23、風使いと風の精霊
小さく眉を顰めているスタリオス卿が、放電を食い入るように見つめていた。
シュンッ! と風が止まる気配がしたのと同時に、スタリオス卿の手から発生していた放電が空気中に走って逃げた。
手の傷は綺麗に塞がって回復して治癒されていて、制服の袖口についていた血までもどこかへ消えてしまっている。
指の先々まで握って開いてを繰り返しているスタリオス卿に、バンジャマン卿が問いかける。
「スタリオス卿、いかがですか、」
「ああ、痛みも、違和感もない、」
掌を握ったり開いたりしているスタリオス卿が、驚いた顔つきでわたしとバンジャマン卿とを見比べた。
「私の力を使っているのですから当然です。ビアの治癒力に私の風属性の魔法の性質が加わって、痛みも痒みもなくなっているはずですから。」
「どういうことですか、バ…、いえ、殿下。師弟関係となると、わたしはあの方のお力を借りられるようになるのでしょうか、」
バンジャマン卿に直接尋ねるのは憚れて、縋るようにラボア様に教えを乞いてみる。
「お前の行った魔法には師匠であるバンジャマン卿の能力が使われている。正式に師弟関係となる日まで師匠と弟子とがお互いに研鑽し合う関係であるのを目指す制約の術式は、たいてい時間をかけて行う。ビアとバンジャマン卿との間に信頼関係があればあるほど成功率は上がる。今回の治癒が成功したのは、お前の実力とバンジャマン卿がどれだけお前に心を許したかによる。術が成功したのだからお前は弟子として認められたのだ。よかったな。」
へえ、と感心しそうになって、わたしは慌てて口を閉じる。
どう見ても師匠となったバンジャマン卿はわたしに心を許してくれているとは思えない無表情に近い澄ました顔をしていて、とてもそんな人情味がある性格なのだとは信じがたかった。
※ ※ ※
ラボア様が昼食を一緒に取ろうと言い出したのもあって、家で母が待ってるんですという言い訳も「使いを向かわせるから安心しろ、」とスタリオス卿に言われてなかったことにされてしまった。
わたしの恰好を改めてしげしげと見たラボア様はバンジャマン卿に何かを囁いて小さく頷いた。
「では待っているからな、」という謎の言葉に戸惑うわたしを連れて部屋を出たバンジャマン卿に連れて行かれたのは王城の中の一室だった。窓のない部屋で、4つの扉と8つの天井までの大きな鏡が壁にはあって、天井からの光を白い壁と床とが反射していて影がない。
「ここは、いったい…?」
休憩室でもなく更衣室でもないその部屋には女官が一人立っていて、バンジャマン卿とわたしを見るとにっこりと微笑んで、わたしの手を両手で取った。
「ラボア様のお好み通りに、」
「心得てございます。」
小さく会釈している女官に「任せた」と言うなり部屋を出て行ってしまったバンジャマン卿と入れ違うように、大勢の女官が奥の扉から出てきた。それぞれが衣装や姿見、化粧道具や花を抱えている。
「私はリリーです。あなた、お名前は?」
わたしの手を取ったままの女官がわたしに話しかけている間にも、近寄ってきた別の女官たちがわたしの服を脱がせ髪を手に取り肌を濡れた布巾で拭って身支度を整えようとしている。
「ビアです。いったい、何をするつもりなんです?」
「ここは整える部屋です。あなたがラボア様のためにこころを整えて頂けるように整えるお手伝いをさせていただきます。どうか、ゆったりとしたお気持ちで私たちに身を任せて下さいな。決して悪いようにはしませんから、」
顔はリリーに向けさせられたままで「目を閉じて」という声に囁かれて瞳を閉じて「足を」という声でズボンを脱いで何かを穿かされて何かを袖が通していく。背中から胸を縛られるような痛みを感じて顔が強張る。
「ビア、目を閉じて少しだけ数を数えていましょうか、」
揺らされ、立っているのが辛いのを我慢しているわたしの気を紛らわせようとしてくれるリリーの優しい声の導くまま頭の中で数えていると、ふわふわとした感覚に顔がくすぐったくなり、何かが口に塗られていくのを感じた。
柔らかな何かが髪にすいすいと差し込まれていく感覚がする。
