22、希望という名の魔法をかける
触手に撫でられたのは一瞬のことで、これってもしかして魔性植物の一種なのかなと父を思い出しているうちに触手は百合の花の中へと戻った。顔中に百合の花粉を付けられて濃い花の香りに思わず眉間に皺が寄ってしまう。
「目を閉じて、いいと言うまで息を深く吸って下さい、」というバンジャマン卿の声が聞こえた。
瞳を閉じて言われるままに呼吸を繰り返していると、空気の中に星屑にも似た茶色い突起のある花粉が混じっている様子が想像できてしまって、吸い込む度に鼻の奥の奥まで花の香りが満たされていく。
花に『わたし』を乗っ取られるみたいで、抵抗したくなってくる。
涙を吸い取られているのがくすぐったい。
頭の中で光に向かって深呼吸する自分を思い描いて、体の隅々に広がっていこうとする花粉をひとつひとつ消していく映像を思い浮かべて「いい」と言う合図が来るのを待った。
それにしても、ゾワゾワとした花粉が顔の表面を撫でるようにして動いているのは不快で堪らない。肌の上を柔らかな綿玉が転がっているというよりは、胞子がたっぷりついたシダの葉の裏で顔を雑巾がけされているような気持ちの悪さだ。
瞼を閉じているので、想像がやけに具体的な現実に感じられてくる。
背筋に寒気が這い上がる。
ああ、もう、嫌だ!
パン!
いきなり何かが弾ける音がして、反射的に目を開けてしまった。
目の前には驚いた顔をしているバンジャマン卿と目を細めたラボア様、ムッとしている表情なスタリオス卿がいた。
誰も黙っているので、わたしは居心地が悪くて俯いてしまった。目を開いてはいけなかったのかもしれない。
もしかして、あの音、わたしが原因なのかも。
髪をそっと撫でられて顔をあげると、バンジャマン卿が花粉を摘まんでいた。
「まあいいでしょう。目を開けて頂いていても構いません。」
隠すように片付けるスタリオス卿の手元には、ひしゃげて潰れた白い箱と蓋、しおれてしまった黄色い百合の花から茶色い雄蕊のような6本の触手と橙色の雌蕊がだらりと垂れ下がっているのが見えた。計測器というより生きていたものが力を失ったようにも見える。
バンジャマン卿は、わたしではなくしおれていく計測器の心配をしているようにしか見えないスタリオス卿に何かを囁いて、その様子をわたしが見ているのに気が付くと、遮るようにしてスタリオス卿を背で隠した。ラボア様は黙って俯いていて表情が読めない。
弾けたように聞こえたあれは何の音だったんだろう。計測器はしおれているけれど破れたように見えないし、弾けたようにも見えなかった。
「計測器は正確に把握するためにある。ビア、お前、自分の魔力量を知りたいか?」
顔を上げ意地悪く笑うラボア様がわたしを見つめていた。
スタリオス卿の沈黙もバンジャマン卿の壁のように遮る無心な所作も、反応がなさ過ぎて怖い。知りたいけど、知ってもいいことがなさそうに思えるのはこの雰囲気からだ。
迷うわたしが答えかけた時、バンジャマン卿が手を小さく上げて話を遮った。
「殿下、その前に、私とこの者との間に制約の術式を行いたいと思います。」
「ああ、判った。それもいいだろう。立ち合ってやる。」
制約の術式? なんだか嫌な予感がする。母の胸の赤い心臓を思い出していると、バンジャマン卿がわたしの手を取った。近くで見ると、吟遊詩人というだけあってどこかカリスマ性があって、圧倒されるような魅惑的で何とも言えない蠱惑的なオーラを放っている。
スタリオス卿は不機嫌そうに唇を噛んだまま、わたしとバンジャマン卿の重ねた手をじっと見ている。
「女神の言葉は話せますね? これから師弟としての関係を成り立たせるための制約の術式を行います。この国では貴族の子弟が教えを乞う人物に弟子入りするときに必ず行う儀式ですが、庶民であるあなたは初めてですね? 私が先に誓いますから、自分の名を名乗って魔法を学んだらどのように使うつもりなのかを宣誓してください。」
この人は綺麗な顔をしているし丁寧な言い方なのになんか物言いが引っ掛かる気がするんだよねと思っても、頷いてみせる。
<願わくば、万物の理となりしこの世のすべての制約の、月の女神エリーナ様のお力添えのある奇跡を、我が父の名において願わん、>
