14、まだ恋を知らない
<案ずるな。取って食おうと思っているわけではない。単純に、初めて見る存在に興味を覚えただけだ。>
ギュッと手首を引っ張られて体勢を崩したわたしを、その者は易々と抱き留めた。見上げた薄手の白いシャツに土埃色のズボン姿のわたしより少し背が高い少年は、見かけよりも筋肉質だった。
整った顔は少年にしか見えなくても、纏う雰囲気は人ではなかった。
この目、どこかで見た。
眼差しを知ってる。
<自由になりたいのなら、僕にも自由を見せて欲しい。自由を知らないのだからな。>
わたしを安全な山側に自分の足で立たせると、逆光の中握手を求めて来た少年は、<お前について行く、>と言った。
目を見開いて『探査』してみる。茶金色に輝く魔力量が輪郭を暈すほどに溢れていて並々ならぬ力を持つ地属性の精霊だと判る。人間じゃない。
ヒト型に、鹿の映像の輪郭が重なる。
もとは動物…? この姿は、鹿。
ああ、これはもしかして。
神鹿だ。
聖水の泉の水を飲んで育ち山を守り命を守り長寿を得て認められ地の精霊化し評価されて女神の使いとなった鹿の化身だ。
地の精霊化するだけでも珍しいのにすごい! と内心感嘆して、差し出された美しく整った手を取った。地属性の癒しの手にとって、地属性の精霊は外傷の治療に手を貸してくれる存在で最良の相性だ。想像していたよりもいい契約相手が見つかった。
淡い栗色の髪に金色のくせっ毛が所々混じる耳までの短い髪の、甘い飴色の瞳を柔らかく微笑んでいる美少年にしか見えない精霊は、好奇心に満ちた瞳でわたしを見つめている。
契約は望みを告げて名を交わしお互いに触れて成る。
<ビアトリーチェ・シルフィム・エガーレ。わたしの手となり多くの者を救う手助けとなってほしいと望みます。>
<ラフィエータ・トリ・ハルス・ギューマ。僕の見分を深めてくれる存在となってくれると期待する。>
お互いに手を取り相手の手の甲に口付けし合うと、契約が成立した。
わたしは、初めて精霊と契約を交わした。
この領と街の名に加えて、トリはこの国独特の習慣で守護精霊がその土地に複数いる場合に使われる記号のような名なのを考慮すると、ラフィエータはこの土地古来の守護精霊の一人だ。守護精霊は地の精霊王じきじきに選ばれてなるので精霊として格が違い、少年にしか見えない見掛けよりもうんと長生きしている精霊だ。
<ラフィエータ、早速ですが、この街を案内してもらってもいいですか?>
<その前に、僕の居場所を作って欲しい。>
そっとわたしの耳に触れた指は、群青色の魔石を撫でている。自身の魔力を消費しないために、宿木となる魔石が欲しいと言っているのだ。なんと強かなんだろう。
精霊の世界は想像以上に実力至上主義の世界だ。魔力量が見掛けの美しさに比例し美しい者が力を持ち支配する精霊の世界において、人間は下とみられる機会が多い。精霊の中での優劣となる美しさが人間の世界で言う美しさとズレる場合もままある。人間の言う『美しさ』には所詮好みが反映される。
それでも、召喚魔術師は別格だ。見掛けではなく魔力量が多いゆえに精霊より立場が上となる者がいる。精霊も契約を交わす際人間の事情を察知して、美醜で自らが優れていても能力として下だと理解すると、様子を伺う素振りはあっても要求をしてこない。
わたしが自らが下だと自覚して彼に提案して魔石に憑く精霊とするのではなくラフィエータが自ら望んで魔石をねだるとなると、真偽は別としてわたしの魔力量より自身の持っている魔力量は多いと判断していてでも自身の魔力は使いたくなく、立場が下の人間に魔力を上納させようと考えているのだと判る。同時に自分たちの上下関係を最初に決めてしまおうとする魂胆が見えてくる。わたしを利用する上の立場にいるのだから認めろと言っているようなものだ。決して彼らはわたしの庇護下に自ら進んで入ったとは思わないのだ。
わたしにとっては、現段階でラフィエータの実力はどれほどなのか判らないのもあって、精霊憑きの魔石は確実に手中に収めていられるのでラフィエータを召喚しやすいという利点のみだ。
<いいわ。こっちの魔石をあなたの場所にするといいわ。>
右手には守る者、左手には守ってくれる者を置くのが戦闘の基本だ。わたしは自分より高い能力を持つと信頼して土地の守護精霊のひとりであるラフィエータを左手に置こうと決めた。
左耳のイヤリングを指さすと、ラフィエータは小狡く微笑んでわたしの左耳ごと手で覆うと<ラフィエータ・トリ・ハルス・ギューマはビアトリーチェ・シルフィム・エガーレに力を貸そう、>と囁いた。
