78、退魔師という意外な落とし穴
「知る訳ないわ、放しなさいっ! 『爆風』!」
ファーシィの体から風が爆発的に起こって、水が飛び散った。
「私にこんな真似をして、どうなるか判っていてやっているのよね!」
木々や草木に青白い欠片が散って、モゴモゴと蠢いた水の塊は少しずつ纏まって次第に大きく集まり、滑るようにして池の中へと戻った。
怒りを込めた目つきで顎を引いたファーシィは、青白く発光する池の上に立つ女性の治癒師に向かって両手を差し伸ばした。
「二度と私に逆らえないように教えてあげる!」
『雷撃』と聞こえた気がした瞬間、ファーシィの両手から放電した閃光が池の上を迸った。
青白い稲妻が女性の治癒師に向かって集中する。
水の精霊王さまの神殿の池で感電して気を失ってしまっていた蛙顔の神官様の、カエルに変化しのびていた姿を思い出していた。
「ファーシィ!」 いくら何でもやり過ぎよ!
治癒師としてファーシィの攻撃を止める方法は思い浮かばないけど、池の上に立つ女性の治癒師の被害は容易く想像できて、わたしは池に向かって走った。
何ができるだろう、何をすればいいだろうと考えるより先に、助けなくてはという思いだけがわたしを動かしていた。
浅瀬もなくいきなり深くなる池の上を『水蜘蛛』で移動していけばいいと池の上を歩こうとした瞬間、爆風が池の中心から起こった。
閃光が一瞬にして消えて、バンッと爆発するような、何もかもを吹き飛ばそうとするものすごい風圧に、わたしは思わず腕で顔を隠して身を竦める。
「ああああ―――!」
風の中から聞こえてくる叫び声が誰の声なのかは判別できない。
ジャーッと轟音を立てて大粒の水が空から降り注いだかと思うと、空から閃光がいくつも降り注いできた。
本当の、雷撃だ、
魔法じゃなくて、本物の、
驚き見上げた心の中で呟く声は言葉にならないままで、わたしはずらした腕の隙間からファーシィが雷に打たれるのを見ていた。
動けない。
空気が震えている。波動に、勢いに、圧倒される。
<教える? ナニを?>
そう笑う声は女性の治癒師の声でも、表情はまるで別人に見えた。
雷撃に打樋がれて倒れたファーシィは、感電したみたいで震えている。
視線を感じて顔をあげると、池の中心に立つ女性の治癒師はわたしを見つけて観察するように注目して、やがて、笑っていた。
<お前は、…の娘か。そうか、面白いな。…でも子を持つのか、>
音のような声は言葉に聞こえなくて肝心な名前が聞き取れないのに、父さんのことを話しているのだと伝わってきた。
<そうか、…の匂いもするな。…はまだ生きているのか、>
も?
父さんの仲間なら蛙顔の神官様の本体を言っているのかな、と思うのと同時に、まだ生きているのかというのなら、蛙顔の神官様の本体が死にそうになった原因はこの人なのかもしれないと思えてきた。
手が、ゆっくりと持ち上がって、指先はわたしの方に向いている。
威圧される。
息をしているのが不思議なくらい、呼吸する動きまで制圧されていく感覚がする。
圧倒的な力の差に、どこから手を付ければいいのか為す術が思い浮かばない。
風属性と水属性の対極は、地属性と火属性だ。どうすれば勝てる?
ファーシィを置いて、ここから逃げる?
そんなことは、できない。
防御となる魔法を、と考えてみても、焦るばかりで何も浮かんでこない。
<この体の仲間か? いいや、違うな。お前を知らないようだ。>
指先に青白い光が溜まって、やがてそれが放電してわたしに向かってくるのだと判った瞬間、わたしはとっさの判断でマントを翻して我が身を隠した。
※ ※ ※
「びよおおおおーんん」という奇妙な音と、「『滑化』!」という声が聞こえたのと同時に何かが流れ落ちる音がして、マントに激しく何かが叩きつけてくる震動と「ジュワーッ」という音と熱風とが押し寄せてきた。
パンッ
爆発音とともに何かが弾けてマント越しにわたしに押し寄せてきて、辺りは白い霧が立ち込めた。
「ビア、伏せたままで!」
叫ぶ声は師匠の声に似ていて、ヒュンヒュンと音が唸る。
何が起こっているの?
