9 『クアンドのライヴェン』
フリッツが入浴し終えて脱衣所で体を拭いていると、フリッツを呼ぶ声がドアの向こうから聞こえてきた。カークだ。「少し待ってくれ、」と答えて急いで着替えようとして、布巾の積まれた棚と壁の隙間に小さなきらめきを見つけた。昼間だから気が付いた程度のか細い煌めきをよく見ると砂時計で、棚に置いて使っていて壁との間にストンと落ちてしまったかのように思えた。気が付かなかっただけで、もしかすると昨晩既にあったのかもしれない。誰かが使ったままにして片付けずに忘れてしまったのだろうか。あると思わずに布巾を積んで押し出したのか?
手を伸ばせば取れそうだけれど、「ごゆっくり、」と聞こえてきた声の方が気になる。本心から『ごゆっくり』と言っているように聞こえなかった。
どうする?
離宮で働く侍女や執事たちが掃除や片付けをしていて気が付かないでいるのも妙な気がする。後でしようと思いつつ先送りにしてしまっているのか? 砂時計は貴重品とは言い難い。
フリッツの身の回りで砂時計を使われているのを見たことがない。せいぜい言ってカークが新しいお茶を試すために使用方法をきっちりと守って蒸らす時に使う程度で、そんな機会も滅多にない。そうか、重要ではないから後回しにされているのだな…。
着替えて脱衣所のドアを開けて部屋の中に入ると、カークがお茶の用意をしてくれていた。開け放った窓から風が通って、カーテンが大きく揺れている。
「なんだ、思ったより早かったじゃないですか。せっかく私が着替えのお手伝いをして差し上げようと思っていましたのに、」
冗談とは思えないカークの発言にギョッとしていると、小さな発見はフリッツの意識の中からすっかりと消えていた。
※ ※ ※
カークが支度してくれていた大きなガラスのポットには、冷やした紅茶だろうと思われる液体と、レモンやモモ、オレンジといった果物が浮かんだり沈んだりしている。味付けに何か入っているのか、水に馴染みそうで馴染まない透明な揺らめきがポットの中に見える。
「おいしいですよ、飲みませんか、」
「なんだ、それは?」
馴染みのない飲み物を自ら進んで飲みに行けるほど、フリッツは気軽な性格をしていない。
「我々の今日のお使いの成果です。エドガー師の要望でステムさんが作ったんです。味見させてもらったらとっても爽やかでおいしいので、フリッツにも、と思って用意してもらったんです。皇国の南方の一部の地域の夏の醍醐味、サングリアと言うのだそうです。」
支度するカークの胸のポケットから白い封筒の端が見えている。その手紙はなんだ、と尋ねようとして、フリッツは作業中に別の作業をさせるのはかわいそうだと思い直す。
手紙をトレイに置かずに直接手渡さなくてはいけない相手からの手紙か。なんとなく父や母、ラナの顔が思い出されて、軽くひと月近く家族に会っていないのだとしみじみとしてしまう。
「エドガー師はどうだった?」
「大変なお喜びようでしたよ? 部屋の中はいつでも出立できるようにと片付いていましたね。当初の予定通り明日登城され、そのまま帰国されるおつもりでお支度をされているのだとか。後でご挨拶に行かれますか?」
「そうだな。」
アンシ・シで出会ってからとても得難い経験ばかりを共有してきたエドガーに対して仲間という意識があって、離れがたい愛着心すら湧いてきてしまう。
「ゆっくり話がしたいと思っている。あまり遅い時間も迷惑だろうから、この後にでも行ってこようと思う。」
「そうですね。了解しました。」
カークが恭しく並べて注ぐ二つのグラスは青く、光を反射して煌めいている繊細な装飾の刻まれた切子細工で、複雑な文様で機能性よりも芸術性を重視した作りは皇国でしか手に入らない伝統工芸品だ。
「美しいな、」