いきなり始まった魔法の呪文には、珍しく女神の名前が織り込まれていた。この国において女神の力を借りられる実現可能な術式は限られていて多くは神官が行うもので、極まれに神官以外の者が行えるのは高位の職位の魔法使いの使う古式と呼ばれる古い術式だ。
わたし自身は図書館の資料の中での知識しか持たないけれどバンジャマン卿は現役の高位の退魔師なので使えるのだろうな、と驚いていると、背が高いバンジャマン卿が高く引っ張り上げた握手越しにわたしを見つめた。ちょっと肩がだるい。腕の付け根につられるように体まで引っ張り上げられている気がする。
<私、バンジャマン・マルルカ・ランベールは、嘘偽りのない理へと続く道の先を行く師としてあなたを弟子に迎え、あなたに生きる術を与えると誓いましょう、>
はいどうぞ、とばかりにわたしを見たバンジャマン卿が頷くので、教えてもらった通りに答えるのねと理解して、わたしは手を取られたまままっすぐにバンジャマン卿を見上げた。
<わたし、ビアトリーチェ・シルフィム・エガーレは、バンジャマン卿の弟子として学ぶ技術を、人を助ける力に生かすと誓います。>
半妖で、悪い魔性の子供でも、わたしは誰かの役に立ちたいと願う。特に、わたしの大切な人をシューレさんやコルを守れる力を得たいと願う。
ふたりに命を投げ出してまでわたしを救おうと思ってもらえたように、わたしも命を投げ出してでもふたりを救いたいと、誓う。
小さく口角をあげたバンジャマン卿が、小さな声で、<この者を弟子として生きる資格を私にお与えください。私がこの者を育てるように、この者が私を育てる関係となる喜びを、我が父の名においてお与えください、>と呟いた。
バンジャマン卿の口から緩く吐かれた吐息に乗って空中に銀色に光る帯が出現した。ゆっくりと実体化して、昼間の明るい室内にあってもはっきりとそれと判る銀色のリボンは銀色の光の粉を輝かせながらひらりと空中を漂って、バンジャマン卿とわたしの重ねた手とをぐるぐると巻いてしっかりと目に見えない手によって結ばれた。
命を巡る輪廻の輪は、春の女神であるマリ様が紡いだ運命の糸を太陽神ラーシュ様が回転車に巻きつけて月の女神エリーナ様が回して時の女神ウルスさまが巻き取るとされている。
帯は、運命の糸で作られた絆に違いない。わたしは、バンジャマン卿と、切っても切れない縁が出来たのだ。
<我が名に誓って。我が祖先に誓って。>
バンジャマン卿が念を押すようにわたしに語り掛ける。
ここで嫌ですと断ると術は崩壊するのかなと悪戯心を起こしそうになるけど我慢して、コルを救うためにいい子を演じると決める。
繰り返すのね、と目で合図すると、バンジャマン卿は小さく頷いてくれた。
<我が名に誓って。我が祖先に誓って。>
わたしが繰り返すと、銀色のリボンに重なっていた見えない手が、手首まで色鮮やかに実体化する。
驚いて見つめていると、しなやかなその先が描かれて、美しい女性の姿が現れた。
バンジャマン卿とわたしとの間を取り持つように立っているのは、白銀髪の髪を肩に靡かせて陶器のように艶やかで美しい肌の気高い雰囲気を漂わせている高潔な美貌の女性で、背が高いバンジャマン卿と同じくらいに背が高かった。白銀色の簡素なドレス姿なのに美しいという感想しか出てこないほど似合っている。白銀色の睫毛の長い薄紫色の瞳に淡い薄紅色の唇は優しく微笑みを浮かべていて、慈愛に満ちた表情をしていても悲哀や悲壮感がない、完璧な美しさがあった。
わたしは最近、この顔立ちをどこかで見た気がする。
月の女神の神殿の、女神像だ。
もしかして、エリーナさまですか、と心の中で問いかけると、柔らかな眼差しでわたしを見て頷いてくれた。
月の女神エリーナの名において、契約は為されました。
耳が、体が、声だと認識する以前に言葉が体に染み渡る。
美しい月の女神のお顔を拝見しながら恍惚と術が成立するのを感じているうちに、お姿が消えてなくなり、バンジャマン卿の「もういいぞ、」という声がしてやっと手を放してもらえた。
貴族の師弟制度ってこんな儀式をするんだね、と内心感激していると、バンジャマン卿がしげしげとわたしを見て「この瞬間から私はあなたの師となります。私はあなたを弟子として尊重しますから、あなたも私を師として仰ぐように、」と宣言した。お前からあなたに格上げしたし、口調も丁寧になった。親密度が上がったんだ!
