29、助けたいのは、
月の女神の神殿の奥の部屋で治癒師に職位変更を無事にし終え部屋から出ると、待っていてくれたのは愛想笑いをする師匠と爽やかな笑顔のオルジュで、神官は雑務があるとかでその場には居なかった。
「お待たせしました。治癒師になりました。」
特別通行許可証を見せると、師匠は「おめでとうございます、」と真顔で頷いていた。
「オルジュ、師匠とは何の話をしてたの?」
「特に何もないよ、ビア。」
「特にありませんよビア。」
二人が同時に被せるように答えて来たので、絶対にわたしには知られたくない話をしていたのだと察する。どんなくだらない話でも、隠されると気になる…!
オルジュに唇だけを動かして、あとで教えてねと頼むと、覚えていたらね、と躱されてしまった。ますます気になる。
「このまま聖堂に行くのが一番手っ取り早いのですが、ビア、少し付き合ってほしい場所があるのです、」
「寄り道ですか?」
「そうとも言います。こちらへ、」
先を行く師匠の後ろを首を傾げながらオルジュとついて歩いて向かった先は、わたしの家の近くの市場とは別の公都の中心部にある大市場だった。
一国の首都でもある精霊の集まる庭は人々の生活の中に精霊の力を借りる目的もあって、とても緑が多い街だ。王国の王都で見たような計画され作り込まれた街並みに整備された公園があるのではなく、どちらかというと煩雑でごちゃごちゃとした街並みの中に植物園に近いような雑多な植物が共存する植物園か里山のように適度に人の手が入った雑木林かといった印象の公園が大小さまざまな規模で点在していた。
母の生家でもあるわたしの家の近くにも大きな公園がいくつもあって、大市場の近くにもいくつか公園があった。大市場周辺の道路は主要路であり大きな通りばかりで、公都にある主要路には基本的に街路樹が植えられているので、大市場という人が多く集まる場所なのに通る風には緑の香が常にあって花の香りや木々に集まる鳥や虫の気配もあった。
大市場には通りを囲んで向かい合うように商店が立ち並び、大通りの真ん中を通る街路樹として植えられている鮮やかな躑躅を背に毎日夕方には撤去されてしまう露店が両側に出店している。この大市場一帯の道路は歩行者優先なので馬車は通らず、左右ふたつの通りに加えてさらに裏通りも加えると、合計4つの通りが大市場という場所の定義となっていた。
初めてこの大市場に来た時、ひとつの村がすっぽり入ってしまいそうな規模の区域に所狭しと店が並んでこの世界に住む人間がすべて集まってきたかのような賑わいに腰が引けてしまったのを覚えている。一緒に買い物に来た父と母は「人に酔う前に帰りましょうか、」と言って何も買わずにいつもの家の近くにある市場に戻っていつもの店でおなじみの商品を買い物をしていた。わたしも当時公都での生活を始めてばかりで村での生活との差に驚いていたのもあって、人の邪気に当たってしまってそれでいいと思った。それ以来ぶりなので、約一年前以来だ。
久しぶりに来てもやっぱり、情報量の多い場所だと実感する。
朝の仕入れ市が終わった時間帯だろうに市場は案外人気が多くて、周辺の街から集まってきた観光客や子供連れの母親たちや老いた人々がゆったりと買い物をしている平和な時が流れている。
「市場に何の用があるんですか?」
わたしの住む地域にある市場はこんなに大規模ではないので店を探して迷うことなどないけれど、ここは一度逸れると4つの通りを念頭に置いて探さなくてはいけなくなる。師匠を見失わないようにしなくてはいけない。もっとも、この師匠の人目を惹く姿かたちからすると、吟遊詩人のバンジャマン卿とバレて女性に囲まれて身動きが取れなくなる師匠をわたしが見失う、という可能性の方がありそうな予感がする。
「占い師の店に行きます。」
「なんの用があるんです? さっき治癒師になったのに。」
占い師に見てもらわなくても、次の職位である救いの手になるには地の竜王の神殿で祝福を受ければいいだけだと知っている。召喚術だってアウルム先生に教えてもらっていたので、できるし、呼び出せる。占い師の店を探すのは無駄な労力に思えてきた。
「まあいいから、行ってみませんか、」
占い師の店に行くのは、気が乗らない。かといって、言い当てられては困ることばかりなのに行きたくない理由も言えないので、師匠の用が済むまでは店の外で待っていようと決める。
師匠は自分に向かって「無駄に時間を取られるのは面倒なので、『錯視』でもかけておきましょうか、」と言って自身に魔法をかけた。「迷子になられても困るので、ビアには『真実の目』をかけておきます、」と言いながら魔法をかけてくる。
『錯視』の魔法はそこにいてもいないように錯覚させる、視覚を惑わす効果を持つ魔法だ。『真実の目』は『幻覚』や『錯視』の魔法の効果を削ぐ働きを持つ視覚強化の魔法で、幻覚を無効化したりヒト型に化けた精霊の本当の姿を見破る効果のある魔法だ。退魔師や祓魔師といった職位の風属性の魔法使いが使う。
あれ?
