2 私は、修行する
「あちこちで同時発生的に魔物が出現し始めたのだと判って、今度三国が共同で討伐部隊を編成して勇者一行を送り込むみたいだよ。この前マルクトから来た領官や騎士団や、街の噂をつないだりしてみてたんだけどさ、ほんとなんだとしたら、すごいよね。」
アオはトーストを齧ると、憧れに目を輝かせてメルやカイルと顔を見た。
不思議な力を使う異形な者たちを、いつの頃からか、妖と呼んだり魔物と呼ぶようになり、悪しき存在として敵対し排除するようになっていた。見つけても目を合わせてはいけない、さっさと逃げるのよ、と親に教えてもらうのも当たり前になっている。
「へえ、討伐する人たちがいるから街には近づいてこないのだと思っていたけど、そんな大事になっているのね、」
ディナが感心したようにアオに言った。
「なんでも聖堂が内政に干渉して、同盟を作ることに決まったんだって。」
メルの住む大陸は大きく3つの国が共存している。聖堂とはこの大陸で一番信仰されている宗教の総本山で、各国の統治者と強い結びつきがあった。この国では聖堂の信仰が一難の主流だったけれど、このククルールの街のあるこのミンクス領では古くからある土地神信仰や竜神信仰も許されていた。
「へえ…、」アオは耳が早いね。
メルが感心して合の手を入れると、アオは得意そうに続ける。
「各地で自発的な討伐部隊が自主的に雑魚みたいな弱い魔物を駆逐していたら、次第に手強い魔物たちが徒党を組み始めて、対抗するために自称勇者たちも小隊を組み始めたんだって。でね、そういう小隊の豪華なやつを、各国の代表で作るんだってさ。」
「ふうん、」
「どうやら、敵は竜みたいなんだよ、すごいよね。人間なのに竜をやっつける気でいるんだよ。なんでも噂では、魔物たちを率いる竜の姿を見た者がいるとかいないとか。」
「それは穏やかじゃない話ね、」と、ディナは顔を曇らせる。
数年前に国と隣国の国境近くで目撃された魔物と呼ばれる異形の者たちは、あっという間に国内外を侵食し、夜になると山や野原で人間が襲われるようにもなってしまっていた。
「この大陸の三つの大国は戦争や紛争を放棄してまとまるみたいだよ。」
国境沿いの山脈付近では小競り合いはよくあることだったので、「それは素敵なことね、」とディナはほっとした顔になる。
カイルは話を聞きながら、黙って、朝食を食べていた。
メルは冷静にアオの話を聞きながらサラダを食べていた。
実際に誰もが見たわけじゃないだろうに、あの大きな凶悪で獰猛な魔物は竜だろう、という曖昧な話が確実な形になって認識されてしまっている気がしなくもない。これまでだって危険な竜はいただろうに、ここにきていきなり、竜神様と言って祀っていた竜を敵として扱うのだから、世の中って不思議なものね、と思ってしまう。
妖や魔物たちの背後に竜魔王と呼ばれる最後の敵がいるのを前世の『私』がドラドリをプレイしていたからメルは知っているけれど、噂が本当になるのはこれからだろうと状況を把握する。
各国の豪華な代表って、ゲームの勇者のことなのかな、とバターを塗った丸いパンを齧りながらメルは考える。
竜退治のために湖水地方や風光明媚な大自然が領土の大部分を占めるこの国の王子『勇者』様と、大陸東部に皇都を構えや多くの属国や島国を持ち流通が発達し商業国として名高い隣国の皇子『神官』様と、広大な農業地を領地に持った南部の公国の公女『魔法使い』様、この世界の理を解く聖堂所属の『聖剣士』様が4人でパーティを汲んで物語が始まる。
このゲームの世界は剣と魔法とで成り立っていても、実際に魔力を持つ人間はほとんどいない。メルの住む街にいるのは、通いの神官と町長の護衛官の二人ぐらいしか、まともに魔法を扱える者はいなかった。
ドラドリの始まりは王子の成人を待って始まったから8月だった。
王子様っていくつだったっけ…。メルのひとつ上だったように思う。首を傾げて考えて、メルは驚いた。私は次の5月で15歳になる…。あれ、もしかして、今年の8月じゃない?