公国の未成年の子供は性格にも寄るけれど、ほとんどの子が肩に乗るか隠れるかぐらいの長さの髪形をしている。成人して職業につくと大抵の男性は髪を短く切るか後ろでひとつに括るかの2択になる。女性は髪が長いのが主流で、肩より短い人の方が少ない。何年か前から長く伸ばした髪をただ括るのではなくて左右で三つ編みにし髪を頭に沿って後頭部に巻くのが流行っている。貴族はその三つ編みにリボンや宝石や花を捩じり込ませる凝りようだ。平民の若い女性の間では三つ編みに細いリボンをあらかじめ結わえ編むのが流行っていて、細いリボンを恋人に贈り合うのも流行っている。ベスは日によってリボンの色を変えていた。
わたしの髪は肩を覆うかどうか位の長さで、いつもは肩に流しているだけで、後ろでひとつに括るのは細かな作業をするときぐらいだ。伸ばさない理由は単純に手入れが面倒だからで、母は流行の三つ編みを後頭部に巻いていて、その手入れを父にやってもらっている。仕事をしながら髪をいじってもらう母は傍から見ているとどう見ても増えている父の手や腕の数が気にならないみたいで、母の髪形を作り上げるまでに父は何本腕を増やすのかを見ているのが面白かった。
子供の頃はおとなしく父に髪の手入れをされていた。母に手鏡を渡されて自分の顔を見て、百面相しながらわたしの髪を整えてくれる父の様子を盗み見て、嫌になるほどそっくりだなと思っていた。いつの頃からか自分がやってもらっているのよりも父と母のやりとりを見ている方が好きになり、父に触らせないように自分の髪の手入れはさっさと済ませてしまう習慣が芽生え、続けているうちにこの長さに慣れてしまっていた。
「はい、いいですよ、お疲れさまでした。」
目を開けるとリリーがにっこりと微笑んでいる。
「とてもよくお似合いです。そのままゆっくりとその場で回転してみてください。鏡が部屋のあちこちにありますでしょう? ご覧くださいな、」
わたしが回転しようと一歩踏み出すごとに、荷物を片付けて女官たちが部屋から消えていく。
着替えを入れた籠を持つ女官が「お洗濯いたしますので少々お待ちを、」と言いながら部屋から去ってしまった時、やっと自分が何をされたのか理解できた。
部屋の中にある8つの鏡に映っているのは、女官のリリーと、小柄な生き人形、いえ、貴族の御令嬢が持っていそうな高価な衣装を身に纏った人形のような恰好をしたわたしが立っていた。
母が作っていそうな複雑な模様のレースが至る所に飾られた淡い桃色の膝下丈のふんわりとしたドレスを着て、白いリボンが細かくついた絹の靴下に濃い赤色の靴を穿かせてもらっている。癖があるはずの茶金髪の髪は丁寧に細かく編みこまれて至る所に黄色や白色の生花が飾られ、青い瞳を強調するようにおでこを出して顔立ちをはっきりとさせて、薄化粧をして甘やかな桃色の口紅までつけてもらっていた。
中性的な顔立ちに化粧をするとこんな感じになるのかと感心はするけれど生き物の精気が消されていて、どう見てもこれは生きたお人形だよね、と自分で自分に突っ込みを入れたくなる。女の子らしさを強調する作意が人形に加えられる性差の強調にも思えてきてとても恥ずかしい。
目の前にいるリリーはとても満足そうに微笑んでいる。
「えっと、この格好は…?」
「ラボア様は大変可愛らしいものがお好きなのです。ご自身は前衛的な格好をされていますが、本当に愛らしいものがお好きなのです。」
あの細かい編み込みの髪形も威圧するように見る大きな瞳も、前衛的という一言で昇華されると不敬罪にはならないのだなと感心してしまう。
わたしを抱きしめて頬擦りでも始めそうな勢いでうっとりと見つめて、リリーは後退りしたわたしに気が付くと、ふふっと手を口元を隠して笑った。
「ビア様は歴代のラボア様のお客様の中でダントツに可愛らしいご容姿をお持ちです。さぞかしご満足なさるでしょう、」
歴代のお客様って、もしかして冒険者はすべてがこんな目に合っているのかな。女性だけでなく男性も青年も少年もいただろうし、女装を強要するなんて王族と言えどそんなはずはないよな。じゃあいったいどんな人たちがこんな目にあったんだろ。女性の冒険者自体が少ないって意味なのかな。
首を傾げたわたしを見てまたふふっと笑ったリリーに背中を押されるようにして部屋の外へと出されると、バンジャマン卿が部屋の外で騎士たちと談笑していた。
待っていてくれたのんだ、とほっとしたのも束の間で、自分の恰好に気が付いて穴があったら入りたくなるほどの羞恥心を覚えた。わたし、見かけは幼くても実年齢は26歳だ。この短くて幼いドレスも甘い色合いも、この格好はどう見たって幼すぎる気がする。
「ビア、よく似合ってます。ラボア様もお気に召されるでしょう。」
悔しくて唇を噛みたくなる。絶対揶揄ってる!
