7 私、精霊を食べたの
「早く、」と急かされて入ったドアのうちは明るくて、色鮮やかなステンドグラスの華やかな色合いではなく真っ白な光に満ちていた。
フリッツが目を慣らすうちにラナはドアをしっかりと閉めていた。掃除道具がきちんと整頓されておかれた小部屋のような部屋を抜けると長い廊下が続いていた。外から見た間取りを思い出して、礼拝堂の中の礼拝所の裏手にある廊下なのだろうなと想像する。
光の中を歩くラナの後姿を追って歩いて、フリッツは、礼拝堂の中は自分たち二人だけなのだと認識して話しかけた。
「ラナ、ここは入ってはダメなのではないのか、」
「…お兄さまは、本当に忘れてしまったのね、」
「何を?」
入場の許可などあったのか?
「ここを私に教えてくれたのはお兄さまでしょう?」
「何を、」
くすっと笑って振り返って、ラナはフリッツに視線を向けると「もっとも、鍵を最初に開けたのはお兄さまだったわ。こうするんだよって教えてくれたの。もう覚えていないでしょうけど、」と呟いた。
「なんのことだ?」
立ち止まらせようと肩を掴もうとしたフリッツをスイーッと身を躱し避けるように早く歩いて、ラナは堂々とドアから礼拝所の中へと入った。広い礼拝堂の入り口に立つ騎士の姿は見えなかった。ドアの前ではなくドアの脇に立っているのもあって、礼拝所の中に人がいるとは夢にも思っていないのだろう。
「こっち、」
破邪の聖剣の仕舞われた細長い棺桶に似た頑丈で大きな箱が、鎖が台座と箱とを固定するかのように巻き付かれているのが見えた。中を見るには鎖をまず解かなくてはならず、鎖は王族しか解けないという呪術が仕掛けてあるようで、フリッツは王族だけれど触ってはいけないと父からも母からもきつく言われて育ってきていた。
鎖の絡まる台座の裏手にある階段を躊躇う様子すらなく降りていくラナは、驚くフリッツに手招きをして暗がりの中へと降りていく。
フリッツが仕方なくついて行くと、長い長い階段を下った先は明るく広い白い石で作られた広い部屋へと出た。部屋の中心には、フリッツの腰の高さほどの大理石の台座の上に、黒曜石で出来た頭を垂れるようにして大きく翼を広げた片目の竜の石像があった。フリッツの背の高さほどもある竜の姿は、艶やかに体を光らせていて、生きている滑らかさがあり妙に生々しい。
部屋の奥にはまだ下っていく階段が続いているので、ここを降りた先が納骨堂なのだろうとフリッツは想像した。
灯りなどない部屋の中は天井近くの壁に飾られたいくつもの発光する石のおかげで明るくて、フリッツはどういう名前の石なのだろうかと考えながら見上げていた。竜魔王退治の旅で、ああいった発光する石でランタンを作って持ち運べたなら、灯りの心配などせずに済みそうだ。
石畳の部屋はカビた臭いもなく、清涼感のある清潔な空気がどこからか漂ってくる。あの奥の階段を降りた先には湖でもあるのだろうか。
黒光りする竜の石像を前に、ラナは立ち止まるとフリッツに振り返った。
「お兄さま、あの日のこと、覚えてる?」
石像を見つめたラナを倣って石像を見ると、黄緑色の竜の瞳にあるはずのクルミほどの大きさの宝石がひとつ欠けている。黄緑色の透き通る中に縦長に光る筋のある石は、クリソベリル・キャッツアイという宝石なのだとフリッツは知っている。両目があった方が均整がとれるな、と想像してみて、もともとないわけではなさそうだ、と気がつく。フリッツから見て右側の、左目が刳り貫かれたようにない石像は、いつから片目がない状態でここにあるのだろう。
あの日のこと、とは、片目を差すのか?
「覚えてはいない。あの竜の瞳の宝石がひとつ足りない原因が、まさか私にあるのか?」
「ううん、私、」
ラナは恥ずかしそうに、悲しそうに、自分を指さした。
「あれはお兄さまに魔法の教えてもらっていた時だったわ。」
「いつの話だ?」
フリッツの記憶の中にない事柄を口にされても困る。学者たちの言っていたのは父から聞いた噂話なはずで、ラナの言う話は真実なのだとしたら、ここという場所も、どうして覚えていないのかという理由も気になってくる。
「何年前かしら。まだうんと背が低かった頃ね。」
曖昧に微笑んで、ラナは話を引き戻す。
「あの時、お手本を見せてもらってもどうしてもできなくて。魔力がないからできないんだって、お兄さまに言ってみたの。お兄さまの魔力を頂戴って、」
魔力を頂戴? そんな言葉を聞いた覚えがないのは何故だ。
「冗談だったの。まさか、ホントに、」
「ラナ、」
「あの日は、私、すべてが嫌になっていたの。幼いのに絶望していたわ。大人になったら、お兄さまはこの国を貰う。お兄さまはお父さまとお母さまとこのお城に住み続ける。お兄さまは賢いし美しいし魔力も持ってる。なのに、私は魔法も使えない。このお城を出て、一人ぼっちで、何も持たないまま生きていくんだって。そんなのズルいって、そんなの、何でも持っているお兄さまなら、私に何か譲ってよって、魔力ぐらい頂戴って、癇癪を起こして泣いたの。」
いったい、いくつの時の話だ? 記憶にないフリッツは、何を言われているのか思い出せなくて戸惑っていた。激しい感情を目の当たりにしていたなら、少しでも覚えていてもよさそうなのに、何も、覚えがない。ラナが泣くのはいつものこと、と割り切ってでもいたのか?
