61、春の嵐を捕まえて
「宿に帰りましょう、まずはここを離れましょう」と師匠が言ったのもあって、わたし達は水の精霊王さまの神殿を後にした。考え事をするにはもってこいの静けさで、どこもかしこもひっそりと静まり返っていて、夜の静寂に、わたしたちの歩く足音だけが響いている。
どれくらい蛙顔の神官様とお話していたんだろう。父さんの仲間だってだけで親しい関係ではないのだから、名前を聞いていいのかなと躊躇っているうちに名前を聞かなかったし、名乗ってもくれなかった。話すと声が響くからと黙って歩く師匠たちのおかげで、蛙顔の神官様と話をしていた内容を何度も思い返せた。だけど、わたしは人間といえるのだといまさら言われても困る。現に父さんは人間ではないし、精霊なのだから、やっぱり半妖だと思えてくる。だいたい、人間の体をどこ安全な場所に隠しておけるという発想自体、人間ではなく精霊、いや妖の発想だと思うけど、もっと行くと妖を越えすぎてる思考だと思うけど、体ってそんな風に扱えるものなのかな。そんな風に考えている時点で、わたしは体に固執する人間で、体は姿の一部ではないと思えてしまう父さんは『悪い精霊』を越えた『邪神』なのかもしれない。
フローレスに連れられて宿に戻ると、待ち合いに入るなりフローレスが侍女を呼んでお茶の用意をさせていた。何か言いたそうな顔つきのベルムードを見て師匠が「部屋に戻る前にここで話をしませんか、」と提案してきて、嫌ですと言いたいのを我慢して「少しだけなら」と頷いておく。こんな夜更けにお茶かと思うと明日にしませんかと先延ばししたくなるけど、彼らにとってはこんな夜の出来事は消化不良なのだろうし、何より提案者が師匠だ。わたしは実はこっそり師匠がインテーオの仮の姿なのかなと思っているので、おとなしく従うことにした。下手に抗って観察する機会を逃すと、わたしが損をしそうな気がする。
あたたかな香草茶の入ったカップを人数分トレイに乗せた侍女がやってくると、フローレスが「もういいよ、後はやっておく」と言ってトレイを受け取っていた。そうだよね、こんな夜更けまでお世話をしてくださったんだもの。「ありがとうございます」とわたしも頭を下げた。
「ビアは神官とどんな話をしていたのか、実にじっくり詳しく聞きたい。」
ソファアに座るなり興味津々なベルムードが言うので、端っこに座ったわたしは記録されたくないのもあって逆に「師匠と一緒にどこへ行かされたんです、ベルムード、」と聞き返してみた。ベルムードが記録している砂時計の効果は、まだ真夜中になっていないので継続していると思えた。
「フローレスも一緒だったんですか?」
「私たちは3人で水竜王さまの神殿へ行っていたのですよ?」
真ん中に座っている師匠が悔しそうに答えてくれる。蛙顔の神官様が道をつないだって言っていたのは、別の神殿に道をつないでいたんだね。
「行きついた先が神殿だったのもあってはぐれてしまったのだと思って、ずっとビアさんを待っていたんです。」
「あの近くの水竜王様の神殿で、ですか?」
わたしを待っていたんだ! 驚いて、立ったままのフローレスを見る。探しに行くのではなくて、待っていたんだ!
「師匠やベルムードが知らないのは判りますが、この街に住むフローレスも勘違いしたんですか?」
「ええ、不覚の限りです。月が隠れていて明かりがなくて、ぼんやりとした灯りと水の音で池があるのは判ったので、すっかり水の精霊王さまの神殿だと騙されてしまいました。一瞬雲が晴れて池の真ん中ではなく池の向こうに神殿があるのが見えて、ここは水竜王様の神殿だと気が付きました。」
「神殿のお庭って、結構よく似た作りですか?」
「ええ。規模があちらの方が大きかったですね。」
師匠しみじみと言うので、少し揶揄いたくなってくる。
「フローレス、この街には風の精霊王さまの神殿もあるんですよね?」
「ええ、南東に。神官様はいらっしゃらない無人の神殿です。」
「どんなところですか? 参拝出来ますか?」
風竜王様の神殿は悪党どもの巣窟に変わっていた。同じような環境なのかな。
「明日、行ってみてもいいですか?」
「ビア、明日はもうミンクス領へ向けて移動するのですよ? 馬車を頼むつもりでいます。」
「師匠、もう一日だけこの街にいませんか?」
風の精霊王であるインテーオ様に話がしたい。本人だと思っている師匠を睨みつけてみても、師匠には変化が見えてこない。