瞬きもせずに考え事をしながら食べているメルをちらりと見て、ディナは少し眉を顰めた。
メルがこんな表情をしているときは自分の世界に入ってしまっている時で、しばらく話を聞いていない。ふ、やれやれ。もうじき15歳になろうかという我が娘は、まだまだ手間がかかりそうだわ。その先の進路も、どうするつもりなのか本人の口から具体的に聞いたこともない。家事はそこそこできて頭もそれほど悪くはないし、親の贔屓目で見ても器量だっていいと思う。ただ、成人する16歳で結婚は可能だからといって、こんなにいろいろ未熟な娘を嫁にやれる度胸はディナは持ち合わせていない。もっと手元に置いてもっといろいろ教えてやりたい。
「メル、目を開けて寝ないの。」
くいくいッとメルの頬をつついて、アオがメルに気付かせる。
「今日母さんは忙しいから店の掃除を代わりにやっておいて頂戴ね、ルース伯父さんのところのレイラちゃん、覚えてるでしょ? あの子、今度マルクトへ花嫁修業に奉公へ上がるんだって。伯父さんのところへお祝いを届けに行ってくるから、そのつもりでいてね。」
ルース伯父は母方の親戚で、街一番の御屋敷に住み、織物問屋を営んでいる。一人娘のレイラはメルのひとつ年上で、身だしなみにうるさく町一番と言われるほどの美人で、おしゃれが好きでお化粧が大好きで、きりっとした眉が印象的で、見た目通りに気が強かった。
「レイラちゃん、マルクトの豪商から婿養子を取って家を継ぐんじゃなかったの?」
耳年増なアオは年の割にしっかりしている。メルはちらりとアオの顔を見た。利発なこの子は街中の悪ガキたちと通じていて、街中の大人の弱みを知っている。
「それがね、『結婚してもこの家にずっといるんだから、結婚するまでは自由に外で暮らしてみたいわ』って、結納を交わした後ワガママを言い出したらしいわ。伯父さんは反対したんだけど、レイラちゃん、食事を拒否して頑張ったみたいなの。」
「食欲全開の姉ちゃんには無理だな、」
メルはムッとして、手を付けないまま眺めていたトマトをアオの皿に戻す。「自分で食べな、アオ、」
「このご時世、安全なところってなかなかないじゃない? いっそのことって、マルクトの侯爵様のところで行儀見習いをさせて貰えるよう骨を折ったって話よ?」
話しながらディナは目を丸くした。
「母さん、庶民が侯爵様のところで御奉公をさせて頂けるんだから相当お金を積んだだろうって思ってたんだけどね、それが『三か月の間のことだから』って侯爵様がお許しくださってあっさり決まったお話なんだって。『三か月後には領内のすべての街の出入り口に検問所を設けるから、それまでなら面倒を見てやろう、』って直々に侯爵様が仰ってくださったんだって。夏には戻るようにってお話よ? 」
メルはぼんやりとドラドリには出てこなかった侯爵のイメージを思い浮かべる。遠くからちらりと拝見したことのあるうちの侯爵様は寛容なお方で、領民は本当に甘い印象だわ。
7月にはマルクトで夏宵祭りが行われる。夏宵祭りは初代領主様の生誕祭でもある記念行事だし、毎年行われている大切な祭りなので、その後を待っての検問所を設置なさるおつもりなのだろう。
王子様たち以外の冒険者の小隊を排除していくつもりもあるのだろう。本当なら8月の王子様の成人までにもっと早い対応をと急かされていそうなのに。きっと一機に竜退治の準備を整えていくのね。メルはこの冒険は国を挙げての支援で成り立つのだと思う。
「へー、それは大変だ、今迄みたいに自由に神殿に行けなくなるね、じいちゃんに知らせよう。」
「お義父さんはもう御存知よ、『それまでの短期間に腕の立つ勇者がもっと増えるだろうな』って笑っていたわ。『自称勇者か勇者の線引きがはっきりするな』って。」
メルは牛乳を飲みながら、マードックの顔を思い浮かべた。
竜の調伏師でもある祖父マードックはメルやカイルの武芸の師範でもあり、背がメルよりも少し低いけれどメルよりも力持ちで、何より強い。
この世界には竜を退治する人間と調教して距離を保とうとする人間とがいて、メルの家系は先祖代々続く竜と共存することを選んだ者たちだった。メルはその末裔で、メルはマードックや自分の家族を誇りに思っていた。
「父さんの店はもっと繁盛しそうだけど、物騒な世の中になるとみんなピリピリし始めちゃうから嫌よね、」
「母さんも気を付けなよ? 僕、荷物持ちについていこうか、」
