2 はっきりしない世界はもどかしい
三日間の離宮での生活を得て、やっと、フリッツは王城へと帰って来た。クラウザー領アンシ・シで魔法による干渉で雨が降ってから随分と時間が経過している気がして、でもあまり状況は進んでいない気もしていた。フリッツの中では成功体験と失敗体験とがごちゃ混ぜになっていて、どちらかというと、負けた気しかしない。
馬車が王城へ到着すると出迎えたのは騎士たちで、騎士団の一員の帰還という扱いだった。王子に向けての対応には思えないほど簡略で簡素なものだった。
一息つく間もなく近衛兵隊長がフリッツを迎えにやってきた。粛々とした表情で目を合わせる機会すらなく謁見の間でお待ちですと告げられて、居心地の悪さはますます濃くなる。
何かがこの先に待っている。何かはあまりよくない何かなのだとしか思えない。久しぶりに会う家族の待つ謁見の間に向かう足取りも重くなってくる。
調査団として国境へ向かって旅に出た約ひと月ほどの間、あくまでも新人騎士フリッツ・レオンとして振る舞ったフリッツに同行していた近衛兵のキュリス、ビスターは王城に帰ってすぐ呼び出しを受けて去っているし、カークも侍従長に呼び出されていた。教官役のランスまでも騎士団長からの呼び出しがあり先に騎士団へと戻されてしまっていたし、しかもドレノはいったん聖堂へと戻るようにと王命を受けて王城を前に引き返していたらしかった。王城に入れてすらいないのだ。
フォートは、アンシ・シで雨の中、拘束されているのを見て以来、会わせてもらえていない。クラウザー候が別に用意した馬車で王都へとやってきているはずのフェムールやロレッタ嬢ともフリッツは面会が出来ていない。彼らが無事であるという事実ぐらいしか、フリッツには知らされないでいた。
一枚一枚羽を剥ぐように、フリッツの周囲にいてくれた者たちをわざと傍からと退けようとしている気がして、慣れているはずの孤独が落ち着かない。
※ ※ ※
計画し想定していたのとは全く違った旅となってしまったので、聞き取り調査や罰則処分を言い渡されたりするだろうなとは覚悟して部屋に入ると、父であるアルフォンズ・ジョナールや母のクララ、妹のラナが大勢の侍従や近衛兵たちに囲まれている姿を見つけた。触れる距離もなく顔を合わせただけなのに涙ぐんだ妹とのラナを見て、フリッツは再会の喜びを分かち合おうと足早に部屋の中へと入ろうとした。
「待ちなさい、」
静かな声に、緊張が走る。フリッツが立ち止まると、父に言葉ではっきりと制されてしまった。
ザッと音が重なって一斉に、フリッツの前に立ちはだかるように近衛兵たちが壁を作った。父や母、妹の前には甲冑まで着込んで武装した騎士たちまでも剣を構えて警戒している。
まるで、フリッツは危険人物でもあるかのような扱いだ。
キュッと口を結んで明らかに警戒した面持ちで険しい表情になった騎士たちを睨みつけたラナは、一歩引いて後ろに下がって腰に手を当て身構えると、近衛兵隊長に足止めされているフリッツを見ていた。
「父上、」
これはいったいどういう扱いですか、
疑問の声を口にする前に、父である国王が静寂を破る。
「まず先に旅装束を解いて身支度を整えて、聴聞会を済ませてきなさい、」
穏やかではない表情の父や母、妹の顔や、警戒する騎士たちの闘気に何とも言い難い拒絶と不安を感じて、でも動揺を見せないようにフリッツは顔をあげた。
「すべてはそれからだ、」
いったいこれは、どういう状況なんだ?