「どうしてです?」
「用事が出来てしまいました。神官様からアンテ・ヴェルロという街へ行ってごらんと教えてもらいました。」
それ以上は伝えない。
「フローレス、遠いのですか?」
「すぐ近くです。日帰りで行って帰ってこれます。」
ロディス商会ブロスチ支店でもブロスチよりやや北東にあって、湧水が豊富で淡水の池や沼地が多く川魚の養殖を生業とする者が多く住んでいると教えてもらっているし、養魚場があるのは嘘じゃないと思う。輝石を拾いに行くと言えば、絶対に反対されそうだ。
「バンジャマン卿、行ってみないか? ビアが言い出すなら、何かがあるんじゃないか?」
「ベルムードは別行動していればいいと思います。」
多分、インテーオじゃないし。
「ビアに記録は頼まないよ、私が自分でする。それならいいだろう?」
「道案内をさせてもらってもいいですか? ビアさん。まず風の精霊王さまの神殿に行って、馬車を借りて北東にあるアンテ・ヴェルロの街に行くって行程でどうでしょう?」
「いいと思います。」
師匠をじっと見つめると、師匠は何か言いたそうな顔つきになっているのに黙ってる。
インテーオだと思うんだけどなあ。
「よし、決まりだ。明日の朝に備えて寝るぞ、解散だ。」
仕切るベルムードに「うるさいですよ」と口を尖らせて文句を言うと、くしゃくしゃと頭を撫でられ「いやー、ビアが無事でよかった。バンジャマン卿のあの真っ青になった顔を見せてやりたかったよ」と笑った。
※ ※ ※
風の精霊王さまの神殿は昨日行った風竜王さまの神殿よりはまだ無事でどこも崩れもなく、無人の神殿と言うだけで神官さえいればいつでも神殿として機能が回復しそうな気配がしていた。
「こんなところに何の用があったんだい、ビア?」
朝からクアンドのライヴェンの砂時計の効果を使って記録しているベルムードが、神殿の中へさっさと入って祭壇の前まで行ってしまった。その機能がある限り話したくないなあと思っているのは伝わらないのだろうか。つくづく察したりはしない男だ。
「この神殿は聖なる泉すら水を湛えていないようだ。ほんとに廃殿にしてしまったんだな。」
窓辺に立ち街中に見えた建物を指さしてフローレスに「あれはなんだ」と尋ねているベルムードを見て、わたしは覚悟を決めて師匠の袖を掴んだ。
「師匠、わたしに何かを隠していませんか?」
「どうしてですか、ビア。」
「わたしの記憶をベルムードが勝手に記録し始めた時、怒ってくれたのは『公平さに欠ける』からですか?」
「なんです?」
「記録が維持されたままだと思い返せなくなると判って、自分の一日をベルムードに差し出したのですよね?」
わたしと師匠の周囲から、光と音が消えた。真っ暗闇の空間には、師匠とわたしの姿が浮かび上がる。
「ほう。ここへ来たいと言ったのは、私と話をしようとしたからか。」
師匠の声が、インテーオの声に変わっていた。
「そうです。師匠は風使いです。インテーオ様がわたしを観察するなら、師匠が一番最適だと思いました。」
風の精霊王インテーオの眷属は鳥や風で、火の国回廊で移動中に見たオッド・アイの鳥たちはきっとインテーオの眷属だ。王城で見たクジャクのメスもそうだ。彼らは、師匠と一緒にいる時にしか現れなかった。
「ベルムードと名乗る者だとは思わなかったのか?」
「はい。ベルムードとフローレスは違うと思っていました。ベルムードも一応考えてみましたが、師匠の記憶の扱い方を聞いて、ベルムードではないと思いました。」
ベルムードの記憶の記録の扱い方はかなり身勝手で、対象者への心配りなどない。金で解決しようとする支配的で傲慢な姿勢しか、わたしには見つからなかった。
いくらわたしを観察するためとはいえ、わたしに心配りを要求してくる人がベルムードを選ぶとは思えなかったのだ。
インテーオが憑依している影響で鳥の羽のついた仮面を被る師匠は、とても華やかでとても存在感があった。見掛けに割にとても繊細な他人への配慮をする性質だとインテーオに対して思う。
「インテーオ様、オルジュがわたしのためにしてくれた決断を、わたしは嬉しいと思います。わたしのような存在を大切な友人だと認めて対等であろうとしてくれたオルジュに、わたしは敬意を払いますし感謝してもいます。」
「ダメだ、これは無効だ。」
無効って…!