契約が成ったからなのか、わたしたちを取り囲んでいた精霊の気配は消えていた。
本当にこれでよかったのかなと一瞬心に迷いが過っても、最高な答えは見えてこない。きっとこれも運命だ。きっとこれが最適解なんだ。
わたしは気にしないと決めて坂を下り、街中を抜けてシューレさんのいるであろう水の精霊王の神殿へと向かった。
※ ※ ※
精霊と運よく契約を結べ上機嫌で街へ降りて水の精霊王の神殿へと向かうと、川べりにある神殿の入り口の階段に並んで腰かけて、シューレさんは親しそうに黒マントの老いた白髪の魔法使いと話をしていた。治癒師上がりの死霊使いのアウルムさんという異色の経歴の皇国の辺境出身の冒険者だそうで、シューレさんの大切な人を治療するのに必要な技術を持っているのだと紹介してくれた。
シューレさんはミンクス領から持ってきた大量の焼き菓子と剣術舞踏家としての奉納の舞とを条件に仕事を引き受けてもらったのだと笑っていて、心配事が消え失せたような明るい表情をしていた。つられてつい、わたしも契約したばかりのラフィエータを紹介した。
『精霊の舞』の魔法をかけると、姿を現したラフィエータを見るなり彼らは目を見張って居住まいを正すと恭しく頭を垂れた。想定していたよりもラフィエータは大物だったようで、ラフィエータは自身の価値を知っているからかとても満足そうな表情を浮かべている。どうやら彼の凄さを知らなかったのはわたしばかりなようだ。
土産をさっそく食べたいと老魔法使いがねだったので、近くにあった公園へと移動して、彼の召喚獣ともどもシューレさんが用意した大量の焼き菓子を広げてお茶会をする流れとなった。もちろんお茶くらいなら地と水の魔法が使えるわたしには簡単な作業で、この程度の家事なら火加減だって間違えたりはしない。死霊使いの野宿用のカップになみなみと香りのいい茶葉の紅茶を魔法で用意すると、彼はとても上機嫌で深い藍色の瞳を細めて笑って自分の名をアウルムと呼んでくれていいと気を許してくれた。のちに、わたしの個人的な魔法の先生となってくれたアウルム先生は大の甘党で、3匹いる召喚獣も召喚主に似てやはり甘党だった。
神のさきわう国・皇国では、精霊は召喚獣という扱いをされている。『精霊の舞』の魔法を使わなくてもいいように具現化の術式を用いて召喚するので、ヒト型を取らなくてもいいという意味では精霊は自然体で楽なのかもしれない。アウルム先生の召喚獣はラフィエータと囁くようにして女神の言葉で話し、すっかり打ち解けていた。
シューレさんの口ぶりではふたりは初対面なはずなのに、シューレさんは懐かしい人を眺めるような目つきで接していた。アウルム先生は気が付いていない様子だったけれど、とても先生に心を許している表情だとわたしには感じられた。冒険者であるシューレさんは1周目の未来でアウルム先生と会っている可能性があるのだと、この時点では気が付いていなかった。
アウルム先生は今晩はこの街に留まった後、シューレさんの依頼を受けて明日にはミンクス領へと旅立つのだと言う。ラフィエータに慣れてくると、アウルム先生は改めてわたしの様子を見て何かを気が付いた様子だった。わたしを『診察』したのか何か言いたそうな顔つきをしていて、その表情は翌日の別れ際まで続いた。
翌朝、見物客のいない明け方の時間帯に、春の女神の神殿でシューレさんはアウルム先生との約束通り剣術舞踏家としての剣舞を奉納した。
流れるような母音の歌は詠唱というそうで、剣を手に舞う姿はシューレさんの鍛え引き締まった体つきもあって舞を神聖なものに高めているように思えて、初めて見る奉納の舞にわたしはすっかり魅了されてしまった。
舞う中で剣が穢れを切るのか神殿のもともとあった清々しい空気がさらに研ぎ澄まされて浄化され高められていく祭壇の間に、神の使いでもある神鹿が集まってきていた。その中には明らかにこの神鹿の長である存在だと思われるいくつも枝分かれした立派な角を生やした貫禄のある老いた大鹿がいて、シューレさんが舞い終えて女神に誓いを口にすると、静々とシューレさんに近寄って『祝福』を与えてくれた。
見学していただけのわたしにも、祭壇の間を中心に青い薔薇の花が開花し咲き誇り気高い香りを漂わせながら散っていく映像が見える感覚がした。
眩しく金色に輝く朝日の中に剣を手に跪いて頭を垂れる薄着のシューレさんと立派な角を生やした神鹿の行う祝福の情景はとても神々しくて、わたしは立ち会えた奇跡を誇りに思った。アウルム先生は流れる涙をそのままに見惚れていて、やがて神鹿たちが山に帰っていくと、やっと涙を拭って「素晴らしい、素晴らしい、」と何度も繰り返していた。
