3 頭は大事になさってください
「短刀術はあまり得意ではないのです。笑わないで、」
こっそりと自国語で囁いた声の通りに、フローラの一投目はテーブルの手前に当たり、そのまま石畳にカランと音を立てて落ちる。
観客からはアアア…、と落胆の声がする。
「妖華の名が廃りますぞ、フローラ様。どうなさいました、我が国の恥ですぞ、」
ニヤニヤと笑いながらヴァルダン候が貶す。「酒を飲んでいても、私の方がうまいのではありませんか、」
ムッとしたフローラの顔を観客から隠すようにさっと通り抜けたラケェルが「悪いな、」と進み出て、さっさと先に投げてしまう。
サクッと刺さったのは果物の器のあるテーブルで、高ささえあれば果物に刺さっただろうにとフリッツは思った。
「惜しいですね、若様、お得意の白魔法で強化なさればよろしかったものを、」
言葉とは裏腹に、馬鹿にしたような表情のヘルーマ候が声をかける。
「なあに、一投目だ、挽回するよ。」
澄ました表情のラケェルはそっとフローラに「酔っぱらいの戯言だ、気にするな、」と声をかけ、「お互い、一番の敵は身内とは、嫌なものだな、」とフリッツにも微笑んでくる。
フリッツは姿勢を正すと、前に出て、すっと息を吸った。観客の後方に、ランスの姿が見えた。ナイフ投げは護身術の一環で学んだことがある。フリッツを見てランスは小さく頷いている。
「では、我が国の未来の勇者、義兄上様、」
低い笑いは嘲笑だ。フリッツは意地の悪い顔で笑うラドルフを意識しないようにして息を吸って前を向いた。
そうだ、私は勇者だ。運が味方すると名前のない人も言っていた。いつも通りこなせばいい。
肘に手を添えて、ぶれないように力を込めてナイフを投げた。
すっと刺さったのはバルードのナイフの刺さったのと同じグレープフルーツで、「義兄上様、ルールを聞いておられましたか?」と揶揄うようなラドルフの声が聞こえた。
「一番真ん中にあてるのではなく、より小さな果物にあてる競争ですよ。皆さん、お間違えなく!」
「判っています、」
自国の将軍の声に、フローラが制するようにわざと母国語でぴしゃりと言う。
「カルダン、あなたも魔法が使えなくはありませんね? へぇ、より小さい的ですか。私は大きな的の方が、人の頭に大きさが似ていると思います。」
冷ややかに笑ったフローラの人差し指の先からリボンのような細い炎がくるくると腕を這い、とぐろを巻いた。フローラは黙って指先をカルダンの方へ向けた。
「ほら、人の頭も、ここからは同じ大きさに見えますよ、」
殺気を向けられた将軍は「お戯れを、」とさっと顔色を変えた。
「二投目は私からでもよろしいですか、バルード殿、」
「ええ、構いませんよ、」
にっこりと微笑んだバルードは、フローラに優雅に道を譲った。
「私は戯言としか思ってはいませんが、勝ちたいとも、思いません。」
公用語で独り言を呟いたフローラの、ナイフを持つ手から鎖のように炎のリボンが伸びて、ナイフの先までくるくると巻き付いた。
「ですが、私には私の戦い方があります。」
すっと手を伸ばすように投げたナイフは、そのまま炎を巻き付けたまま、グレープフルーツの斜め上の赤いリンゴに刺さった。ジュッと音を立てて一瞬にしてリンゴは焼き上がり、煙が上がった。
焼きリンゴの甘い香りが漂い始める。遠く離れているフリッツたちの元にまで、微かに漂った。
オオオ…! と、上がる感嘆の声は、技の華やかさからだった。
「お見事です。」
「さすが妖華フローラ様、絶妙です、」
盛大に拍手するのは臙脂色の制服を着た公国の騎士たちで、カルダン将軍も顔を上気させて「フローラ様万歳!」と盛大に拍手していた。
「では、僕も、」
ナイフを持つ手に左手を翳すと、ラケェルは小さく呪文を唱えた。空中に白銀の魔法陣が浮かび上がり、魔法陣の中から流れ出た文字が輝きながらラケェルの腕の上に馴染んでは消えていく。
「僕は白魔法が得意だ、」
ラケェルがふわっと投げたナイフは、とてもナイフを投げるような仕草には思えない優雅さだったけれど、ナイフ自体が意志を持つかのように自ら軌道を修正して勢いよくリンゴの影のオレンジに突き刺さった。