「あなたを見つけた根拠が弱いとでも仰りたいのでしょうか。」
「そうだ。」
なんて身勝手な。何か事件を起こして解決して、その褒美にオルジュをくださいと言えば満足するのだろうか。そのやり方だと、インテーオが望む心配りとはかなりかけ離れた乱暴な印象がするけど…。
「例えば、です。わたしは、人でも精霊でもないものを父に持つとします。わたし自身が未分化で安定していなくて、魂が器と不具合を起こしてしまいこのままだと死んでしまうとして、器には不都合な魂を削る瞬間死ななくてはいけなかったのだとしたら、それは必要な死なのではないですか?」
わたしは現に生きていて、人に近いものとしてインテーオと交渉が出来ている。
「オルジュはわたしを理解して信じてくれたから、契約を結び直してくれた。それだけではないのですか?」
「…ならぬ。」
「では、オルジュはどうすればよかったのでしょうか。わたしが器から溢れる命を削らずにあの時死んでしまっていたら、オルジュは何もしなかった自分を責めたのではないですか?」
「我々風の眷属は誇り高い者だ。失敗など恐れない。」
「では、どうして、」
インテーオの憑依している師匠は、肩を震わせて怒っている。いや、怒っているのはインテーオか。ジレンマで怒っているのか、わたしを認めたくなくて悔しくて怒っているのか判らないけど、この精霊王はとっくに答えを持っている気がする。その答えを認めたくなくて、わたしを無理やり否定しようとしているんだ…!
「わたしは地の精霊王さまのお力添えを頂いて、女性態の、地属性の女性の治癒師になりました。オルジュがいないと、わたしは大切な人たちを助けられません。」
1周目の未来でやり残した、シューレさんとコルを救うには、どうしても精霊の力が借りたい。ラフィエータが頼れないなら、オルジュしか、わたしには頼れる精霊がいない。
「ダメだ。あの者がしている契約はお前のようなものに隷属する契約だ。我が眷属はお前のようなものに使われて消えていい存在じゃない。」
「オルジュとは契約を結び直します。対等でいられるように、オルジュだけは…、わたしが例えこの先志半ばにして輪廻の輪に戻ってしまっても、生き続けていられるように。」
「遅い。」
インテーオは一言言って、「お前は王国の固有種を隷属関係に置いているという自覚がないだろう? 私が無理やりオルジュを連れ戻さなかったら、王国では夏が来ない地域ができるという悪影響が出ていたのだぞ、」と怨嗟混じりに続けた。
「夏が、来ない…?」
「以前お前たちのしていた血の契約は、オルジュが精霊として格上でお前から魔力の提供を受ける尊重された関係だった。契約当時はオルジュに自由があったから春を調節できていた。それがどうだ。お前にオルジュは盲目的に契約を書き直してしまった。お前の声があればどんな遠くでも駆けつけるといった、隷属の関係だ。いくらお前の役に立ちたいと願ってした行動だったとしても、王国の固有種としての自覚がなさすぎる。学習していないから判断を間違えているとするのなら、修正するのが主としての務めだ。」
「あの、夏が来ない理由が、どうしてオルジュにあるんです?」
オルジュが王国の固有種で春の嵐の精霊なのは知っている。1周目だって、春の終わりに王都の花鳥公園で出会っている。
「お前たちはどうして春の嵐を起こさずして夏がやってくると思うのだ。」
「夏、ですか?」
「そうだ。季節は雪が解けて芽吹く春が来て、育つ夏が来るから実をつける秋となり、再び貯える冬となる。オルジュは緑息吹く春の木陰にある風の精霊だ。王国独特の風土に合わせた春の嵐の力を持つ者だ。散るはずの花が散らなければ、どうやって実をつける? 葉はどうやって増える? どれほどの生き物の糧をお前は奪おうというのだ?」
想像していなかった事態に、わたしは息を飲んだ。
「風は風でもオルジュは固有種だ。お前が血の契約をして連れ出した時、オルジュは自分の魔力とお前の魔力で王国の春と行き来をしていたからまだ影響は少なかった。皇国にお前がいる間、季節は止まった。本来春を終わらせるための嵐を起こさずにオルジュは皇国のお前の元へと向かってしまった。」
「それは…、」
1周目の未来で、オルジュとは王都で出会っている。そのまま北上して、国境の街アンシ・シまで行って、王都へ戻ってきている。偶然わたしの旅とオルジュの目的があって、王国の春が終わらせられて夏を呼べたから、インテーオは現れなかったんだわ…。
「お前が望んだからか? オルジュが望んだからか? お前が呼ばなければ、オルジュはこの国での起こるべき事象を全うしたのか?」
オルジュが、一度切れてしまったわたしとの縁をつなぐために隷属的な契約を結んでしまった時点で、わたしが望んでいようといなかろうと、『わたしたちの関係』がインテーオの中では原因になってしまっている。わたしは、友人として、わたしを助けてくれる存在としてオルジュを望んだ。オルジュも、答えてくれていた…。