バンジャマン卿と話をしていた背の高い騎士たちはじっくりとわたしの様子を観察してうんうんと頷いてニヤニヤと「可愛い可愛い」と繰り返した。あ、その表情! その可愛いは、絶対馬鹿にしてるでしょ。
「行きましょう、殿下がお待ちなんですよね?」
視線を避けるようにして廊下を歩きだしたわたしに、バンジャマン卿が「こっちではありません、こっちです、ビア、」と追いかけてくるなり手を取って逆方向へと誘導して歩き始めた。
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。
俯いて早足に歩くわたしに簡単に追いついて、わたしの頬をつんと指で触ったバンジャマン卿は「真っ赤ですね」と笑った。
ええ、羞恥心で真っ赤でしょうとも、と心の中で答えて不満に口を尖らせる。
せめてもの救いは、この恥ずかしい格好を父や母、オルジュが知らないと言うことくらいかもしれない。
※ ※ ※
開けた大きな部屋は食堂なようで、ラボア様以外にも何人かの軍服を着た中年男性や青年が席についていた。わたしの恰好を見てラボア様は目を大きく見開いた後目を細めて小さく口元を綻ばせて微笑んでいて、あれがあの人の喜びの表情なのかなとちょっとだけ驚いた。新人のはずのわたしは何故かラボア様の近くの席に案内されて、隣にはバンジャマン卿が座った。わたしの向かいにはスタリオス卿が見えた。スタリオス卿はわたしのいる方向を見ようともしてこなかった。こちらも興味がないので、気にしないでおく。
ラボア様を囲んでの昼食会は国境警備隊の上層部と公国の騎士団の団長級が揃っていたようで、貴族年鑑で聞いた名前の人物が何度か登場していた。
特に話す話題もないし話をふられる可能性もないのもあって、関係ない話は聞き流すと決めて黙々と目の前に出される高級な食材を使った上質な宮廷料理を食べ続けた。
庶民として生きてきたわたしは、父が山奥の村ばかりに移住していたのもあって、果物が一番の甘いものと言えるような素朴で簡素な料理ばかりを食べて生きてきた。
決して母が料理が下手なわけじゃないけど手に入る食材は村の生活では限られていたし乏しかったし、首都から食材を取り寄せる贅沢ができるほど高額な収入の羽振りのいい家に育ったわけでもない。
首都に移って来てからも市場が近くにあるからと言っても、忙しい母や田舎育ちで料理自体を知らないわたしの調理能力が格段に上達するでもないのもあって素材を素材のまま楽しむ食生活は続いていたし、精霊である父が一癖も二癖もある性格をしているのもあって面倒を起こされるのも面倒なので名の知れたレストランで奮発しようとも街の食堂で外食をしようともいう発想すらなかった。
何を食べても何を見てもおいしいし珍しい調理法の王城の食事に目を輝かせているのがバレたのか、バンジャマン卿が哀れがってわたしのために侍女に何度かお替りを運ばせてくれていた。わたしがメインである肉料理や魚料理よりも添えられている食用花や果物を好んでいるのもバレたようで、お替りはそういった添え物ばかりが増やされていった。
軍人たちと険しい顔で話をするラボア様は時折わたしを見て和んだ表情になり、また視線を移して難解な会話をしながら食事をしていた。スタリオス卿もバンジャマン卿も高位の官僚なはずなのにほとんど私見を告げることなく同じ場で食事をしているだけだった。特にスタリオス卿は、ラボア様のお部屋ではあれだけ自由に振る舞っていたのに、借りものの猫みたいにおとなしい。
気難しい印象のラボア様の方が社交性があるなんて妙な気がする、変なの、と思いながらデザートの赤い食用花が添えられた乳白色のブラマンジェを食べていると、ラボア様はデザートに手をつけていないのに気が付いた。甘いの、お嫌いなのかな、と思いながらパクパクとブラマンジェを食べるわたしを見て、ラボア様は相変わらず口元だけで微笑んでいた。
昼食会を終えスタリオス卿を引き連れたラボア様が軍人たちと部屋を出るのを待ってわたしも立ち上がろうとすると、軍人たちが数名、部屋の中へと引き返して近寄ってきた。国境警備隊員には見た気がする顔が何人かいたのに、向こうはわたしをわたしと気が付いていない様子だった。わたしを取り囲んだ軍人たちの中で一番年配らしき中年の男性が、瞳を覗き込むようにして見つめてきた。
「可愛らしいお嬢さん、君のおかげでラボア様はことのほかご機嫌であった。またこのような場を設けた際には出席されたいものだ。」
お嬢さん、か。恰好で判断すると妥当な評価だ。でも、中身はお嬢さんじゃないんだよ。
「私たちは国境警備隊員だ。ラボア様の下で働いている。何かあったら頼ってくれるといい、」
『庭園管理員』として国境に行く時会うのかな、この格好じゃなくてもそう言ってくれるのかな。そう思わないんだけどな。
黙っていると、彼らは握手まで求めてきた。どうするのが正解なんだろ。戸惑っていると、バンジャマン卿がそっとわたしを庇ってくれて、握手しようとする手をさりげなく払いのけてくれた。
「この者の能力は吸収です。迂闊にお手に触れてはなりません、」
「そうか、それは済まなかった。お嬢さん、ごきげんよう、」
軍人たちは話をしながら部屋から出て行ってしまった。
吸収?