歓声が起こり、ヘルーマ候は高揚した顔でラケェルに手を振り、頭の上で大きく拍手をした。
「残るは、義兄上様とバルード様ですな、」
観客たちが興奮している。私が勝つのか、彼が勝つのか、期待して臨んでいる。
フリッツはスーッと息を吸って気持ちを落ち着かせると、自分も興奮しているのだと自覚して、苦笑いをした。あと一投で、勝負は決まる…。
「あなたに敬意を表して、勝ちを譲りましょう。でも、私もタダで譲る気はありません。」
フリッツの前にさっと出て、バルードは柔らかい表情で、フリッツを見つめた。
「私は弓が得意です。投げるのも、それなりに、」
立ち方を変えて、弓を構えるように左手を前に出すと指さし、体勢を整え、姿勢を正したバルードは、縦に投げつけるように腕を振った。赤いリンゴとオレンジの上に置かれていたレモンにペーパーナイフが勢いよく刺さる。
大きな歓声が起こり、「さすが弓の名人バルード殿、」と拍手が沸き起こる。
どんどん果物の大きさは小さくなってきていて、それでも、誰もがフリッツに勝ちを譲ってくれているのだと判る。やりにくいな、とフリッツは思ったけれど、まっすぐに前を向いて瞳を閉じ、果物の盛り上げた山を間近で観察したのを頭に思い返していた。
あの盛り合わせは、確か隙間を埋めるために固いプラムの実を噛ませていたはず。
ここからは影になって区別がつきにくいけれど、大きな玉だけでは全体を支えきれないので、食べられないのを前提に熟れてないものを補強として噛ませていたはず…。
「どうかなさいましたか、義兄上様、」
意地の悪いラドルフの声がする。
「怖気づかれましたか? あなたらしくありませんね、」
「ラドルフ様、言い過ぎです、」
珍しくラナの困ったような声がする。
「そうですか? ラナ殿、あなたの義兄上様を私は大層応援しているのですよ、」
とてもそうは聞こえないラドルフの言い方に、フリッツは一瞬イラっとしたけれど、腕に置かれた暖かい手に、驚いて顔を上げた。
「君を勝たせたい、」
そっと王国語で囁いたのは観客席に背を向けて立つラケェルで、隣には小さく頷くフローラもいる。
「どうするつもりだ?」
「決まってる、」
ラケェルはフリッツの右腕に手を翳すと、小さく呪文を唱えた。さっきと同じように空中に白銀の魔法陣が浮かび上がり、魔法陣の中から文字が流れ出て、輝きながらフリッツの体に溶けて消えた。
「これは体力強化の魔法。効果は一時だけれど、普段の倍に力が増す。」
「いいのか?」
「ああ、私の白魔法は時の女神さまとの契約で、誰かのために正義を為すときに効果が得られる。君は、誰かのために行動した。その行為は崇高だ。賞賛に値する。」
「もしかして、もう加護を得ているのか…?」
答えずにふふっと微笑んだラケェルにさらに問いかけようとしたフリッツに、そっと反対側からフローラが手を伸ばしてきた。
「私も、あなたに協力します。」
王国語でそう言いながら、人差し指の先から炎のリボンを出現させ、フリッツの腕に巻き付かせた。
「私は火の精霊王さまに加護を頂いています。正しき道のために世界を照らす炎の契約です。」
フリッツに腕に巻き付く炎はなぜか熱くなくて、ラケェルによって強化された体の機能がより熱く強くなる気がした。
「あなたが、どういう人間なのか前回会った時には判りませんでしたが、今日会えて、私の判断は間違っていなかったのだと悟りました。」
にっこりと微笑んだフローラはとても美しくて、妖華の異名は間違ってはいないなとフリッツは思った。
「自分を信じて、フリッツ。幸運を、」
ポンと肩を叩いたバルードまで、フリッツに微笑みかけていた。
小さく頷いて、フリッツは胸を張ってナイフを手に構えた。
目指す的は、かすかに見える、グレープフルーツと傍の青リンゴと隙間にあるはずのプラム…。
ラケェルも、フローラも、もう加護を貰っている。私だけが、何も貰っていない。当たり前だ。竜王を探しにすら行っていないのだから。
フリッツは小さく微笑むと、顎を引いた。
彼らと対等に旅がしたい。
的になる果物の山の中の、プラムを、まっすぐに見据える。
