4 あなたを知っている
シャナはメルを「似合うから、」という理由で、白いシャツに水色のベスト、紺色のズボンを履いた格好に変身させ傍においてくれ、練習以外の時も傍に置きたがった。お世話係のぺスラとスティがメルのために食事を準備したりあれこれとお世話を焼いてくれていると、シャナもやってきて、面白そうに手伝ってくれたりもする。
「これも似合うんじゃないかしら、」と、頭には黄色いくたっとした三角帽子まで乗せられてしまう。メルは鏡を見て、ますます男の子扱いになってきたなと思った。
「これでは、小姓なのではありませんか?」とメルが不服そうに尋ねると、「とってもかわいらしいお稚児さんね、」と微笑まれてしまう。お稚児さんと小姓の違いが判らないメルは、なんとも言えないモヤモヤとした気分になる。
気にしない、気にしない。私はこの方に魔法陣の描き方を教えてご褒美で家に帰してもらうんだわ、とメルは何度も自分に言い聞かせて、シャナが習得する時を待った。
一通りの流れを説明しシャナに動きの稽古をつけて何度もお手本を見せているうちにメルは、もしかして動きを何かに書いて説明したほうがいいのかしら、と思い至った。でも、この時代ではまだ紙は高級品で、滅多に扱えるものではなかった。しかもここは湖の底で、地面がない。メルもカイルと一緒に紙の代わりに地面に棒で描いて説明してもらうというやり方で祖父から魔法陣の描き方や言葉の綴り方を習ったのを思い出して、歯痒くなってしまう。
「何か、書けるものはありませんか、」と尋ねメルは「図を描いた方が判りやすいと思うのです、」と付け加えた。
少し目を見開くとシャナは少し考え込み、首を傾げて、「そうね、これならどうにかなりそう、」と、パチンと指を鳴らした。部屋の床に敷かれていた絨毯の毛足が細かく長くなり、色が濃い紺色に変わる。
「メル、少し足で絨毯をなぞってごらんなさいな、」
メルが言われたように絨毯に足を爪先立ててなぞると、つま先の分だけ毛足が倒れ水色の線が浮かび上がった。
「すごいです、シャナ様、では何か細い棒をお借りしてもいいですか?」
メルが望むと、シャナはにっこりと笑って指をパチンと鳴らして、流木のような杖を出してくれた。
「思う存分書いてごらんなさいな、」
にっこりと微笑むシャナに小さく頷いて、メルは流木の先を使って魔法陣を描いて見せた。六芒星を描いてから第一円と第二円を描いて、言葉や記号を書き込んでいく。
「へえ、本当はそんな風に魔法陣が出来上がるのね、」
感心したようにシャナは、メルが魔法陣を描き終わると拍手してくれた。
「本当なら、魔法陣を描くのには百年樹の木炭を削ったものを使います。戦闘の最中では魔法陣を書いている余裕などありませんから、描けるところから描いていくので、最終的に印を結んだときに魔法陣が出来上がるように、頭の中で完成図を想像しながら描かなくてはいけません。」
印を結んで効果を発動させるので、途中に描く文字や印を間違えると、いくら印を結んでも意味をなさなかった。
「百年樹…、最果ての地にある百花が咲き乱れるという伝説の木よね。」
シャナはうっとりとした表情になって、遠くを見つめた。
見たことがあるのだろうか。シャナ様はこの大地の底を移動し続けている方だもの、桃源郷と呼ばれる地域にもいかれたことがあるのだろう。
メルはもちろん見たことがないけれど、辺境伯領の奥地にあるという桃源郷の百年樹の林はとても美しくてとても花の香りが濃いのだと、いつか話に聞いたことを思い出す。
「ねえ、メル。とっても素敵だから、詠唱っていってたのを歌いながら、一度でいいから舞ってみてはくれないかしら。」
メルは心臓がギュッと掴まれてしまったように驚いて、でも、そんな動揺がバレないように表情を柔らかくした。
詠唱は、前世での学校の古典で習う和歌に似ていると気が付いてから、言葉を意識して聞き取るようにしていたこともあって、詠唱をできなくはないと思う。でも、どの詠唱がどういう効果があるのかをメルは知らない。カイルが練習の演舞でよく口ずさんでいる詠唱が一番耳にはなじんでいたけれど、それが何を意味する詠唱なのか見当もつかなかった。