「このグラスは、離宮ならではだと思います。魔物が出没するようになって以来、なかなか皇国から流通してきませんからね。やはりいいものは何年たってもいいものです。ご堪能下さい。」
魔物が出没するようになって変わったことのひとつが、扱いが繊細で衝撃に弱い高級品よりも実用性が高く耐久性のある汎用品の流通が増えたことだった。いつでも家財道具を持って逃げられる生活をする者が増えた結果とも言える。汎用品が増えると必然的に高級品は受注生産となり、商用として他国へ持ち出される機会が少なくなってしまっている。
カークに勧められたグラスを手に取り飲まずに眺めていると、警戒していると思われてしまったのか、「ご安心を、」と微笑まれてしまった。
フリッツや王族が食事に使う食器はほとんどが銀製か、加熱殺菌ができる陶磁器だった。ヒ素や毒物で食器が変色するため用心してのことだけれど、この離宮では食器が限定されて使われていると言った印象はなかった。テーブルクロスといったリネンと雰囲気を合わせて、食材や彩に合った器を最適に使って品良く仕上げている。主と使用人の関係は長く普遍的な関係でつながっていて、誰がどういう人間なのかを知っているからこそ、裏切られる心配がないからできる食器選びなのだろうと思う。
「カークは信頼しているから、安心しろ、」
自称クリスティーナとオリガの一件は屋敷の人間すべてで演じている芝居なのだとしたら、本物のクリスティーナの居場所を把握しているからこそ団結して芝居できているのかもしれない。下手に突破口を探して秘密を暴くなんて危険な真似はできない。だから、無理やり全てをひっくり返すつもりで、侵入者たちは自害までして王城の介入を画策したのか。
これは、厄介だ。これでは、黙って芝居に加担するか、無理やりひっくり返すかの二択ではないか。
離宮に来た時に内密に解決するとした判断を、侵入者たちは自死を盾に選択し直せと圧力をかけてきている。
そんな圧力に屈したくはないけれど、死者が出たという事実はやはり、大きな意味を持って迫ってくる。
爽やかな果実の酸味と甘やかな風味に、紅茶の華やかさと蜂蜜の甘さが溶け込んでいる。緊張していた気持ちが解れてきて、フリッツは、つい、「うまいな」と目を細めた。
「そうでしょう、そうでしょう。もっと褒めてください。キュリスやビスター、ランスの部屋にも差し入れに行こうと思っているのですよ。」
「ああ、喜ぶだろうな。」
「ほんとですか?」と笑ってカークもグラスに口を付けた。
「ああ、これはいいですね。暑い日には酸味も甘みも最高です。」
切子細工のグラスは皇国の伝統工芸品で、公国の魔法使いが欲した夏の醍醐味を飲むのは王国の人間だなんて、平和の象徴そのものだな、と思ってみて、フリッツは小さく苦笑いをする。
現実は、そんなに甘くない。王国の王族が暮らす離宮には侵入者という形で皇国からの干渉があり、滞在する公国の魔法使いは聖堂が画策したと思われる陰謀の被害者だ。
「王城でもまた作れそうか?」
わざと明るい表情を作って尋ねてみる。カークは自称クリスティーナを本物のクリスティーナだと思っている。フリッツが思っているよりもずっと、離宮は平和なのだと思っているに違いない。
「そうですね、このお茶は皇国と公国の国境近くのクアンドという街の名物なんだそうです。皇国のシャークス候領にある街らしくて、この国からは随分と遠くにある街です。誰も正解を知りませんから、これが正解の味なんだと信じてくれそうですね。」
「公国と皇国の国境の街に公国のエドガー師が向かわれたのか?」
訛りのある公国語と公用語しか話せないエドガーが皇国に用事があって出国するのは意外な気がする。身の回りの世話をしていたというドニやイリオスが代理で出かけていくのなら納得できる。
「なんでも若い頃にお訪ねになったのだとか。」