困惑を噛み殺して一礼をして、フリッツは部屋を出た。
聴聞会。
自分が想像していた以上に状況は最悪だ。
自分の歩く足音ばかりがむなしく響く廊下を急いで、フリッツは状況を整理するために自分の部屋へと戻った。
いろんな出来事があり過ぎる。
※ ※ ※
フリッツの部屋に棲む猫のような何かは、部屋に帰ってきたフリッツを見るなり、ぶわっと体中の毛という毛を逆立てて震わせて、フリッツに抱き着こうとして手を伸ばして、でも引っ込めて我慢して下を向いて耐えていた。
見えていないのだから触れてもバレることなどないのだと、この猫のような何かは思わないのだろうか。触れるには許可がいるとでも思っているのだろうか。フリッツに自分の姿を見られてしまっている状況に気が付いていないのだろうと確実に思えてきて、どうにかして見えていて存在に気が付いている事実を伝えたいと思ってしまった。いっそのこと、抱きしめてしまおうか。
部屋の外には近衛兵たちが待機している。部屋の中にいるのは、待っていてくれていたカークとフリッツだけしかいないと思われている。
身支度を整える短い時間でも寛いでもらおうと脇見もせずお茶の用意をしようとするカークがフリッツの動向に気が付いていないのをいいことに、フリッツは、猫のような何かのふわふわと柔らかい頭を撫でて、目を合わせて微笑んだ。
<ありがとう。>
地の精霊王ダールとは女神の言葉を使って話したのを思い出して、猫のような何かに小声で感謝の気持ちを伝えてみる。
猫のような何かは目を見開いて、口をパクパクとさせた後、大きな丸い目を潤ませた。握っていた指を広げて、でも、フリッツに抱き着く所作などはなかった。空気を握りしめて、へへへっと笑った。
自分が人ではないと、妖だからと、気を使っているのか。
いじましく思えてきたフリッツは抱きしめたくなる衝動を我慢して押さえて、自分の前髪を一本抜くと、猫に差し出した。
貰った髭に対する対価にふさわしいものがそれしか思いつかなかっただけだったけれど、猫のような何かは一本の髪の毛をじっと見つめて、恐る恐る手を伸ばして、ぶるぶると震えながら黙って受け取ってくれた。
<私の名前は、フリードリヒ・レオニード・リュラーだ。お前は?>
言葉を理解していそうな表情から、猫のような何かは話ができるのではないかと期待していた。話ができるのなら名前が知りたいと思ってしまったフリッツは、自己紹介をしてみた。
目を丸くして見開いて、猫のような何かはもぞもぞと口を動かして声を発した。ニャーという音にも聞こえた気がしたけれど、重なるように乾いた声で、<ジーヴル、>と言った気がした。
<霧氷? >
フリッツは聞き返して、目の前の白い猫のような何かの毛並みを改めて見つめて納得した。
白い毛並みがとても美しいからなのだろうか。雪でなく氷なら、初冬生まれなのかもしれない。
<とてもいい名だな。>
囁き返したフリッツにシーッと指を立てて口を噤むような合図をして、猫のような何かは意を決したように真顔になって、貰った髪の毛をぱくりと大きく口を開けてあっという間に飲み込んだ。フリッツが驚いている間にくるりと一回転して毛の長い白銀色の猫に変身すると、その姿のまま、フリッツの横を通り過ぎてソファアの端っこにちょこんと座った。
驚いて目を見開くフリッツに、白銀色の猫は甘い声で鳴くように宣言した。
<ジーブル・トリ・ヴァニス・スヴィルカーリャは、兄として弟してフリードリヒ・レオニード・リュラーを守ると誓うよ。>
スヴィルカーリャ?
兄? 弟?