加護は、信仰する女神や精霊や竜王から貰うのが一般的だった。住まう神殿まで直接出向き面と向かって願わなければ貰うことはできないとされていた。
加護を貰うことでちなんだ能力を持つことが許されるとされていて、神殿で神官を介してもらう祝福とは効果も違えば難易度も違った。ラケェルもフローラも、危険を伴う旅をしたということだろう。
彼らとの旅が始まる前に、私も、加護を得たい。
このままでは、出遅れたままだ、竜王の加護を手にしたい。一番穏やかだとされる地の竜王でもどの竜王でもいい、ひとつでもいい。私も、加護を貰えるような人間だと彼らに示したい…。
ヒューイ、と誰かが指笛を鳴らした。
投げろという合図だろうか。そんなに時間が経っていたのか、と苦笑いをして構え直す。
フリッツたちの立つ位置からはくっきりとは見えないはずのプラムがはっきりと見えた気がした。
あのプラムに刺さる。このナイフは、そういう未来に飛んでいく。
投げたフリッツが聞いたのは、歓声と、果物の盛られた山が崩れる音だった。
慌てて侍従や侍女たちが、確認も兼ねて果物を拾いに駆け寄る。
「ありました!」
カークが、満面の笑みを浮かべて、ナイフが刺さったプラムを掴んで手を大きく振った。プラムは少し焦げていて、でも、しっかりと種まで貫通していた。
「お見事です、フリードリヒ殿下、」
拍手をしながらランスやキュリスといった王国の騎士や兵士たちが歓声を上げた。
喜びを分かち合いたくてフローラやラケェルを振り返ると、彼らは背を向けて自国の騎士団の元へ去っていく最中だった。
バルードの姿もない。
そっけない態度に驚いて目をぱちくりとさせたフリッツに、ラドルフが「さすがは義兄上様、お見事です、」と拍手をしながらラナとともに近寄ってきた。
※ ※ ※
ラナのドレスの影に、白い猫の妖精が見えた。フリッツの部屋に棲む猫のような何かとは違って、瞳の色が緑色をしている。この中庭に棲む猫だ、とフリッツは思った。上目遣いにフリッツを見て、もじもじと、何か言いたそうな顔をしていた。
よく見ると、ラナは気が付いているのか、フリッツの視線の先にいる猫のような何かを察している様子で、フリッツを見て、にっこりと微笑んだ。
ラナには見えるのだな、とフリッツは理解して、もしかしたら今まで見えていなかったのは自分だけなのかもしれないなと気が付いた。
いやらしい笑みを浮かべて、馴れ馴れしい態度でラドルフがこの国の言葉で話しかけてくる。
「義兄様はさすがですね。清く正しい勇者様はここぞというときにお力を発揮されるのですから、」
「貴公は酒は飲まない方がいいのではないのか? 酒に飲まれているのか、言葉が不自由しているではないか、」
やんわりとフリッツはラドルフの酒を飲んでからの言動を窘めた。
「私はいたってまともですよ、飲まれてはおりません。やはり、身分の低いものはいけませんね。言葉が通じないなんて、人間でないのと同じではありませんか、」
「止せ、ラドルフ、いい加減にしろ、」
聖堂の剣士たちの中にはこの国出身の者もいた。
ラドルフの言葉に腹を立てたのか、猫のような何かはラナの影から出てくると、ラドルフの足を思いっきり踏みつけた。
実体がないはずの猫に踏まれたラドルフが突然よろめいて仰け反り、尻もちをついてしまった。そのまま、勢いが余って、背中を打ち付けている。
あっという間の出来事に、フリッツもラナも目を見張った。
「痛い、いったいどうしたというのだ!」
ラドルフの怒号が響いた。「誰か、私を起こせ!」
「お怪我はございませんか、」と近衛の騎士や侍従たちが集まってくる。
警護に当たっていたキュリスやビスターたちだった。
「何でもない、大丈夫だ、」と言い張るラドルフを両肩を抱えて抱き起し、この国の言葉でだったやり取りを聞いていたのか、「いえいえそんなことはありません、頭は大事になさってください」、「頭を打たれたのでしょう、ぜひとも医務室へお運びします、」と無理やり連れて行ってしまった。
小さな声で、ラナが「いい気味、」と言ったのをフリッツはしっかり聞いてしまって、いったいどういう関係なんだと不思議に思った。
ありがとうございました