仕方ない。あれを真似してみよう。
大丈夫、たった一度だもの。全くの初心者のシャナ様には再現は難しいはず。
ここには竜がいないから、きっと、効果だって期待されないわ。
困った顔になってしまっていたのだろう、メルのお世話を焼くうちにすっかり打ち解けてくれていたスティたちがシャナに「シャナ様、困らせてはかわいそうですよ、」、「竜の調伏師の技は危険ですからおやめになった方がよろしいのでは、」と思い留まらせようとしてくれる。
「わかってるわ、無理は言わないから、」と言いつつ、シャナはメルに縋るように言った。
「メル、何かひとつでいいの、見せてほしいわ。その方が馴染みやすいと思うの。ねえ、お願い。」
「判りました。シャナ様は竜ではありませんから、効果は期待しないでくださいね、」
メルは覚悟を決めて、出来上がったばかりの魔法陣の上に立った。
手にはカイルの鉄扇を持って、深呼吸して万全の態勢で舞い始める。
動きは、いつも通りだわ。メルは、ゆっくり息を吸って、ゆっくりと、言葉を動きに乗せる。
確か兄さんは、こんな感じの抑揚をつけていたわ。
「あぁ~をぉまぁつぅとおお~ いぃみいーがあ~ぁぬうれぇけぇえむぅうううあしぃひぃきいのぉお~
あぁまぁのおぉしぃずううっくううにぃいなぁらあまああしいぃもぉおのぉぉうぉおお~」
緩やかに滑らかに、メルは手の印を忘れないように結びながら演舞を舞う。
詠唱を間違えないようにと気をつけ、母音を意識して、呼吸は長く細く吸って途切れないように言葉をつなぐ。
カイル兄さんの詠唱は言葉ではなく、唸り声のように、もっと母音が響いていたわ。詠唱しながら演舞を舞い、魔法陣を描いてもいた。まだまだ兄さんには追いつけていない。私のはまだまだだわ。
完璧な仕上がりにはまだ遠いだろうなと反省しながらも、メルは最後の音を言い終わり、シャキンと音を立てて鉄扇を閉じ、天井を仰いで発動の印を結んだ。
パリン、と何かが砕ける音が聞こえた気がした。
メルは鉄扇を慌てて見てみたけれど、何も壊れてはいなかった。
なんの音?
「すごいわメル、何のことを言ってるのかよくわからなけけれど、あなたの詠唱はとても美しいのね。まるで気持ちを伝えようと歌っているみたい。」
伝えたい思いは恋心だろう。竜を調伏するための歌なので、なんとなくメルにもこれは恋の歌だろうなという認識はあった。自分が調伏師であるという立場を考えれば、恋歌という印象は妥当と思う。
「そうですね、竜への恋の歌かもしれませんね。ところで、シャナ様、何か、壊れる音がしませんでしたか?」
シャナはキョトンとした表情になった。
聞こえていたのはメルだけなようで、侍女たちをちらりと様子を伺ってみても、誰もシャナと同じようにキョトンとした顔つきをしていた。
「いいえ、何も聞こえなかったわ。空耳じゃなくって?」
そうなのかなとメルは思ったけれど、もしかして詠唱の効果があって何かを解呪した音だったとしたら、と考えた。何を解呪したのか判らない以上、追求しない方がいいかもしれない。
「そうですね、」
「ええ、忘れなさい。じゃあ、私も、そのお手本を描いて覚えることにするわ、」
シャナは小さく微笑むと空中から細長い流木を取り出して、絨毯に魔法陣を描き始めた。
※ ※ ※
「メル、起きて、今日の練習を始めましょう。」
眠っていたメルはシャナに揺り起こされて、もう朝なのねと眠い目をこすりながら思った。
昨日は練習を終えて宛がわれた部屋に戻ると、メルは一目散にベッドに向かってそのまま眠ってしまった。朝昼晩と三食をシャナと一緒に食べて演舞の練習を繰り返して、夜、やっと一人になれたと思いながら入浴をすると部屋ではシャナがお茶をして待っていて、寝る前に一日の終わりに仕上げの練習して、がもう何日か続いて、メルはいい加減うんざりし始めていた。