猫のような何かの声にしては鳴き声ではなくはっきりと言葉を聞いた気がして、フリッツが目を瞬かせて戸惑っていると、カークが甘く苦い茶葉の香りを漂わせながらカートを押して部屋に入ってきた。
「殿下、お茶にしましょう。おや、いったい、いつの間に。」
お茶の用意の乗ったトレイを台車に乗せて戻ってきたカークが不思議そうに猫を見つめている。姿が見えているんだ、と思うと、フリッツはジーブルが何を考えているのか判らなくなってきていた。守るとは、姿を現す勇気を言うのだろうか。
「どこのお部屋の猫なんです?」
そんな言葉が自然に出てくるなんて、王城には部屋で室内猫を飼う人物がいるということだろう。フリッツは猫のような何かとは別に本物の猫がいるのは知らなかったので、意外だなと思った。母であるクララの部屋にいる猫のような何かに似た者たちとは別に、猫までいるのか。
フリッツの隣りにいる猫が気になるカークの、捕まえようとする手を躱してさっと逃げてしまうので捕まるヘマなどなかったけれど、毛の長い白銀色の猫は猫のような何かがしていたように大人しくフリッツを見守るように様子を見ている。ただ、以前と違うのは、カークにも自分の存在を見せている、という変化だ。
ジーブルは猫の人形のようにじっとして、フリッツがお茶をしていても瞬きもせず見ているばかりで邪魔をしないので、捕まえるのを諦めたカークが「この子は賢い良い猫です。躾けの行き届きっぷりがすごいですね、」と苦笑いをしていた。
念のために、既に侍従長に面会を済ませていたカークに何があったのかを尋ねても目を逸らすばかりで、フリッツにはとても答えてはくれなかった。お茶受け代わりに話してくれたのは、ざっくりとした王都の状況や王城での進捗状況だった。
話を聞けば聞くほど、王国の各地で起こる竜魔王率いる魔物たちによる殺戮や侵略は、フリッツが王都を離れていたたったひと月ほどの間で倍以上に増えている印象がした。
しかもカークは「シャルーが捕まえた狼頭男の遺体は処分されると決まったそうです、」とだけ教えてくれていた。処分という言葉に魔物である者の扱われようを改めて知ってしまって、「そうか、」としか答えられなかった。フォートが一体どんな状況なのかを考えると、ますます気が重くなってくる。
このままだとこんな事件が来月にはもっと増えるのか?
幸いこの国では現段階で内戦や反乱、謀反などない。皇国や公国とは同盟があるかぎり臨戦状態ではない。国境警備隊、王城の騎士、国王軍といった、この国を守る者たちが一丸となって立ち向かえば、国難は軽く済むのだ。そんな風に感じていたのに、フリッツ自身が断罪を目的とする聴聞会に掛けられようとしている。
※ ※ ※
フリッツはお茶をし終えると、王子として正装して身支度を整え、呼び出された聴聞会室へとカークを連れて向かった。
頭の中では、どう対応するのが得策で最善策なのかばかりを考えていた。
父アルフォンズの直属の聴聞会は公的な存在ではなく、王族の私的な法廷と言える調査機関だった。王都にある王立学術院の学者や法務官が任命されていて、良くも悪くも守られている存在で実践的ではなく、実働部隊とはかけ離れた価値観の人種だとフリッツは受け止めていた。彼らが調査の対象とするのは基本的に貴族で、表立って裁けない事情のある事件を専門に扱っている。声高に話せない事情を抱えた者を民衆の前で裁判にかけ秘密を語らせないまま国賊とするには不公平となってしまう恐れのある者が対象で、王太子として王城で暮らすフリッツとしては、それぞれが持つ秘密を暴露しないかわりの極秘裁判という印象を持っていた。
聴聞会はいつも同じ構成ではなく、基本的に4人いる宰相たちのうちのひとりと将軍と、それぞれ推薦した学者1名ずつと国王である父が推薦した学者1名の合計5名が選出されていた。
5人は聴聞会室にて聞き取りをし質問により深く掘り下げ、話し合い、最終的には多数決で判断され、この結果をもとに表立っての量刑が決められていると聞いていた。
聴聞会の決定には法的な拘束力はないとされていても、そうそう結果が覆される事態などなく、例え学者が爵位を持たない平民の出身者であったとしても、この聴聞会には国王に意見し国を動かす力があった。
聴聞会は悪事を働いた者が行くところだ、と認識していた。
王族でありながら身分を新人騎士と偽り調査隊に潜り込んで王都を出た時点で、呼び出されている原因に心当たりがない訳でもない。こっそり出かけてひっそりと帰ってくる予定だった当初の計画が、計画通りに進まなかった責任は取るつもりでいる。
