷で狼頭男の襲撃に会っている。
「兄と私はよく花鳥公園に出かけます。最近では兄は魔力が溜まるまではいけませんが、寮と近いのもあって幼い頃から庭のようなものでした。あの日も、私たちは閉門前の時間に夕暮れの中、散策をしていたのです。」
花鳥公園につい最近出かけたばかりなのもあって、フリッツの脳裏には鳥の鳴き声と大きな池、不思議な妖の道での体験が思い出されていた。
「兄はあの日、締め切りのある帳簿の見直しを依頼されて朝から計算ばかりしていました。間に合うようにと取り組んで昼食を取り損ねていたのもあって、おやつ代わりにリンゴを齧りながら歩いていました。私はこの庭で集めてあった木の実の入った袋を手に、兄とは別の順路で散策していました。兄の元へ鳥が寄ってこないようにしているつもりでした。」
話を受け継ぐように、小さく咳払いをしてキイホ博士は空中を見つめて話し始めた。
<池の中から、変な声が聞こえてきて、何かを言っているのが聞こえた。水飛沫が上がって跳ねた水が私にかかったのもあって、身を竦めると、目の前に見たことのない白い小さな老人が立っていた。私が食べていたリンゴを指さして何かを言った後、池の真ん中を指さした。>
白い小さな老人。
影の中へ飛び込まれた時の衝撃を思い出すと体毛が逆毛立つ感覚がする。フリッツは息をのんだ。
<大きなナマズのような化け物が私に迫ってこようとしていた。落とさないようにリンゴを食べていたのを懐に隠して、私は逃げた。水から遠くなれば大丈夫だと思っていた。>
震えるように首を何度も振って、キイホ博士は項垂れている。
「その後、私は兄と合流したのだと思います。兄の姿を見て驚きました。兄が着ていた服を無理やりに着た、兄の声をしている狸の獣人が目の前にいたのです。おまえは誰だと尋ねると、兄さんの陰から現れた白い小さな老人がいたのです。夕闇の中に睨むように私たちを見て公用語で、『お前の先祖は我が眷属でありながら、お前は主の願いも聞かず仲間を見捨てるのか。よかろう、先祖の心を思い出せ。おまえの先祖は仲間を見捨てるような者ではなかったからな』と言う声が聞こえました。兄は…、公用語が話せないはずなのに、『主様、我が末裔をお許しください』と変な声が兄の代わりに詫びたのです。」
白い小さな老人は地の精霊王ダールで間違いないと、フリッツは感じた。
姿が変わったのはリンゴを渡さなかった罰を受けたのだ。だけど、その程度でここまで罰を受けるのだろうか。
「他に何かをしたのではないか?」
同じように感じた様子なキュリスが慎重に尋ねている。
「たったそれだけでそのような姿になるのはおかしいと思いますね。まだ何かを隠していませんか?」
ランスも、不思議に思ったようだ。
ティオ博士を縋るように見た後、キイホ博士はとても小さな声で言った。
<『助けてくれ、化け物だ』と叫びました。>
「…お怒りを買ったのだと思います。兄は、言葉も公用語しか話せなくなってしまっています。」
そういって、ティオ博士は身を小さくしているキイホ博士の毛深い狸な肩を撫でた。
ありがとうございました