高い位置でくくったポニーテールとひらひらと後れ毛を髪を揺らすペスラと、がっちり三つ編みに結ったスティがいくら時々治癒を施してくれて話相手になってくれていても、ここは地上ではないし、メルの家ではなかった。
メルが着ていたパジャマ代わりの白いワンピースやカイルのジャケットやズボンは綺麗に洗濯してもらえて、補修もしてもらえていた。でも、着る機会がなくて、メルは枕元に置いて何度も眺めて、何度も、撫でて、我が家を思った。
帰りたい。
でも、帰れない。
玄関ホールに大きな水時計があるので、廊下を移動する度にそれとなく観察していることもあって、シャナは練習を始めて3日目頃には魔法陣を間違いなく描けるようになっていたと思う。
シャナの魔法陣を描く動作はとても美しいし、印も的確に結べている。足りないとすれば持続力だろう。シャナは一通り覚えた様子でもう魔法陣も完ぺきに描けるはずなのに、「メル、お手本を見せて、」とねだり、一回練習で魔法陣を描くたびに「メル、お茶にしましょう、」と提案して何度も流れが途切れてしまう。
じいちゃんが言ってた水の精霊王は我儘って、こういうところなのかもね、とうっすらと思ってしまう。メルは我慢して付き合っていたけれど、振り回されている気がして、限界が近かった。
早く試してくれないと、どんどん時間ばかり過ぎて、どんどん私は家に帰れなくなってしまうんだわ…。
のろのろとベッドから這い出して、メルはシャナに「もうお食事は済まされたのですか、」と尋ねてみた。シャナは練習用の白いふわりとしたワンピースを着ていた。
「そうね、食べたし、練習もしてみたし、ひと汗かいてお風呂も入ったし、今日の私は一味違うわ、」
パチンと指を鳴らして、シャナはメルをいつも通りに小姓のような格好に変身させた。もう抵抗する気がないメルはおとなしく、いつも通りに白いシャツに水色のベスト、黄色の帽子を頭に乗せて、紺色のズボンを履いた格好になる。
今日はいつもと違う要素でもあるのかな、とメルは思いながら部屋の中を見渡した。
シャナ様のご機嫌に直結するようないつもと違うこと…。
部屋が明るい気がする。この明かりは何だろう。窓の外? ああ、湖面から光が降りてきているのね…。
「もしかして、今日は地上はいいお天気なのですか?」
とびきりの笑顔になってシャナは頷いた。
「ええ、今日は南部の山脈に近い湖につながったみたいなの。そろそろ試す絶好の機会だと思うのだけれど、どうかしら、」
シャナの神殿はどういう仕組みなのか湖底を移動していて、日によってつながる場所が違う様子だった。メルがここに来てから晴れていたのはあの水竜王が来た日のみで、あとはずっと暗く陰っていた。移動してあちこちの湖の湖底へとつながっているってことは、この国中の地底湖とつながっているってことなんだわ、とメルは妙に納得してしまう。
ならなぜ、ゲームでは水竜王の棲む湖からつながった洞窟を抜けなければいけなかったのだろう。メルは首を傾げて考えてみたけれど、いい答えが思い浮かんでこない。
「いいのではないですか。シャナ様はひとりで魔法陣を描けるようにおなりになってますし、いいお天気ならあのサロンルームもいい舞台になるのではありませんか?」
もしかしてずっと、晴れる日を待っていたのかな。
「そうね、やっぱりそう思うわよね? 」
メルは、シャナがパチンと指を鳴らした音で部屋に入ってきたペスラたちに給仕されながら、部屋のテーブルで朝食を取り始めた。
4人掛けのテーブルのメルの向かいの席には水色のドレスに着替えたシャナが座って、優雅にお茶を飲み始めている。
「でも、水竜王が…、いつものようにやってくるとは限らないのではありませんか、」
メルはトーストを齧りながら、テーブルの上に並べられている皿の上の料理を見る。トーストにサラダ、スープに魚のムニエル、果物…。ここに来てからずっと、味付けが違うだけで、同じような料理ばかり食べている気がする。
