34、あなたは心までも
昼食会を終えると約束通り馬車を用意してもらったわたしは機嫌よく師匠と伯爵邸を出ようとした。日が暮れるまでまだ時間はあるし、大市場の近くの聖堂に行ってみようという話をしながら師匠と馬車寄せまで向かっていると、パティが走って追いかけてきた。
「ビア様、」
引き留めたわたしのマントの裾を取って、離さないように握りしめる。はあはあと荒く吐く息が落ち着くのを待っていると、パティは息の合間に言葉を吐き出した。
「お願いがあります。僕と、制約の術式をしてください。」
「あの月の女神さまの、師弟になる約束ですか、」
驚いているわたしを見て、パティは何度も頷いている。つい昨日師匠としたばかりなのにもう弟子を取るなんて無茶だよ、と心の中で呟いて首を振る。
「駄目ですか、」
うん、と即答しかけて用心深く師匠を見上げた。
「師匠の弟子のわたしが師匠になるなんて、無理ですよね?」
わたしにはしなくてはいけないことと、残された時間が少ないという時間の制限がある。無理と言ってほしくて必死に見つめると、師匠は空気を読まずに「そんな事はない、」と答えた。
それ、弟子のわたしが弟子を取るって意味ですよね、と聞き返そうとしたわたしよりも先に、パティが「では、大丈夫なんですか、」と尋ねてきた。
「ごめん、パティ、ちょっと黙ってて。」
大丈夫とか大丈夫じゃないとかいう問題じゃない。
「師匠、こういう場合、平民のわたしが断ってもいいんですか?」
貴族の暗黙の了解があるのならぜひとも教えて欲しいものだ。
「ありませんが、パティ、どうしてビアなんです?」
「おじさんが、」
垂れてきた額の汗を袖で拭うと、パティは屋敷の一角を指さした。
「イリオスおじさんが、僕がビア様と師弟関係になれたなら、エドガー師を紹介してくださってもいいって言って、それで、」
「でもそれは、パティのお父さまに、伯爵さまにお願いしたのではないんですか、」
未成年のパティが親の許可なしに師を決めてしまうのはおかしい気がする。いくら寛容な親でも、平民の治癒師、しかも今日出会ったばかりのわたしを子供の師匠にしたいと言うのか疑問だ。
「『エドガー師の身の回りの世話をしているドニは紹介状の分別を行っているから、例え兄上からの招待状だろうとなかったことにされてしまうのです。だから私が直接お話を取り接ごう』ってイリオスおじさんが、」
「え、ええ?」
1周目の未来で会ったエドガー師の身の回りの世話をする人物なんていなかった。何しろエドガー師は単身で王国へ来ていた。ドニという人物がその時どうしていなかったのか判らなかったけれど、何かがおかしい。
「それは本当ですか、」
わたしと顔を見合わせた師匠が冷静に尋ねている。
「イリオスおじさんは拗らせているけど、嘘はつかないんです。ただめんどくさい人なだけで、」
めんどくさいとか拗らせてるとか、身内なのにさんざんな言われようだ。そんな人が本当のことを言ってる保証なんてない気がするけど、パティは信じている様子だ。
「ビア、ドニという名前に聞き覚えは?」
師匠は一周目での記憶と照らし合わせて欲しいと言っているのだと即座に理解して、首を振り「ありません、」と答えると、「そうですか、」と呟いて顎を触った。
わたしの1周目の未来では、王国でのエドガー師の周りにはイリオスもドニもいなくて、アンシ・シにいた時などシューレさんやコルやわたしといった聖堂の人間ばかりだったように記憶している。王都の迎賓館でも聖堂の人間ばかりだった。赤茶髪も緑色の瞳もいなかった。お世話係なんて存在は、とてもいなかった気がする。
「判りました、そういうことなら、ビア、」
師匠が再び伯爵邸へと向かって踵を返した。
「忘れ物をしました。パティ、私の忘れ物を見つけられなかったから来てくれたのですよね?」
念を押すような師匠の問いかけに一瞬目を見開いた後パティは大きく頷いた。
「見つけられませんでした。一緒に戻ってください、」
「聞きましたか、ビア、戻りますよ?」
マライゾ伯爵は恩人と言いつつも昼食会だけでわたしとの接点を切ろうとした冷徹な貴族だ。正面切って再び伯爵家へ足を踏み入れるには絶対に入らないと対応できない重要な要件を提示しないと無理だ。とても大切な忘れ物だから自分で探しに行きたいという譲れない条件でもないと門前払いを食らう。
黙って二人の後をついて歩いて屋敷に戻って出迎えた執事に師匠が訳を話している間、ふと屋敷の2階の一角の窓辺にイリオス卿がカーテンの影から私たちを見ているのが見えた。