もう身辺調査されてしまったのかな。父の能力を思い出して思わず不快感が顔に出ていたのか、バンジャマン卿がわたしの眉間を指でほぐすように押しながら教えてくれる。
「ああ云っておけばビアに触ってくる者はいないでしょう。」
でまかせね。ちょっとほっとして、そう言えば、と思い出す。わたしの能力検査は終わったのだろうか。終わらないと、帰れなかったりするのかな。
「見れば見るほど可愛らしいですね。確かにお嬢さんだ。せっかくなので、エスコートしてもいいですか?」
バンジャマン卿がわたしに向かって手を差し伸べてきた。エスコート? なんですか、それは。
「どうしたらいいんですか?」
庶民で平民なわたしにはエスコートと言われても判らない。恰好ひとつでそういう態度を取れるオ貴族サマの男性という生き物についても、謎が深まる。
わたしの手を取るなり、バンジャマン卿は曲げた自分の腕に挟む込んで引っ掛けるようにして乗せた。
「手を、こうやって私の腕にかけて傍に歩くことをエスコートというのです。」
「本当ですか?」
バンジャマン卿のする通りに腕に手を絡ませると、やけに密着して歩く体勢になる。いくら踵の高い靴を履いていたって、もともと背が低いわたしがすると背が高いバンジャマン卿の腕にぶら下がっているみたいで滑稽だ。
「これだと歩けないので、エスコートは遠慮させてもらってもいいですか、」
オ貴族サマの顔を立てて丁寧に断ってみると、「仕方ありませんね」と言いながら懲りずにわたしの手を握ってきた。
「こうしてはいけませんか?」
指を絡めるようにして手をしっかりつながれてしまうと、手の大きさの違いから指ががっちりつかまれているようで完全に逃げられない気がしてくる。
「さっきよりはましなので、こっちの方がいいです、」
「では、こうしましょう。」
エスコートって面倒、と思ったけれど黙って従うことにする。一応上司だし、一応、師弟関係でもある。逆らわないでいいなら流すのが一番だ。
ラボア様もスタリオス卿もとっくに先に行ってしまっているのに、バンジャマン卿は急ぐでもなくのんびりとわたしに合わせて歩いてくれている。
「せっかくですから、話でもしましょうか。いい機会ですから、」
特に話題なんてないけど、と思ったけれど、本音は秘密にしておく。
でも、無難な話題が、ない。
「そうですね、わたしの検査の結果は、あの花で判ったんですか?」
「ええ、十分すぎるほどに。」
どうやってあの機械で測定するんだろう。
「あれ、花ですよね?」
「ええ、花の形をしているだけですね。」
説明はないのかなと黙って待っていても、その先がない。
あ、会話が終わった。
バンジャマン卿を見上げると、わたしの顔を見てニコッと笑った。何を考えているのかよく判らない。本当にこんな人を師匠として弟子になっても大丈夫なのか心配になってくる。手を外そうとしてもしっかりと握られているし、これではまるで脱走しないように捕まえられているみたいだ。
小さく溜め息をついて、黙って周囲の様子を窺いながら廊下を歩く。通り縋った侍女が、顔を赤らめて小さく会釈して去っていった。バンジャマン卿はそう言えば人目を引く容姿の人物だったと思い出す。吟遊詩人という仮の姿のファンだっているのかもしれない。
午後の昼下がりの穏やかな風の中に、オルジュの気配を感じて視線を向けると、中庭の大きな木の枝に腰かけてわたしを見ているオルジュが見えた。遠くから手を振るオルジュに、来ないの、と声にならないほどの声で問いかけると、行けないんだ、と風に乗って微かに声が聞こえてくる。
耳にあるイヤリングを空いた手で触ってみる。オルジュを見ても、オルジュには動きはなかった。
血の契約をしている以上オルジュは単なる風の精霊じゃないはずなのに、契約主であるわたしの元まで来れないなんて。
王の庭は想像以上に結界が張られているのかもしれない。
「どうかしましたか?」
視線を庭に向けたままのわたしを気遣うようにしてバンジャマン卿が尋ねてきた。
「いえ、別に、」
オルジュの姿は見えないだろうと判っていても、わたしは取り繕うように話題を変えて、バンジャマン卿を見上げた。
ありがとうございました