首を竦めたままマントの影から顔を出すと、山の手の斜面の木の陰から、矢がフクロウ魚に向かって振ってきていた。
矢の後を流線を描いてついてくる青白い光が、キラキラと空気に溶けて消えていく。
「ビア!」
聞き慣れた声に目を凝らす。矢を射っているのはフローレスで、近くに師匠の姿も見えた。
よかった、無事だったんだ。
わたしも、師匠も。
笑みがこぼれそうになって、そんな場合じゃないと気持ちを引き締め直す。
水際に立つわたしの腕を掴んで陸の上へと呼ぶと、師匠は木の影にわたしを引っ張った。
「ビア、怪我はありませんか、」
エナ・ヒルに吸われた魔力を師匠は取り戻したようで、顔色も悪くない。険しい表情をしている原因がわたしなら、巻き込んで悪かったなと思える。
来てくれて嬉しいけど、風使いの師匠はアレに影響されてしまうかもしれない。無事に生きていると伝えたくて治癒の呪文の中に師匠の名を織り込んだのは、結果として失敗だったと思えてくる。公国の軍人でもあり貴族でもありわたしの監視役でもある指導員である師匠は、わたしや父さんの事情に巻き込んではいけない人だ。
「師匠、来たんですか?」
来てくれたんですか、と言いかけてやめて、来たんですかと言ってみる。案の定師匠は無表情になった後、「弟子が目の前で攫われているのに、笑って待ってなどいられませんよ」と言った。
「待っててくれてよかったですよ?」
本心は、今すぐ逃げてって、言いたい。あなたは、ここにいてはいけない人だ。
本当は、来てくれて、嬉しい。
「そんな表情で言われても、信じられないですね。」
どんな表情?
「素直じゃないのはビア本人である証拠です。」
手で両頬を隠してみる。
「ビア、無事なようで何よりです。」
師匠が優しい目をしてわたしの顔を見ているのが妙に腹立たしい。
「何が起こったんですか? わたし、自分自身でも無事なのが信じられないです。」
水と雷との攻撃を喰らって無事でいる自分が不思議だ。
マントを見ても、焦げ目もなければ傷もない、いつも通りの火光獣の明るい灰色のマントだ。
火属性の魔法に耐える効果は知っているけど、どうして。
「攻撃に向かってフローレスが矢を放っていたからでしょうね。相殺されたのかもしれませんね。」
「フローレスが、ですか?」
魔力がないのに?
「フィレナ一家はブロスチの祭事官らしいですよ?」
フローレスが弓矢を構えているのが見える。肩に背負った矢筒には、綺麗な白銀色の矢羽根が夜の闇に輝いて見える。
祭事官とは祭り事の際にのみ奉仕する神官で、特定の条件を有する者が選ばれる神殿の神官と違って完全な世襲制で、日頃は庶民に紛れて生活している。女神たちの加護を受けた祭事に使う独特の神具を祖先が直接受け取り代々継承している特定の家系だとは聞いたことがあるけど、フローレスが祭事官なら『蒼い蔵』のフィレナ一家は祭事官を輩出する名家ということになる。
だからと言って魔力を持っている訳でもないし、わたしのような冒険者ではないし、師匠のような魔法使いでも軍人でもない。父さんの棲む世界に足を踏み入れてはいけない。
矢も、構えているだけで距離を保っていてほしいと思ってしまう。
「グアアアあああ!」
池の水の表面が生き物のように伸びあがって、女性の治癒師の指さす方向にいるオリヴィエールとファーシィの方へと襲い掛かろうとしていた。
少し距離のある位置にいるフローレスの射る矢が流れ星のように空を飛んでいる中、オリヴィエールが呪文を唱え、彼自身とファーシィの前に泥や草木の根で土塁を作る。
「ビア、魔力は回復していますか?」
見栄を張りたいけど、そんな度胸もない。
「ほとんどありません。」
「ではこれを、」
師匠が、自分の指に嵌る指輪を抜いて、わたしの手に握らせた。
「多少回復するはずです。魔力を譲りましょう。」
手の中にある指輪からは、じんわりと魔力が移ってきていた。師匠が師匠らしい仕事をしている気がする!