わたしと目が合うと、さっと隠れてしまったイリオス卿に驚いたけれど、もしかすると制約の術式が重要なのではなくてこの屋敷にわたしたちが戻ってくることが彼にとっては重要だったのかなと思えてきた。
屋敷内に再び入ったわたし達はパティに案内されて、再び応接室へと向かっていた。
※ ※ ※
しばらく待たされたけれど伯爵邸に入ることを許されたわたしたちを案内してくれるのはパティで、他の使用人たちは付き添ってはくれなかった。忘れ物、という言い訳に警戒されている気がするのはなぜだろう。
「ビア、部屋に入る前に、まず伝えておきたいことがあります。」
師匠であるバンジャマン卿が応接室を前に神妙な顔をして呼び止めたので、わたしは素直に立ち止まった。不安な表情を一瞬浮かべたパティは小さく頷くと、「待ってます」と言って先に入っていく。
廊下には、執事も侍女もいない。応接室のドアを隔てた向こうには伯爵と、もしかするとイリオスが待っている。
「こちらに。」
廊下の窓際に寄ると、師匠は重厚なカーテンの影にわたしを立たせた。窓とカーテンとを背にして立つと、窓の外の明かるさに師匠の顔がくっきりと見える。眉間に皺が寄っていて、不機嫌そうに、悩ましそうに、わたしを見ている顔が見える。
沈黙が、重い。
わたしの両手を自分の両手で掬い上げるようにして握って、師匠はまっすぐにわたしの瞳の奥の奥を覗き込んできた。
「私は何があってもビアの味方です。死に急がないでください。」
「?」
死に急ぐ、という言い方が理解できなくて、何度か瞬きながら師匠を見返した。聞き間違え、じゃないよね?
「ビアは運命を変えたいのだとよく判ります。だからといって、困難を選んでばかりいる気がします。」
「どういう意味ですか?」
「意味が判らなくても構いません。ただ、この部屋に入ってから起こることに関して私に言えるのは、パティと師弟関係を結ぶことは出来てもやってはいけないということだけです。」
「…詳しく、理由を教えてもらってもいいですか?」
わたしは既にバンジャマン卿と師弟関係にあるのに、パティと師弟関係になってしまったら月の女神さまの制約の術式はどうなってしまうのか想像がつかない。出来るって、そういう意味?
「制約の術式の後、魔法を使ったのを覚えていますね?」
「はい、師匠の名前を織り込んでスタリオス卿を治癒しました。」
わたしが普段行うのとは違う、青白く放電する治癒を思い出して目を細める。
「あの術式をすると、最初の魔法を必ず成就させるにはお互いを信頼し合う時間が必要なのです。師として受け入れられるか、弟子として受け入れられるかを試す時間でもあります。パティが魔法を使えるようになるまで見積もってもあと数年はかかりそうですから、その間、ビアは何をして待つつもりですか? 任務を遂行するためにこの国を離れて遠く離れ離れになっていてもお互いに修行を積むことはできますが、再会できる可能性はありますか? ビアはつきっきりで指導することもできませんね?」
「パティにとってもわたしにとっても必要なのは、未来への時間、という意味ですか。」
師匠はわたしの手をぎゅっと握った。
「ビアが、ビアの言う通りに未分化の半妖であるのなら、未分化である状態を止めて分化した大人の半妖となって生きながらえるのが一番です。でも、どうしても私には、ビアがこの先、分化した半妖として生きていくつもりがあるようには見えないのです。」
「どういう意味ですか?」
そんな言葉を一言も告げなかったはずなのに、師匠はわたしの考えていたことを言い当ててくる。
黙って俯くわたしの耳元に、身を乗り出して師匠は囁きかけた。
「ビアは、シューレという男性を、隠そうとしていますね?」
息が、止まる。
「昨日のビアの1周目の話を聞いてどうしても腑に落ちなかったので何度も考えました。どうしてニコール卿の話ばかりするのか、どうして、あの場に来たのか。」
囁く声は絡みつく蔓草のように、わたしの思考を止めにかかる。
「まるで、注目を自分に集めるために行動をしているのだと思えました。本当に隠したいものがあって、隠したい何かを守るために、わざと捕まりに来たのだと。本当にニコール卿を助けたいのだという気持ちもあるのでしょうが、私たちの目がニコール卿に向くように話を持って行った。異能の冒険者として追われるのではなく、逆に私たちの動きを誘導しようとして近付いてきた。そうですね?」
すぐ近くにあるバンジャマン卿の目を見つめる。何を、この人は、言っているの?