「魔力は見えないものだからあげられないって、お兄さまは仰ったわ、でも、私、諦めきれなかったの。」
「ラナ、」
「お兄さまは御公務につかれることになったからお時間をお取りできませんって、言われるようになって、私、ひとりでここに来ていたの。お兄さまにはひとりで来ちゃダメって言われてたけど、お城の中で、一人で練習できる場所は、ここしかなかったの。」
ラナは泣きながら、竜の石像の空虚な左目に指を突っ込んだ。
「声が、聞こえたの。お前には魔力があるけれど、魔力は使えないのだ、って。あいつの声が、」
「魔法が使えるには、魔力が必要で、魔力は持って生まれないと使えないのだろう? ラナも私も、魔力を持っているのだろう?」
ラナは、魔法が使える。フリッツは、使えない。それが、フリッツの知っている『現状』だった。
「お兄さま、陰火って、知ってる?」
「いんか…? なんだそれは、」
話が飛ぶ。もしかして、時系列も飛んでいるのか?
「私、陰火なんだって。公国の歴史を学んでいて、かつて公国の国民のほとんどが属性と性質を持っていたと習って…、もういないはずの性質なんだって知って気になって、調べたの。細かくはその時知ったわ。でも、あの時は知らなかったの。」
大粒の涙がラナの頬を滴って落ちて、しゃくり声をあげながら泣き出していた。
「陰火に生まれると、条件が整わないと魔法は使えないって、私、知らなくて、」
閉じた空間が不安を呼ぶのか? 明るい外なら違うのではないか。
フリッツは慌てて提案する。
「ラナ、一旦外へ出よう。部屋へ戻ろう。落ち着いて話そう。禁忌の場所にいても言い訳がしにくい。そうだろう、」
ラナの腕をとって外へと連れ出そうとするフリッツの視界の隅に、ゆらゆらと揺らめく、実体のない人影が、突如現れた。
美しいけれど儚い表情を、見た記憶がある。
花渡りで空を舞っていた精霊に、似ている。
「お兄さま、」
…魂を食べつくせ…
声にならない声に驚くフリッツの腕を振り払いしゃがみ込んだラナは、泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい、」と床に平伏した。
揺れ動きながら音もなく近付いて、精霊は、ラナの中に溶け込んで、ラナの姿に重なって、消えた。
「ラナ、いったいどうしたんだ、」
「私、だから、お兄さま、」
「何を、したんだ。最初から判るように話してくれ、」
泣きながら怯え震えるラナの顔を見ていれば、精霊を食べた以上のことをしたのだろうとフリッツは察せられた。
「お兄さまの魔力を欲しいと願ったの。魔力が目に見えないなら形にすればいいって思ったの。まさかそれがそんな、」
震えるラナを抱きしめて背中を擦ると、ラナは熱く燃えるような体を震わせて、絞り出すように言った。
「お兄さまの魔力が集まってきてしまったの。私には掴み切れなくて、私、綺麗な石だからこの石に集めようって、石なら持って歩けるからって、私、よじ登ったの。」
石とは、あのクリソベリル・キャッツアイの事か。フリッツはラナが咄嗟にフリッツの魔力で魔石を作ったのかと推測した。
それにしてもなぜ、願っただけで魔力が集められてしまうのだ?