アオが気を利かせて提案すると、「学校があるでしょ? 街の外へ出るわけじゃないもの、大したことないわよ、」とディナは笑って「今日も忙しくなりそうね、」と言った。
※ ※ ※
朝食を終えたメルが片付けをして身支度を整えた頃には既にディナは出かけて行ったので、頼まれていた店を掃除し、昼食の下準備をしてから着替えると祖父の家へと向かった。
父方の祖父のマードックは祖母のイリアとともに、街の外れでこじんまりとした道場を開いている。表向きは素手で急所をついて動けなくする古式格闘術の道場だったけれど、本業は代々続く竜の調伏師の稽古場でもあった。
魔物たちが町や周辺に出現し始めた頃から、世の中は武器や武具の発達で魔物は殺せばいいという風潮に変わってきていて、道場も殺すための剣術を教える道場が流行っていた。
最近では魂を鎮めて譲歩を促す調伏師の生業は廃れ、竜の調伏を依頼されることもあまりない。殺さず歯向かう心を削ぐという祖父の道場は世の流れとは一線を画していることもあって、いつの頃からか入門する者がいなくなってしまっていた。
メルは最後の弟子かもしれなくて、最後の竜の調伏師になる者かもしれなかった。
通りに面した道場は普段通り閑散としていて、それでも念のため窓から覗き込んで誰もいないのを確認すると、メルは中庭を抜けて道場の裏手の雑木林に向かった。すっかり乾いた地面に、メルは泥だらけにならなくて済みそう、とちょっぴり安心する。
太陽が明るく照らした道沿いには青々した葉が生い茂り、黄色や水色の野の花が咲いていた。
奥の方から興奮した犬の鳴き声が聞こえて、時々何かが落ちる音がする。
兄さんたち、もう始めているのね。白い道着の上に隠すように重ね着したシャツにベスト、丈長のスカートといった一般的な町娘の恰好をしているメルは表情を引き締める。
人の声や、キャンキャンと犬が騒いで吠える声がより大きく聞こえてくる。
調伏師に必要なのは集中力で、術式を行っている最中に何者に邪魔をされようとも乱れない呼吸と体力が必要でもあった。兄のカイルはたぶん、あの喧騒の中で自分の舞を踊っている。
じきに、雑木林の手前の開けた庭に向かって立つこじんまりとした家と、すぐ傍にある湧き水を讃えた手水鉢、庭の中央に置かれたまるで平均台のように組んだ地上30センチほどの高さの細長い台のような足場と、その中央に立つ白い道着姿の兄の姿が見えた。
見守る祖父のマードックや叔父のシュレイザは仁王立ちに様子を見ていて、じゃれて足に飛びかかる犬が6匹ほど吠えたり鳴いたりして、目隠しをして詠唱している兄に足に飛びついて邪魔をしていた。
メルはそっと背を向けると、重ね着していた服を脱いで井戸の近くの椅子の上に乗せた。
背を向けている間も、竜の心を支配する調伏の呪文を兄の詠唱する声と、犬の鳴き声、じゃれつく音が聞こえる。飛びついて足にまとわりつく犬を、兄は上手く躱してやり過ごしている。
「メル、来たか。ちょうどいいからお前も始めろ。カイル、メルが入るぞ、いいか。」
「大丈夫です。メル、判っているな、」
目隠しをしたままの兄は気配を察したのか、それでもメルの方に顔を向けた。
「大丈夫。」
兄さんは鼻が利く。私はまだそこまで鋭敏には為れていないわ。メルは喜んでやってくる犬たちを蹴らないように分けて歩きながら、平均台の端に立つと、ポケットから出した鉢巻きで目隠しした。
目隠しをして細い台の上をそろりそろりと歩きながら、間合いを取ってカイルの近くまで進んだ。
休みを利用してマルクトから帰ってきている兄さんは、向こうでも修行をし続けていたのだろう。手合わせしなかった時間の距離など感じさせない程、兄さんの動きにはキレがあるわ。
兄さんに真剣を持たせて舞わせたら、きっと戦っているのか舞っているのか判らないほど美しいだろうと思う。
まだ実戦の経験も調伏の経験もないけれど、メルはいつか自分もそんな風になりたいとこっそり願う。
耳に聞こえてくるのは犬の鳴き声、同じ動きを学んでいるからわかるカイルの優美な所作に繊細な足さばき、朗々と詠唱する声、自分の息遣い…。
「メル、あと2歩ほど進め。…よし、そこでいい。カイル、メル、手合わせ開始、」
マードックの声を合図に、両手を水平に保ってメルは、改めて詠唱をし始めた兄の気配に耳を澄ませた。
ありがとうございました