そんなつもりはなかったと言っても、そんな事態を招いてしまった責任がわたしにはできてしまった。
「この場にオルジュを呼んで、契約を解きます。」
「それで?」
「望んでくれるなら、対等かオルジュを上位にした契約を結び直します。わたしの魔力を使って、オルジュがオルジュの役割を果たせるように協力します。」
この先もオルジュが必要だと、わたしは思っている。傍にいて助けてほしいと、願う。せっかくの契約を手放したくない。
「ならぬ。この場には呼ばせぬ。」
「どうしてですか?」
「あの者は春を終わらせていない。」
「あ…、」
わたしを探して皇国のクアンドまで来てくれた間、オルジュはわたしを探すのだけに集中してしまっていたのなら、王国での春はまだ終わっていない地方があるのだ。
「夏が来ないと多くの者が飢える。風の精霊王としてこの国だけを管理している訳でない。皇国、公国、王国のすべてが春を終えなくてはならない。王国の固有種としてオルジュが夏を呼べたら、王国には夏が来て、皇国にも夏が来る。オルジュは身勝手な振る舞いを正して、春を王国のすべてで終わらせなくてはいけない。」
「それでは、わたしたちは、」
「オルジュがお前に一方的にした契約は精霊王の権限で私が解いた。もう一度オルジュが欲しければ、春の果てまでオルジュを捕まえに行け。それなら許してやってもいい。」
「オルジュの役割を果たせるまで、手を出すなと仰るのですか。」
「そうだ。本当の友人なら、オルジュの仕事を尊重してやれ。いいな?」
心の中には、『賭けに勝ってもオルジュは戻ってこないんだわ』とモヤモヤとした感情が残っていた。勝ったのに負けた気がする。
「不服そうだな?」
目の前にいるのは精霊王で、オルジュの主で、固有種としての役割を放棄したとしてオルジュに仕事をさせ直している管理者だ。
「はい。」
喧嘩を売りに行くと決める。卑屈になっても、卑下しても、わたしの価値は変えたくない。
「わたしは、インテーオ様の賭けに勝ったと思っています。オルジュをわたしの元に返してくださると仰った気がします。」
「ああ、言ったな。」
「わたしに、オルジュを返してください。」
「ああ、今すぐではない。返してもいいが見付けに行け。それが、お前への罰でもあり、お前への戒めでもある。」
「そんな…、」
「この者はさっきからお前との話を聞いているようだ。人間とは面白いな。選ばれると決まっている訳でもないのに、好いた者のために自分を捨てようとする。」
わたしのことですか?
尋ねようとすると、いきなり周囲の世界が神殿の中へと切り替わった。
明るい日差しの中に、師匠が立っている。
ベルムードとフローレスは建物の話をしていて、会話から想像すると、ほんの一瞬しか時間は経過していないように感じられた。
「ビア、」
わたしを見て、何か言いたそうな顔をしている師匠は、思いっきり事情を知っていそうな気配がした。話し、聞いていましたね? と聞くのが怖い。
「そろそろ行きませんか、」
わたしは何もなかったふりをして、ベルムードたちに声をかけた。師匠にもさりげない素振りで「次、行きましょう。アンテ・ヴェルロの街へ」と提案してみる。
インテーオと話した時、わたしは自分が何者でどういう存在なのかを話していた気がする。
どうか、聞かれていませんように。
風の精霊王さまの神殿を出て、フローレスの案内で馬車を借りて移動していても、師匠とは目が合わせられなかった。
ベルムードやフローレスに聞かれていても、こんなに焦らなかったかもしれない。
他の誰かに嫌われても平気なのに、師匠には、嫌われたくなかった。
※ ※ ※
ブロスチの街を北東に進んで検問所を越えてアンテ・ヴェルロの街へ到着する頃には、わたしは平常心を思い出していて、師匠の顔をすんなりと見れる程に気持ちは回復していた。
あれは、例え話だもの。現在のわたしの話ではないもの。
開き直るようにして馬車を降りようとすると、師匠が手を貸してくれた。
「師匠、ありがとうございます。」
愛想よく笑えたりもできた。わたしってなかなかに役者じゃないかなと我ながら感心する。
先に降りていたベルムードがフローレスやアンテ・ヴェルロの門番に、何かを話し掛けている。
地面に降り立とうとした瞬間、ふわりと、体が浮いた。
「わっ、」
師匠の胸に、抱きしめられていた。
「すみません、躓いてしまったみたいです、」
慌てて師匠の腕の中から逃げ出そうとすると、耳元に指が触れて、はっきりと言葉が聞こえた。王様の耳だ。
「あなたがどんな姿であれ、生きていてくれて私は嬉しいですよ、」
目を丸くするわたしを地面に降ろして、師匠は「私がオルジュの代わりをしましょう。ビアが誰かを助けるように、私が、ビアを助けましょう」と静かに微笑んだ。
ありがとうございました