「だからと言ってビアはニコール卿のために男性に分化するつもりはないようです。殿下とのやり取りの中で令嬢のように着飾ることに抵抗を示さなかったのを考慮しても、今の恰好を考えても、男性化するつもりはない。かといって、女性化するつもりもありませんね?」
「…どうして、そう思うのです? こんなにかわいい修道女な格好をしているのに、かわいいと思わないんですか?」
「ビア、私たち人間は、生まれ落ちた時から男性か女性かという性別を持って、育っていく中で将来どういった役割を持って生きていくかを選んでいきます。精霊や半妖は育っていく中で役割を勝ち取っていくのなら、今のビアは、どんな役割も放棄している者の振る舞いをしているとしか考えられないのです。」
「意味、判らないです。師匠。」
なんとなく判っていても、わたしは嘘をつく。お願いだから言い当てないでほしい。お願いだから、気が付かないままでいて欲しい。
「ビアからは、死んでいく者の覚悟しか感じられないのです。私は今まで多くの部下を見てきました。仲間を組織として全力で手助けをしますが、必ず誰もが生きて帰ってきたわけではありません。」
囁く声が耳に響く。
「シューレという竜騎士を守るために私達に捕まりに来ましたね?」
「師匠、」
「ビアが隠しているその男を、わざわざ探し出してどうこうするつもりはありません。竜騎士とは言え他国の平民であるシューレと、ニコール卿とは地位が違います。あなたが望んだとおり、公的には追えないでしょう。」
ふっと小さく溜め息をつくと、バンジャマン卿はわたしの目を見て、意志の光る眼で告げる。
「分化するつもりもなく一人の男を守って死んでいく覚悟をしているビアに、弟子を取る資格などありません。弟子を取るのなら分化してこの先もずっと生きるとこの場で誓いなさい。」
できません、と言いかけたわたしの声は、わたしの意志に反して言葉にならなかった。
どうして何も言えないのか、自分でも判らなかった。
分化するつもりなどなくて、シューレさんとコルを守るためだけに聖堂に潜入して二人を助けるために命を投げ出すつもりで家を出たのに。
いきなりギュッとわたしを抱きしめてきた師匠は「今はそれでいいのです。今は、」とほっとしたように呟くと、「パティには…、イリオス殿にも、わたしがビアの師匠としてお断りを伝えましょう、」と言った。
※ ※ ※
応接室の中に入ると、マライゾ伯爵やイリオスが待ち構えていた。伯爵は窓辺に立って外の景色を見ていたのだけれど、イリオスは不機嫌そうに黒っぽいマントを着て袖の中に手を入れるようにして腕を組んでソファアに座っている。向かいに座っているパティは緊張した面持ちでテーブルの上を見つめていた。
「ああ、来ましたか。忘れ物、でしたな?」
伯爵は冷たい表情でわたしを一瞥すると、近寄ってきた貂たちに目を向けることもなく視線をまた窓の外へと向けた。
「伯爵、お時間を頂いて大変申し訳ありません、」
頭を下げたわたしに、師匠が「いいのです、」と言って頭をあげさせようとする。
「お父さま、ビア様の忘れ物は僕です。お願いがあります。僕に、ビア様と制約の術式をさせてください。魔法を学びたいんです。」
「兄上、」
イリオスが不機嫌そうにパティを睨みつけた。「パティとこの治癒師とが師弟関係となれたなら、この治癒師の望み通りエドガー師への橋渡しを考えてもいいとします。」
「どうしてそのような条件が必要なのだ、イリオス。」
伯爵は用心深くイリオスに尋ねている。
わたしも聞きたい。