「お兄さまの魔力は、ここにあった石に封じ込めてしまったわ。私、それを、」
「馬鹿な、そんなはずは、」
冷静に考えれば、封じ込められていたのなら、フリッツの魔力を使って地の精霊王ダールは魔法を使えたはずがない。火の精霊王リハマが、魔力を使えている訳がない。
首を振るフリッツを見て、泣きながら笑ってラナは言った。
「私、魔法が使えるのよ、お兄さま、」
すぐさま顔色を変えて、ラナは、俯いた。
「持って行かれてしまったの。あの日に限って、私の後を追いかけていた者がいたなんて、気が付いていなかったわ。ごめんなさい、お兄さま、」
「誰だ、ラナ。誰なんだ、」
顔を覆うようにしてラナは涙を拭うと、唇を噛んで、血の滲んだ唇で、呟いた。
「ラドルフ。フォイラート公のところの、ラドルフ。」
「ラナ、まさか、もしかして、」
「裏口から出ようとしたら、見つかったの。王女様、何をされているのですかって。何でもないのって言ったのに、あっちに行っててって言ったのに、私の手の膨らみを見つけて手首を捕まえてきたの。無理やり掌から石を取り出して、これはなんですかって聞いてきたの。」
フリッツはラドルフのニヤニヤした表情を想像して、無遠慮なあいつならやりかねないなと思った。
「大事な石だから返してって言ったら、どうして大事なんです? どこから持ってきたんです?って、しつこく言われて、この部屋のことは話せないから黙ってたら、ここはどういう場所なのかご存じなのですかって言われて。」
泣き止んでいるラナは、記憶の中に目を向けていて、暗い目をして空中を睨みつけていた。
「これは私から父上様にお返ししますよって言われて、返してって言っても返してくれなくて。強くなりたくて私、精霊を食べたの。精霊は、誰もが私に魔法を使う力をくれた。でも足りなかった。あの石がないと駄目なの。…お兄さまは、だから、魔法が使えないの、」
フリッツは、混乱しているラナの顔を自分に向けさせると、深く深呼吸をした。
「ラナ、よくお聞き、」
聞いているだけで、おかしな点がいくつもある。
「石に魔力を移す事は確かにできる。魔石と言う。でも、それは直接肌に触れていないとできない技だ。」
石に、ラナから魔力を移したのなら、それはラナ自身の魔力を溜めた石だ。
「精霊を食べる、というのは、どうやってするのだ? どうしてここに精霊がいきなり現れるのだ? 召喚したわけではないだろう?」
白銀色の猫のように王城に住んでいる精霊ではないものがここにいるのだとしたら、精霊であったのかどうかすら怪しい。魔物である可能性だってある。ただ、場所が場所であるだけに、聖域とも言える王城の霊廟に魔物が入り込むのは奇跡の所業だろうと思う。いや、地下にある水脈から直接上がってきた者なら、また話は別か。
「私が魔法を使えないのは、私自身、覚えていない理由があるのかもしれない。ラナが魔法を使えているのは食べてしまった精霊のおかげというのなら、その精霊が使う魔法はどこから魔力を得ているのだ?」
必死になって、ラナを支えようと、フリッツは考える。正しい答えも知りたい。何よりも、ラナが口を閉ざしてしまう前に、本当のことが知りたい。
「それは…、」
「もし仮に本当に、ラナが精霊を食べ、精霊のおかげで魔法が使えるようになっているのなら、ラドルフが持っている石にあるのは誰の魔力なのだ? 本当に私の魔力なのか、」
…ラナ、ラナ
ラナに重なった者の声が、ラナの体から聞こえてくる。
「ラナ、今の、」
…私が道を整えてやる、ラナ
「道を整える? 道をつなげるのではないのか?」
道を作るのが地竜王ギオウ様だったか、と思い出して、この精霊は水の精霊王シャナ様の影響下にある者か、と考え直した。
…お前の魔力は全てこの娘に流れ出るように道が整っている。
フリッツの目には、ラナはひとりにしか見えない。なのに、声は、ラナからいくつも聞こえてくる。
「どうすれば、ラナは自分の力で自分の魔法が使えるようになるんだ?」
…決まってる…。魔力を取り戻して、飲み込め…。
「ラナ、」
ガタガタと震えるラナは、ブルブルと肩を震わせて、「できない、できないよ、お兄さま、」と繰り返した。
「ラドルフに石を返してもらって、魔力を飲み込めばいいのだろう?」
「できない、無理よ、」
「どうして。」
「私、返してほしくて婚約までしたのよ? なのに、なのに、今だって返してくれないの。王族の霊廟にあった宝石だから返してって言ってるのに、ラドルフは、本当のことを話してしまってもいいんですかって言って、返してくれないの、」
叫ぶように言うなり、ラナはフリッツの腕を突き飛ばして逃げ出した。石畳を蹴るようにして駆け出したラナは「お兄さまの代わりに私が旅に出るから許して、」と言うなり走って階段をまるで飛ぶように軽く駆け上がっていった。身体能力を向上させる魔法を使ったのか?
「ラナ!」
追いかけるフリッツの目の前で、ギーッギーッと軋む音がし始めて、どんどん地上からの光が乏しくなる。足元が暗くなり、見上げたその先に、ラナの顔が少しだけ見えた。
「ラナ!」
「お兄さま、少しだけそこにいて。大丈夫。水も食料もちゃんと運んでおいたから、安心して。」
「何を、」言っているんだ、と言いかけたフリッツの頭上からドーンという音が響いたかと思うと、勢いよく台座が転がり落ちてきた。
「お兄さま、大丈夫。ちょっとだけそこにいてね。全部片付けてくるから。」
「ラナ、」
「待ってて、すぐ済ませてくるから。」
フリッツの周りに光が輝いた。シュンッと階段の狭い空間が広い空間へと広がった気がして目が慣れてくると、階段を塞いだ台座と崩れた石壁とで出口が塞がれた、さっきまでいたあの竜の石像のあった部屋の真ん中へと転送されていた。
ありがとうございました