別れ際、アウルム先生はシューレさんに何かを囁いていた。囁き終わった後、シューレさんはわたしを見るなり目を逸らして背を向けて震えていた。
なんだろう、と戸惑うわたしに、アウルム先生は意を決した表情になって瞳をじっと見て悲しそうに告げた。
「よくお聞きなさい。この世界は不完全なものを淘汰するように仕組みが出来上がっている。半妖だとしても、未分化のままでは生きられない。属性をふたつも持つならなおさらだ。体が分裂するのは時間の問題だろう。体を統合し心を束ねるのには早く分化を終えてしまうしかないのだよ、」
父が魔法で止めていた体の時間と実際のわたしの魂の時間とに差ができるからだろうか。ぼんやりと考えているわたしに、アウルム先生は優しく語り掛けてくれる。
「魔法ならいつでも教えよう。生きる希望となるのなら自由に生きるのもいい。でも、忘れてはいけないよ。半妖であろうと人間であろうと、生き物としての役割は忘れてはいけない。早く決めるんだ。いいね?」
アウルム先生も、シューレさんも、生き物としての役割を知っているのだろうか。知っているのなら教えて、と言いそうになって、意識しなくても判ることなのだろうなと悟ってしまう。
母は恋をすると楽に分化は終わると教えてくれた気がする。
恋をして男として生きるか女として生きるのかを決めるのが分化なら、生き物としての役割とは人を愛する行為を言うのだろう。
わたしはまだ分化していない。
まだ、恋をした経験がないと言っているようなものだ。
愛を知らないと体現しているようなものだ。
アウルム先生を見送るシューレさんとわたしの傍にラフィエータが姿を現して、わたしの頭をポンポンと軽く叩くと、<ずっと傍にいてやるから泣くな、>と言ってくれた。<僕はとっくに分化を終えているからな、>とも続けて笑う。
泣いてはいないと答えると涙が零れてきて、つい大人な余裕で微笑むラフィエータに八つ当たりしてしまった。
「次はどこへ行く?」
シューレさんが優しい眼差しでわたしを見ていた。
目的だった精霊と契約できたのもあって、王都へと目指すと決めた。王都にある花鳥公園は公都でも名の知られた有名な聖地で、一度行ってみたいと思っていた。旅の噂に、珍しい精霊が暮らしている場所とも聞いていた。
その過程でわたしは聖堂の使者から接触を受けて、シューレさんともども聖堂の所属となった。
聖堂に所属し、花鳥公園の近くでオルジュを見つけ正式に契約し、その後に向かったクラウザー候領でアウルム先生と再会し術を学んだのも懐かしい。
ラフィエータはわたしの傍にいてくれて、聖堂を隠れ蓑に自由を満喫するわたしの力になってくれたし、話し相手になってくれた。
アウルム先生の言った生き物としての役割を考える時、シューレさんと、もうひとりいたわたしの大切な人との関係の在り方についても話を聞いてくれた。戦闘の際はふたりを助けるために力も貸してくれた。
別れ際のラフィエータの行動は、その後のわたしの1周目の未来で起こった一連の出来事を筋道立てて考え直してみると、わたしをとても大切に思ってくれていたのだと理解できるけれど、わたしを通して自由を望んだはずなのに自由を捨てて自ら束縛され永遠の虜にされてしまう道を選んだ。
わたしのために自由を諦めたのに、理由も告げず言い訳もしなかった。
ラフィエータの行動をどうしてもわたしは認めたくなかった。大切だからこそ、悔やまれる気持ちが先に出てくる。
わたしを見捨ててでも逃げてほしかった。自由を、わたしの代わりに選んでいてほしかった。
現在、1周目の未来で出会ったシューレさんと出会わない選択を2周目ではした結果、恩師であるアウルム先生とも大事な友であるラフィエータとも出会わない選択となったけれど、後悔はしていない。
わたしと出会わなければ、確実にラフィエータは、自由というものに憧れつつもあの土地で仲間と生きていられる。
シューレさんはいつものわたしの左手前方に立っていた。もうひとりのわたしの大切な人は右手前方にいてくれた。わたしはふたりの後ろにいて、いつも守られていた。
わたしはこの2周目の未来で、ふたりを盾になんてしない。
わたしが、ふたりの盾になるのだと、決めていた。
公国へわたしの精霊を連れて行くことで何かが変わると期待して、妖の道を国境の街リゼブへとつなげた。
ありがとうございました