どうして、あの場では断ったのにそんな条件を持ち出してまで関わってこようとするのか。
「エドガー師に得体の知れない平民に紹介するなんて私は損をするのにこの者は損をしないなんて道理に合わないからですよ、兄上。」
得体が知れないとか平民とか損とか、感情を刺激するような言葉ばかり使えてしまえるイリオスはある意味才能がある。貴族っぽく遠回り過ぎて意味が判らないような言い回しをしない分単純な性格なのかもしれない。
「得体が知れないと言うのなら、初対面で制約の術式を持ちかけたお前はどうなのだ。ビア様にしてみれば、私たち貴族こそ得体が知れない存在ではないのか?」
伯爵はやっと、席を勧められることなく立ったまま並んでいるわたしと師匠の方を向いて、わたしではなく師匠に向かって、「バンジャマン卿はどうお思いになりますかな、」と尋ねた。
「ビアには荷が重すぎます。お断りさせていただくつもりで参りました。これが、師匠であるわたしの見解です。」
「…そうですか、」
納得して言い返しもしない伯爵は、どことなく安心している雰囲気もする。
「そんな! お父さま! 僕だって魔法が使えるようになりたいです。貂だって、自分の力で見られるようになりたいのに!」
「パティ、お前は、誰かの役に立ちたくて魔法を学びたいと思うわけではないのだな、」
呆れたように溜め息をついた伯爵に対して、イリオスはおかしそうに顔を歪めた。
「こんな調子では当主の座もままなりませんね、兄上。ああ、残念ですね。」
「イリオス!」
「やっぱり、」
クックと笑ったイリオスは、突然わたしを見て指を差した。
「この者は我が伯爵家に取り入ろうとした狡賢い悪党です。自作自演で狂言をし、パティを唆してこの家に入った。エドガー師への伝手を得るために、子供を騙したんですよ、兄上!」
「何を言い出すんだ、イリオス!」
「何も? おかしいとは思いませんでしたか? この者は精霊が見えているのですよ? 『精霊の目』でも『精霊の舞』でもなく、何もしないのに精霊が見えている者が、エドガー師に会わせて欲しいと言ってきた。これを策略と言わずになんというんです?」
「イリオス!」
怒鳴った伯爵の声にパティが身を竦めた。
立ち上がったイリオスはいきなり袂から杖を出すと、イリオスの持論に呆れているわたしに向かってパッと何かを放り投げた。
足元に転がるのは、1周目の未来で一度だけ見たことがある魔石だ。細かく刻まれた女神の言葉と独特の魔力を帯びた石、これは、起動石?
イリオスは続けざまに勢いよく杖を振り回した。
<開け、古の門。轟け、天地の響き。>
わたしの足元に突如広がった魔法陣は光り輝いていて、足元の絨毯が嵐に靡く草原のように渦を巻いてなぎ倒されていく。
これはいったい、なにが起こってるの、転送?
師匠が隣で驚いている表情で、わたしを掴もうと手を伸ばしている。
掴まろうと手を伸ばした手が空中を掠った。わたしの体は実体がなく既に転送中なのだと判る。
起動石を使うなら、イリオスは自分の見知ったどこかに転送先の魔法陣を用意しているはずだ。だけど、いったいどこに…?
「ビア!」
師匠の顔も、声も、消えていく。
眩い光が足元から放たれて、わたしはあまりの眩しさに目を瞑っていた。眩しくて瞼を閉じているのに明るくて白い。
短時間に用意したにしては仕掛けが出来過ぎている。
まさか、侵入者対策の防犯装置としての罠を使ったの…?
驚愕に頭の中まで真っ白になっていく気がして、すべてが光に消えていく。
音も何も消えて、眩しさだけがわたしを包んだ。
ありがとうございました