「師匠は、大丈夫ですか?」
「ええ…、」
わたしの手に自分の手を重ねて、師匠は視線を落したまま、小さく溜め息をついた。
「ビアが連れ去られた後、水竜王様の神殿に行き祝福を受けました。水の精霊王さまの神殿の神官は夜間はいないと、リディアさんたちが教えてくれたのです。聖なる泉に十分に浸したので、どの魔石も補充してあります。」
そっとわたしを見て、師匠は「ビアは水の精霊王さまの神殿で誰と会っていたんですか?」と尋ねてくる。
「夜間いないはずの神官さまと、何を話したのです? この街の存在を教えてくれたのも、その神官さまですね?」
まるでこの一連の出来事の元凶みたいな言い方だ。
偶然だと思うし、ファーシィとはわたし達の方が先に知り合っている。
曖昧に微笑むと、ドーンと大きな音がして、地面が揺れた。
水柱が上がる。
辺りに、滝のように水が降ってくる。
師匠が庇ってくれて、わたしは木を背にしゃがみながら何が起こっているのかを見た。
土塁が、破壊されていた。
アレがニヤニヤと笑って、土塁の影にいたはずのオリヴィエールとファーシィが無防備に晒されているのを見ている。
「…ビアは、どこまでこの状況を理解しているんです?」
頭上から降ってくるような師匠の声に、何も、とも言えない。
蛙顔の神官様が翡翠をくれると言ってくれたのは純粋に贈り物がしたいと思ってくれた真心だろうし、ファーシィが治癒師を攫ったのはファーシィには治癒師が必要な理由があったからだ。
フクロウ魚を呪詛石だと思っている師匠やファーシィには本当の姿の話をする必要はないし、どうしてそういうものが存在していると知っているかと聞かれても、わたしは正直に答えるつもりもない。
アレが魔法を展開しようと詠唱している。
聞き取ろうとしても、声は言葉にならず不気味な音の塊にしか聞こえない。
世界を呪うような禍々しい音が、言葉と認識できないまま辺りに低く響いている。
氷の粒のような線を描いて、魔法陣が球体を描くように現れる。
「皇国語でも、山の民の言葉でもありませんね。」
師匠の呟きはひとり言には聞こえない。わたしの反応を待っている気がする。
「原始の魔法使いオーリは女神の言葉を契約の言葉にしたと伝承されています。あれは、女神の言葉でもないようですね。」
わたしもそうかなと思うけど、答えると、待ってましたとばかりにあれこれと尋ねられてしまいそうだ。
黙って聞こえないふりをする。何も、不確なことは、答えられない。
風水師であり風使いであるオリヴィエールが、邪魔するようにアレに向かって竜巻や旋風を起こしている。
池の水は飛び散るようにして影響があって引いていっても、アレ自身は無傷で水面に立ったままだ。
状況は、人数でオリヴィエール達が勝っても、圧倒的にアレが戦局を支配しているようにしか見えなかった。
「ビアは精霊の子供ですよね? 何か知っていませんか。」
「いません。」
「妙に答えるのが早いですね。」
「気のせいです。」
こういう話は早く打ち切るに限る。
古の昔から存在していたという父さんや蛙顔の神官様の本当の姿を師匠には告げられないし、何を話したのかも言えそうにない。
答えたくないわたしは飄々として、わざと話をずらす。
「オリヴィエールとはどこで合流したのですか? まさかここまで歩いてきたのですか?」
ムッとした後、意図を悟った様子の師匠は小さく眉間に皺を寄せて、諦めたように答えてくれた。
「この山のすぐ近くです。フローレスと私は山から潜入するために途中で馬車を降りました。ベルムードは馬車でバラノズさんと村の門を開けるために向かいました。ベルムードたちは養魚場を捜索した後、村人たちとこちらへやってくる手筈になっています。あの倒れていた男はビアがやっつけたんですか? 大きな破壊音が聞こえてきたので何かあったのだと思い養魚場へ向かいましたが、ビアはいませんでしたね?」
説明に、困る。
母屋に近寄ってきた足音は師匠だったみたいだ。
「ビアは逃げ出したんですよね? ファーシィとですか?」
「逃げ出そうとして椅子でドアを蹴破ろうとして、…偶然椅子ごと階段も巻き込んで押し潰してしまったみたいです。そのあと、ファーシィに捕まって、ここへ連れてこられました。」
父さんが魔法を使ったからとは、言えない。
「ベルムードや村人たちも、初めてあの養魚場に隠し部屋があったのを知ったようです。あのデイライド爺さんの養魚場で倒れていた男は、私を見て逃げようとしたので拘束してきています。」
「魔法が使えないのに、ベルムードを残してきて大丈夫ですか?」
「私の火と風の精霊をヒト型にして実体化して手伝わせています。」