『真実の目』が使えるのなら、もしかして、お父さんが昨日王の庭に来た時、まさか『真実の目』を発動させてた…?
公都に暮らすよりも前から父が幾重にも自分に魔法をかけているのは知っている。真実の目で父を見てもヒト型だったんだろうとは想像がつくけれど、それはつまり、魔法をかけた目で見てもヒト型を維持できるほどの実力を持った上位の精霊であると白状してしまったようなものだ。
真実の姿が知られても危険だけれど、魔法が効かないくらいの実力者だとバレても危険だ。
サーっと血の気が引く感覚がして視界が暗くなったわたしの頬をオルジュが撫でて、「大丈夫?」と覗き込んだ。
大丈夫じゃない。
わたしと血の契約をしているオルジュがわたしの魔力を拠り所にヒト型を維持し続けているのと訳が違う。
おかしそうにわたしを見ている師匠は、「これでお互い見失いませんよ、」と言って笑いながら先に行ってしまった。
オルジュには、「姿を隠して欲しい、」と頼んだ。一瞬目を見開いて、オルジュは小さく頷くと「傍にいる、」と囁いて姿を隠した。見えない者には気配を感じる程度に姿を消したオルジュを知覚できるのは契約者であるわたしくらいとなっている。
師匠から隠したいわけじゃないけれど、わたしの切り札をわたしの弱点とされてしまうのは避けておきたい。
指導員という上司とはいえ手の内を見せてくれない師匠の言動に振り回されている気がしなくもない。かといって下手に尋ねるとこっちに分が悪い質問をされてしまいそうで、我慢して慌てて追いかける。信頼関係を築けるようになるまで手探りで間を詰めていくしかない。
錯視の影響で誰も避けていかないのもあって、師匠は人込みにすぐに紛れてしまう。
人が多く集まる場所は警戒する本能で無意識に広範囲に探査の魔法をかけて人間か精霊かをざっくりとより分けるだけではなく、魔力を持つ者と持たない者とを識別して、わたしに向けられる悪意で敵か味方かを判断する。年々魔力を持たない者、持っていても使えない者が増えていると噂話程度には聞いていたけれど、国一番の大市場に集まる者の半分ほどが魔力を持たない者だと認識できてしまうと、その数字は誇張された数ではなかったのだと実感する。
空を見上げれば妖精や精霊が流れていく姿も見える久しぶりの公国なのに、王国で感じたような既視感を感じる。精霊の姿があってもいったいどれほどの人間が見えているのか確かめたくもなってくる。
オルジュをそっと見ると、目を細め、安心して、と唇を動かした。彼の目には、実際はそうでもないのに恐ろしく動揺している姿にわたしが見えているのだと気が付いて、誤解されてしまう理由を考えてみる。
顔色?
言動?
まさか、匂いの変化?