「バンジャマン卿が先生なら、私はお前の上司の上司でもあるのだから閣下とでも呼んでもらおうか、」と口を挟んだスタリオス卿がニヤリと笑った。
「この者は『庭園管理員』となったのだから、本名を名乗らせるのは酷だろう。適当な潜入名を考えてやらねばならんな。」
ラボア様は眉を一瞬顰めるなり、「この髪の色は麦酒色だ。他の者にもビアと呼ばせたいな。ビアトリーチェ・シルフィム・エガーレが本名なら、ビーア・スペール・エールなんてどうだ?」と尋ねてきた。
わたしは成人しているけれどお酒を飲んだ経験がない。自分の前髪を摘まんで見て、そんなに麦酒色なのかなと地味に傷つく。
「ビアトリーチェ・シルフィム・エガーレのままではダメなんですか?」
「駄目ではないが、潜入する際、家族を巻き込まないように本名を誤魔化すのが『庭園管理員』の基本的な心構えとなる。お前が捕虜になったり不名誉を被る事態となった時、エガーレ家やシルフィム家の者に迷惑をかけてはならないとは思わないのか?」
お父さんは人間じゃないもんなあ、と思ってみて、もしかして名字があるから最初、半妖だと信じてもらえなかったのかなと推測してしまった。まさか父は人間に化けて暮らしている精霊なのだとは言えず、どう言い訳したものか。
未分化の半妖である、という事実はわたしにしか判らない事実なのだとまた指摘されている気がする。父が精霊だと言ってしまえばだから未分化の半妖なのだと理解してもらえるのは早いだろうけど、父がどういう精霊なのかを言うべきではない。王族なら、名前を出さなくたって上半身が山羊で下半身が水辺の生き物って特徴でとうの昔に宝石に閉じ込めたはずのアレだって気が付いてしまいそうだ。
いつか聞いた母の話だと父は一応記憶喪失の植物学者として皇国の出身であると一度認定されてしまっているので、それ以上は遡って調べられるなんてないだろうけれど、現段階で人ではなく精霊だと知っている生存者はわたしと母だけなはずだ。
シルフィム家の者、と言っても、一人っ子の母に兄弟はなく、母の父方の親戚も母の母方の親戚も母が父と転居を繰り返した頃ぐらいから縁が切れているとしか知らない。
村から公都に出てきて以来素性を知られたくなくて友人と言っても知人以上親友未満なベスぐらいしかいないし、あとは顔見知り以上知人未満な図書館の職員ぐらいしかわたしと縁があるものはいない。
ああ、道理でコルは本名で呼ばれていたんだと納得もする。潜入捜査などしていないから悪気もないし、家族に迷惑をかけるかもなんて気にもしていなかったから隠そうともしていなかったのだ。
考え込んでしまったわたしの沈黙を待ちきれなくなったのか、「今日からビーア・スペール・エールで決まりですね。ビーア卿と呼びましょうか、」とバンジャマン卿が言ったのに、「この者にはビアで十分だ。ビアと呼ぼう、」とスタリオス卿、もとい閣下は勝手にビア呼びを決めてしまった。
いつか、本当の素性を話せる日が来るのかな、と考えてみて、シューレさんやコルにも話せなかったのに、話せないよ、とすぐに打ち消す。
シューレさんにもコルにも、わたしが悪い魔性の子供だなんて、言えなかった。
治癒師として自由を求めて旅をしている未分化の半妖のビアという立ち位置が、とても心地よかったからだ。
「早速だが、制約の術式の確認を取ろう。ビア、何か魔法を使ってみろ、そうだな。閣下の拳を治してやれ、」
なんだ、ラボア様もビアって呼ぶのね。ちょっと拍子抜けする。
「殿下が閣下と呼ぶのは止めてください。」
わたしの師となったバンジャマン卿は嗜めるように苦笑いしている。
他人を治癒したら治癒師になるしかないじゃない? と抵抗する気持ちが顔に出ていたのか、わたしを見るなりスタリオス卿が「甘えるな。『庭園管理員』なら殿下のお言葉に従うように、」と言った。
治してもらう立場なはずなのに上からな態度はある意味立派だ。閣下らしいふてぶてしさに感心する。
「治癒ができないと困るだろう? いい練習台ではないか。」
ラボア様は楽しそうだ。
確かに、いきなり救いの手や神の手になったとしても治癒師になる絶対条件として他人を治癒しなくてはいけないのなら、自分のタイミングで人を選んで、なんて高望みはできないのかもしれない。
バンジャマン卿は、興味深そうにわたしを見つめていた。きっと、わたしがどうでるのか試しているんだ。
わたしは運命を変える。1周目とは違う未来を作る。治癒師にならなくては変えられないのなら、なるしかない。
「…ご命令に従います。」
砕けてしまった治癒師にならない計画に未練がましく執着する気持ちも捨てられそうにないけれど、ラボア様の提案を上回る妙案が今のところ思いつかない。