今朝はコンソメスープなのね、とメルはスープを見た。刻んだ玉ねぎとパセリが浮いたスープには珍しく赤い小さなエビが入っていた。食べられる加工がしてある風でもなく、どう見ても動いていて、活きがいいという表現でもなくしっかりと生きていて、メルにヒゲを振っている。
これまでスープに生き物が入っていたことなんてなくて、メルはびっくりして固まってしまった。
「その時はその時で日を改めるわ、…メル?」
動かなくなったメルを見て、シャナが声を潜めた。給仕をしていたスティがそっと近寄ってきて、メルが視線で訴えかけた先のスープを見ると顔を強張らせた。静かに首を振ってそそくさとシャナの傍まで近寄ると、そっと耳打ちして伝えている。
大きく溜め息をついたシャナが静かに立ち上がるとメルの傍までやってきて、使われていないデザートフォークを手に取ると無言でスープからエビを掬い上げる。
怒っているのか、シャナの体の周りには、青黒い卵が空中に漂い始めていた。
「あ、」っと誰かの声が聞こえた気がしたのと、シャナがフォークで掬ったエビを放り投げるのとは同じ瞬間だった。
ふわっと地面に降り立ったのは赤黒いジャケットに白いズボンを履いたオレンジ色の瞳をした赤毛の可愛らしい小柄な青年で、シャナは忌々しそうにペスラたちに「スープの替えを、」と用意し直させる指示を出した。
火の精霊王のリハマだ。メルは目を瞬かせてリハマを見つめた。ゲームのシナリオでは、リハマとは主人公の勇者たちの一行は南部の港で遭遇する。
異国の商船と公女の国の商船団たちとが諍いになり、仲裁を買って出たリハマの提案もあって、親睦会も兼ねた腕相撲大会が催されることになる。お互いに力自慢たちを出し合い戦う中で、優勝者への景品である火の鳥の太刀を狙って紛れ込んでいた勇者たちも戦って勝ち抜く。大いに盛り上がった会場を気に入ったリハマから祝福を得て火の精霊王の加護を得て、難易度の高い炎系上級魔法が解禁される。
シャナとリハマはドラドリでは一緒に登場しない。公式ガイドブックでも仲がいいという記述すらない。
でも二人は親密な様子で、双子の姉弟のように息もあっている。
スチル画の印象だと、リハマはやんちゃないたずらっ子な印象で、グッズでは猫耳と尻尾を付けたマスコットが人気のキャラクターだった。目の前のリハマもかわいい男の子といった感じがしなくもなかった。
「ひどいなあ、怪我しちゃうじゃない。」
懲りない様子のリハマは小さく笑って、「ひどいなあ、シャナは。楽しいことをしているのなら僕も呼んでよ。友達でしょ、」と首を傾げた。
ドラドリ通りだ…、でも、シャナ様と仲が良すぎ…?
ポカンとしているメルを尻目に、シャナは空中に漂う卵を払いのけてリハマを無視してスタスタと歩いて自分の席に戻った。口を尖らせるリハマを無視して、メルのもとに届けられた新しいスープを「ごめんね、メル、」と声をかけて勧める。
「もう変なの混じってないから。ちゃんとしたスープだから。メル、続きを気にしないで食べて、」
微笑んでいても怒っているのか、また青黒い卵がふわっと空中に漂い始めた。瞬く間に泡のように孵化した魚が群れを成して廊下へと流れていく。
「変なのって何だよ、シャナ。この子がメルかい? 聞いてたより女の子だねえ。」
メルに近寄ると頭を軽く撫でて、「僕のことが判るんでしょ、呼んでみてよ、」とリハマは囁いた。メルが目を逸らそうとしても、視線を合わせてくる。
身分の差とか人間社会の階級制度などを無視した振る舞いに、メルはたじろいでしまった。
「メル、ダメよ。見なかったことにしなさい、」
精霊王の姿は魔力がないと見えないってシャナ様に教えてもらったばかりだけど、やっぱり私はリハマ様が認識できる。きっと普通の人間なら炎の塊のような形しか見えていないはずなのに、私は、姿かたちももきっちり見えてしまっている…。
魔力、どうやって手に入れたんだろう、私。シンがくれたのは、あの瞬間だけのことじゃないのかな。
「いいから呼んで。」
名前を呼ぶのは正解なのだろうか。メルは迷った末、「リハマ様、でいらっしゃいますか、」と尋ねてみた。
ありがとうございました