意識したことなどなかったけれど、風の魔法使いなら言外の体現する感情を読み取っていそうだなと思えてきた。もしかしたら1周目でもとっくにわたしの感情の変化など体臭でバレていたのかもしれない。
子供が息を切らして人込みの中足元をすり抜けるようにして走って飛び出してきた。マントに纏わりつくような感覚がして立ち止まると、絡みつくようにしてわたしのマントを男の子が捕まえていて盾にして陰に隠れた。見知らぬ子供を振り払うなんて非道な扱いもできずかといって歩いて師匠に追いつかなくてはならないのもあってどうしたものかとオロオロしていると、追いかけてきた様子のどこかのいかつい風貌をした前掛け姿の店主が棍棒を持って怒った表情でわたしと陰に隠れた男の子を睨みつけた。
水属性の治癒師であるわたしは、水の精霊王である主様の影響と水の精霊王の神殿の神官による祝福の影響とを受けて、『流れ』を知覚できる能力を持っている。
魔力があろうとなかろうと人間には生まれつき持った性質があり、その性質を澄んだ清流とするか淀み腐った水とするかは本人の在り方次第となる。
診察の魔法を使っていなくても、度の越えた者は容易く認識できる。目の前の男からは全身から良くないものが発散されていて、淀んだ水の濁った色が見えた。
ああ、この人は心が悪に染まっている。
「おい、その子はお前さんの連れか。困るんだよ、商売もんを傷付けられちゃあ、」
何のこと? と戸惑うわたしの表情を見て、馬鹿にした様子で店主が棒を手に馴染ませた。
「悪い事は言わねえ、代金を払ってくれるのなら警備隊には黙っておいてやる。だけどなあ、手癖の悪いガキにはお仕置きが必要だなあ? お嬢ちゃん、どきな、」
背が低いから未成年に見られ、しかも少女だと思われて舐められてしまったみたいだ。
わたしのマントに必死になって身を寄せている男の子は赤茶髪に緑の瞳の見るからに公国人で、身なりはしっかりしているし顔立ちも悪くないし小奇麗な印象がある。身寄りのない子供が生活のために盗みを働いた、というよりも、過保護に育てられた世間知らずの子供が羽目を外して騒いでうっかり商品を傷付けてしまった、という物語の方が似合いそうな雰囲気がする。修道女のような地味な格好をしていると母に言われてしまったわたしは、さしずめ彼を連れてきた侍女にでも雰囲気が似ているため間違えられてマントにしがみつかれている、という通りすがりの一般人の役が似合いそうだ。
オルジュがわたしを見て、ニヤニヤと微笑んでいる。いつでも攻撃するからね、とばかりに息を整えているのが判る。
相手が手を出してくるのを待ってからの反撃が一番言い訳が立つ。
でも、『庭園管理員』としては、逆恨みされないように何をやられても反撃しないのが一番なの?
だけど、『庭園管理員』だからと言ってやられっぱなしになれと言うの? 自分の身を守ってもいけないの?
肝心の、『庭園管理員』の在り方を教えてくれるはずの指導員である師匠はいないし、自分で考えるしかない。
どうしようか、と自問自答して悩んでいると、「ぼんやりして、お嬢ちゃん、白痴か?」と侮蔑の言葉を投げつけられた。
カッと血が頭に上るけれど一瞬のことで、基本的に水属性の性質のわたしは挑発に乗ったりはしない。
こういう相手なら思う存分悪い魔性の子供として力を試してみてもお互いに不幸にならない気がしてきて、どす黒い邪な欲望が静かに沸き起こってくる。
勝つためには弱点を探るのが必須だ。声もなく『診察』を行ってみて、目の前の男の体の状態を診る。不摂生でもしているのか、体の妙な癖とともに、あちこちに異変を起こしているのを見つける。薬で散らせる炎症もあれば、治癒が難しそうな腫瘍もある。痛みがあるのを飲酒か薬で麻痺させて誤魔化しているのを繰り返しているうちにおかしな癖が出来てしまっている? うーん、本格的に治療したくなってきた。だけど困ったな。そうするには、どうやってそういう流れに持って行けばいいの?