「良きに計らえ、」
あくまでも閣下なスタリオス卿が手を差し伸ばしてきた。ハンカチを取ると血が滲み皮が剝れ肉が見えているのに痛そうな表情を浮かべていないのを見ると、この人は我慢強いのか痛みを術で取り払っているのかどちらかだと思えてくる。
王城付きの治癒師にいつもなら治してもらっているのなら、ここでどんなに暴れようと魔法で治せばいいのだと慣れていて平気なのかもしれない。
ラボア様は地属性の魔法使いだ。もしかして、治癒できるのだろうか。
「殿下は、治癒術をお使いになるのですか?」
「いや、使わない。召喚魔術師だと思ってくれればいい。」
地属性の魔法使いで召喚魔術師なら、探索に精霊を使うのかな。
なんとなく連想して、なんとなく、国境を越えた後わたしを追ってきた精霊を使っていたのはこの人なのかなと思えてきた。そうなると、ラボア様は精霊の瞳を通じて、わたしを見ていたのかもしれない。
自分ができる地属性の魔法使いが得意な魔法をあれこれ思い出して、あらゆる可能性へと思考が嵌り込みそうになった時、バンジャマン卿が声をかけてきた。
「ビア、治癒の魔法を使う時、呪文に私の存在を織り込めますか。とても簡単な言葉なのです。師弟関係を結んだのですから、治癒の呪文のどこかに、『我が師バンジャマン・マルルカ・ランベールとともに、』と添えて下さい。今回限りで構いません。」
アウルム先生は皇国の人だったから師弟制度を知らなかったのもあってか、そんな文言を呪文に混ぜるようになんて言わなかったのにな。
わたしの尊敬する魔法使いはアウルム先生でわたしを育ててくれたのもアウルム先生だと自負していただけに、先生を裏切るような変な気分になったけれど、月の女神さまの立会いの下バンジャマン卿が師匠となってしまったのだから従うのが筋だ。
納得がいかない気がするけど、契約がある以上、師匠の言う言葉は絶対だ。
「判りました。」
スーッと息を深く吸って、言葉を組み立てる。患部を両手で包み込むようにして掌を向けて、わたしは心を集中して自分の手が精霊との力の媒介となるのを願う。
2周目の未来では治癒師にならないでおこうと思っていたし、諦めないといけないなと思っていた。ラボア様の命令だから治癒師にならなくてはいけない、と言っても、本音を言うととても嬉しい。
運命を変えるために諦めようとしていた治癒師にどんなきっかけででもなれるのは、やっぱり、嬉しい。
心のどこかに1周目の未来で得た喜びを捨てられずにいたのは秘密だ。
冒険者登録へと公国を出て王国に入って出会ったおじさんとの旅は、わたしが癒しの手でありながら医者として田舎の無医村を巡る旅でもあった。
あの時、わたしがやっていたのは治癒じゃない。あれは診察だ。
怪我人や病人に魔法をかけて治す治癒は人に魔法をかける魔法使いの技だ。
公国に帰って来て魔法の国だと実感して、わたしは自分が生粋の魔法使いなのだと再認識する。
魔物を火で攻撃したり水で襲ったりするために魔法をかけるのと同じように、わたしは困っている誰かに魔法をかける。
治癒師は、人の喜ぶ顔が見れる最高に幸福な魔法を使う魔法使いなのだと、わたしは知ってしまっている。
怪我が治りますように。
病気が治りますように。
わたしは自分の魔力を使って、誰かの体に働きかける魔法をかける。救われたいと願う声を、わたしが代わりに主様に届けて許しを貰い、治癒という魔法をかけるのだ。
顔をあげて主様に願う。治癒師として、自分の在り方を誇らしくなる。
水の精霊王シャナ様、どうか血を止めて再生する力をお与えください。
地の精霊王ダール様、どうか肉をつないで皮膚を蘇らせる力をお与えください。
わたしは治癒師として、希望という名の魔法をかける。
<願わくば、あるべき姿に修復し持てる力が満たされ回復となる治癒を、我が師バンジャマン・マルルカ・ランベールとともに、我が父の名において願わん>
わたしの掌から流れ出た魔力はくるくると包帯のように患部を包み込むように流れて回って、白い魔法陣をスタリオス卿の手を中心に幾重にも渦巻かせていて、金色の光の粉を回転する勢いで飛び散らかしながら輝いた。
滴っていた血は逆流し蒸発して消えはじめていて、敗れ肉が見えていた皮膚はみるみると膨れ上がるなり再生し滑らかな表皮で覆って、内側から満たされた色艶のいい皮膚に生まれ変わりつつあった。
バンジャマン卿の持つ魔力の波動を一瞬わたしの体の中に感じて驚いて目を向けると、バンジャマン卿が小さく頷いてくれた。
いつもとは違って、バンジャマン卿の魔力の影響で輝きの中に手の治癒をしながら青光りする放電が何度も再生する皮膚の上を走った。
ありがとうございました