王族として逃げ隠れするべきではない状況だ、と判っていても足が重くなる。王城で行われる以上、王の下に平等に情報は精査され、同時に王子としての尊厳も威厳も尊重されるだろう状況も想像はつく。フリッツが多くを語らなくても、王都に戻ってからの一週間ほどの間にある程度の情報は収集され、解析されて、客観的な見地からの事件の掌握も済んでいるだろうと推察していた。
ただ、父も母もラナも呼ばれたことなどない場所なのだと、フリッツは知っている。
王子を聴聞会にかけるのは事態の早期収拾を図る治世者の立場で考えれば妥当と言えて、抵抗するのは愚かだと思えても、本心は行きたくない。何があったのかを整理する行程なのだと考えようとしても、フォートを語らないままでは終わらせられないのだと判ってしまう。
フリッツ自身に後ろめたい感情がないのもあって、いくら探られても身は潔白であり、自らが語らなくても周囲が証明してくれるだろうとも判っている。
そしてそれは、フォートを庇うことができなくなってしまった、という事実の確認だろうとも判っている。
いろいろ考えていても結局は、幼い頃から作り上げてきた王子である自分という姿が、本当は尊敬されるような存在ではなく虚像だと判断されるかもしれないと思うと、怖い。理想像を手放したくなくて現実を見たくない気持ちで逃げたくなる。
そんな自分の弱さに腹が立つし、一番、知りたくなかった。
前を行くのは近衛兵隊長で、後ろを歩くのも、見慣れない顔の近衛兵で、フリッツの知っている人間がいない。
自分の知らないところで自分の望まない事態が起きている。
想像していた以上に、自分は不利な状況にいる。
不安ばかり満ちてはっきりしない世界はもどかしくて、フリッツは生きている心地を確かめたくてギュッと手を握った。
床に落ちる影が、自分を追いかけてくるのが見えた。
長い廊下の開けっ放しの窓の外の桟を、毛の長い白銀色の猫が尻尾を立ててバランスを取りながらついて歩いてくる。ジーブルだ。部屋を出ない猫だと思っていただけに驚きだ。
フリッツと目が合うと、白銀色の猫は気まずそうに数秒立ち止まって、また、とことこと歩いている。
付き添うカークは、気になるのか、時々猫を見ては溜め息をついていた。
窓の外をついてくるジーブルは、見守るというよりは、フリッツが心配でならない様子だった。今も、聴聞会に呼び出されたフリッツを追いかけている。
私には、私を大切に思ってくれる者がいる。フリッツは彼らにまで失望されたくないとはっきりと思った。
聴聞会室は広い王城の中では本城と呼ばれる城の中にある。この国の王城は長い年月をかけて増改築が繰り返され、フリッツたち王族が暮らす旧城とも宮城とも呼ばれている本宮の他に中央に本城と呼ばれる比較的新しい城があり、本城の東側に春宮と呼ばれる演習場や鍛錬場や美しい庭園を備えた華やかな城、西側には秋宮と呼ばれる衣食住といった生活を維持する機能に特化した城、南側に夏宮と呼ばれる謁見の間のある小さな城が本城を囲むように広大な敷地の中に建っていた。
中庭と呼ばれる場所は植えられている花の種類によって桜園、薔薇園、藤園、紅葉園と呼んで区別される場合が多く、夏宮と春宮の間の中庭には手入れされた花木や果樹に囲まれた中心には王族を祀った霊廟があった。
フリッツは本城へと続く通路を歩きながら、窓の外の階下に藤の中庭と呼ばれる区域の青緑色の葉ばかりの藤棚を見て、5月の中庭での顔見世でのナイフ投げ対決を思い出していた。フローラやラケェルの信じてくれた心地よさを思い出す。
藤色から色が変わる程、もうそんなに経ったのだなと実感する。
本城へと入ると、空気感が変わった。しっとりとした密な空気に、建物の重厚さと、静謐という言葉を思い出す。比較的静かな図書室や蔵書室と同じ区画にある影響もあって、付近の廊下は行き交う従者や侍女たちの姿までもまばらだった。広い廊下のよく手入れされた絨毯を踏みしめながら、フリッツはまっすぐと前を向いて歩く動作に専念した。
魔香も黒い甲虫もエクスピアも、計画して巻き込まれたのではなく、ただ居合わせてしまっただけだ。後ろめたい行動はしていないし、最適な判断が出来ていたはずだ。
どれも全力で対峙してきたと、自分を信じるしかない。
顔をあげて胸を張って歩き始めたフリッツを、カークは嬉しそうに微笑んで見て、小さく頷いた。
ありがとうございました