この子を守ってあげるのが一番で、次いで自分で、その次はこの男かあ…。3人とも助かる方法を考えるのが最良なのかな。
治癒師は治す魔法をかけるのが前提だけれど、絶対治さなくてはいけないと決まりがある訳でもない。迷うなあ…。
さて、どうしますか。
幸いなことに、師匠は人込みに逸れてしまっているわたしに気が付いていない様子でどんどん先へと歩いて行っている。
立ち止まるわたしと店主のやり取りを興味本位に立ち止まって見物する者たちに囲まれて、影が足元に広がっていくのが判る。父も何かをするつもりなようけど、それはさすがに避けたい。
「この子が何をやったのか、まず教えてくれませんか。わたしはその場にいませんでしたから。」
「けっ、透かした顔しやがって。そいつがいきなり飛び込んできてうちの店の前に並べてあった棚をひっくり返しやがったんだ。」
「棚って、なんの棚です?」
首を傾げたわたしに、男の子が足の影から顔を出して叫んだ。
「…あいつ、水を売ってたんだ! ただの噴水の水を神殿の聖水って言って銀貨一枚で売ってたんだ!」
神殿の水を汲んで勝手に販売するのは許されていない。それだけで違法だ。神殿が販売するのも認められていない。もし仮に水を販売していたとしても、神殿の水として紹介してはいけないのだ。
いくら市場だからって、無理を通そうとしたのは店主の方なようだ。
あ、もしかしてこの恰好から修道女と勘違いしたの? だから市場にはこんなにいろんな大人がいるのにもかかわらず、わたしの元へ逃げてきたんだね。
「何を言ってやがるんだ、このクソガキ、黙れ!」
ドスの利いた威嚇する声を無視して、この場を仕切るのはわたしだと主張する意味も兼ねて、男の子に尋ねてみる。
「ねえ、どうして偽物って判るの? 理由を教えて。」
「だって僕見たんだ、あいつら、僕んちの近くの公園で朝から噴水の水を汲んでたんだ、」
「何を言ってるんだ、このクソガキ! あの公園にあの時間、人がいるわけないだろう、」
男の子を引き摺りだそうとする店主の手首を魔法の力で強化した手で勢いよく払いのけると、勢いが強すぎたのか店主はその場でくるりと回った。
『硬化』の呪文を使っただけだけど、オルジュが力を添えてくれたみたいだ。
「おい、今、何をした?」
詠唱せずに魔法を使いましたが?
言うのも馬鹿馬鹿しくてとぼけて目を逸らした。
動くとわたしの背後にいる男の子が巻き込まれてしまいそうだ。「ちょっと待っててね」とマントから手を離させ、わたしの肩掛け鞄を預ける。
「これを取られないように見張ってって。お願いね、」
役を与えることで男の子に自分も役に立っているのだと自覚させて、距離を取らせる。
持ち逃げするような子だとは思えない。むしろ、わたしの荷物を預かることでより当事者意識が強くなりそうな子だと判断した。
「どっちにしても、一度警備隊を呼んだ方がいいんじゃないですか。あなたの言う通りならこの子供が悪い。この子が言う通りならあなたが悪い。違いますか?」
お金儲けのためだからって、神殿の水と偽っていい理屈なんてない。
「まさか、あなたは警備隊が来ては困る理由があるから脅迫しているんですか?」
わざと刺激するように挑発してはっきりと大きな声で問いかけると、店主がいきなりわたしに向かって棍棒を振り上げた。
「うるせえ! 指図するな! 黙って聞いてりゃいい気になりやがって、お前らは黙って泥棒を差し出せばいいんだよ、」
ブンッ!
空を切るような重い音に男の子が小さく悲鳴を上げたのが聞こえてきて、怒りを抑えてじっと男を睨みつけた。
馬鹿にしてるんだ。
わたしが背が低い子供みたいな少女に見えるから、力で威圧できると思ってるんだ。
わたしの中にはラボア様がいた。
ラボア様はわたしを信じると言ってくれた。
『庭園管理員』として一番の装備は、ラボア様からの信頼だと思えてきた。
三人とも助ける方法なんて、無理だ。優先すべきは、自分自身と、あの子だ。
甘い考えを捨てる。
「なんの真似です?」
「うるさい!」
ブンっと棒をわたしに向かって振り回してきた瞬間を狙って、すっと息を吸い込んで固く拳を握って空気を押し出す真似をした。
詠唱しなくても魔方陣を描かなくても魔法は発揮できて、思った通り、店主の棍棒を握っていた腕が明後日の方向を向いて曲がった。
ありがとうございました