だから師匠の周りには精霊がいないのね。
師匠の代わりに丸腰のベルムードの護衛をしているという意味だと思えた。
ドーンと大きな音が続いて、水が回転しながら竜のようにオリヴィエールやフローレス達の足元へと突っ込んでいく。
水竜のような回転の影響で斜面の地肌が抉れて、落ち葉が舞い上がり、木の葉や根や砕けた石の欠片がいくつも飛んできた。
師匠が風の魔法を使って除けてくれていても、顔の近くを尖った石の破片が飛んで、落ちる。
「ビア、ここを逃げる方法を最優先に考えます。」
師匠はわたしの腕を掴んで立たせてくれた。
「オリヴィエールはあの女性の治癒師を救出すると言っていましたから、任せておいて大丈夫でしょう。」
「任せて逃げるのですか? フローレスは、どうするつもりですか?」
「私たちが逃げる際に連れていきます。」
「では、ファーシィは?」
あの子は世間知らずで、成人しているような容貌なのに言動はとても幼かった。コーストとの閉じられた空間で過ごしてきたのかなあと思えてしまうほどに。もしかしたらきちんとした教育を受けてこれなかった子かもしれない。
体の中にある大量の魔石や体に施された手術の痕を考えると、実験体と同じ扱いを受けている女の子だ。同情心からかもしれないけど、できるなら助けてあげたいと思えてくる。
「ビア、」
師匠の肩の向こうで、木々がなぎ倒されていくのが見えた。
勢いよくアレの手から放たれている水が、剣のように空を切って木を倒しているのだ。
「アニチェ、やめるんだ!」
オリヴィエールの声が、叫び声のように響いた。あの女性の治癒師の名みたいだ。
「何を吹き込まれたのかは知れませんが、ファーシィは私たちを惑わし、私たちの元から治癒師であるビアを攫い、…あの養魚場の状況から見て、監禁してビアをモノ扱いして消費しようとしていた存在です。ビアが例えあの子は騙されて命令に従わされていただけだと言い張っても、少なくとも私は信じられません。」
「どうしてですか?」
「ビア、聖堂の治癒師をあんな風に変えたのは、ファーシィですよね?」
否定できない現実が、わたしの心を重くする。
連れてきただけと言いたくても、連れてこなければああならなかったと言われてしまいそうだ。
術が成りアレの手から勢いよく出た水はオリヴィエールを直撃して、マントで身を隠したまま、オリヴィエールは弾き飛ばされるように斜面に叩きつけられた。
「師匠、アレがどういう存在なのか判っているのですか?」
「池の底に沈んでいた呪詛石に封じ込められていた、悪しき者でしょう?」
悪しき、者。
「生きているとは思わないのですか?」
「ビアは、生きていると思っているのですね?」
冷たく目を細めた師匠は、アレの方へ顔を向けた。
「憑りつかれてしまった治癒師を元に戻すに最適な人材は退魔術を使える私しかいないですが、私は、そのつもりはありません。」
「どうしてですか?」
「呪詛石はあの池の奥にありましたね?」
「ええ、」
師匠が何を言いたいのか判らなくてわたしは戸惑う。
「私には、現状で、あの池の奥底に呪詛石があるようには見えません。」
「それは…、」
もともと呪詛石ではなくて精霊でも人間でもない邪神と呼ばれる精霊が、死なない程度に制御されて村の貯水槽とも言える深い池の底に沈められていただけだった。
女性の治癒師に何らかの手段を持って憑りついているか同化しているのだから、石なんてなくて当たり前だ。
「退魔師として、ヒトという器から退魔術を使って憑りついている精霊を取り出した後、どう解決するつもりなんです? ビアにはあの者が放つ強力な魔法が見えていますか? 使う魔法から推測すると、あれはかなりの大物です。私の装備や力量では、現状であの者を輪廻の輪に帰らせるほどの術を使いこなせません。アレハンドロが持っていたような、名刀と呼ばれる宝剣がこの場にある訳でもありません。あの池の奥の呪詛石がない限り、依り代となるものも封印するものもありません。治癒師の体から悪しき者を取り除いた後の術がないままでは、何の計画性もなくこの世界に悪しき者を開放するのと同じです。」
アレが、両手を広げて天を仰いだ。
何かを詠唱している。
両手からは放電が始まっていて、火花が散るように天に向かって稲光が昇り始めていた。
術が完成してしまえば、オリヴィエールもファーシィも、無事ではいられないと想像がつく。
「呪詛石に封じ込められていたものが、現段階ではヒトという器に閉じ込められています。女性の治癒師ごと封印した方が確実です。」
人を、器の代わりにする…?
「師匠は、本気でそんなことを考えているんですか?」
ありがとうございました