「若い頃…、」
フリッツの中でエドガーの若い頃は火の精霊王リハマと対決したという印象しかない。
「うろ覚えの味の再現って難しいですよね。エドガー師がステムさんに頼まれた時には『皇国のサングリアを所望したい』とだけご希望があったそうです。しかも身の回りの世話をする執事や侍女たちに頼むのではなく、言付けを受けたペトロス殿が直接厨房に尋ねていらっしゃってのお願いだったそうですよ? このお屋敷に到着してしばらくしてのお話だったそうです。夕食の準備で厨房が混乱している最中だったので、『明日にはお作りします』と軽く請け負ってしまったばかりに、食材を集める手間がズレて今日になったそうです。」
「屋敷の主人に願うのではなく、厨房へ直に…?」
執事や侍女に仲介を頼んだわけでもない。客人としての振る舞いにしては直接的すぎる。
「そうなんです、不思議ですよね。皇国出身者の働く環境だからって、いつでも皇国の味が堪能できるわけではないだろうに、結構無茶なお願いですよね。」
カークの答えはフリッツの期待していたものとは違ったけれど、それはカークがこの離宮に暮らす全ての人間を疑っていないからだろうと思えた。
「ああ。確かにな。」
自称クリスティーナを疑ってかかっている自分なら、物事を頼みたい時は誰かを経由するのではなく直接頼むだろうと思う。そうなると、エドガー師も、誰かが邪な悪意を持って介入する可能性を懸念したのだろうか。
「それにしても詳しいな。」
「さっき、侍女がお持ちする支度をしていたのを、私が代わってお持ちしたんです。侍女とはその時話しました。代わると言うと色々教えてくれたんです。この程度の食材を運ぶなんて、強化の魔法も何もなくても平気ですからね。」
神殿へ参拝に行けない現在、思うように魔力の回復ができない彼女たちをカークなりに気遣ったお礼に教えてもらったのだろうと判って、フリッツはカークを頼もしく思う。
「エドガー師はイリオス殿やペトロス殿に楽しそうに話かけながら、お持ちしたサングリアをお召しになりました。公国語だらけだったのでよく判らなかったのですが、ペトロス殿が『はるか昔、ライヴェンに会いに行った折に奥方に入れてもらったサングリアは、蜂蜜の代わりに酒が入っていた、』と仰っています、と教えてくれたので、本当はエドガー師はお酒がお召しになりたかったのかもしれません。」
ニヤニヤと笑うカークに「そんな事はないだろう、」と窘めてみて、聞きなれない言葉にフリッツは戸惑った。
「ところで、ライヴェンとはあの伝説の職人のライヴェンか?」
「びっくりですよね、きっとそのライヴェンだと思います。クアンドのライヴェンと言えば一人しかいませんからね。」
「名前を聞いたことがあるな…。」
「確か、絵本がありましたよね。フリッツが皇国の言葉を学んでいる時に家庭教師が宿題として下さったものが。」
「お前は妙なことばかり覚えているな。」
「この国の本と違って皇国の本は構図が精密で色彩が美しいですからね。フリッツの訳してくれる言葉を待っている間、それはもう食い入るように絵を見た覚えがありますから。」
そんなこともあったな、とフリッツは懐かしく思い出す。細かい図案にちまちまと丁寧に塗られた色彩は絵本というよりは芸術品の風格があった。
「絵本の題は『クアンドのライヴェン』だったか?」
「確か、そんなでしたね、」
フリッツは心の中で、何度も読みこんだ絵本を広げて、謂れを思い出していった。
先の大戦の混乱の中、皇国の一人の家具職人が材料となる木材を探して山に入り、ソローロ山脈の奥地で行方不明になった。その職人は岩山の奥にある苔生した古い、誰を祀っているのかよく判らないほど朽ちた神殿で冬の嵐が過ぎ去るのを待った。
大戦が終結し幾年月かが経った頃、とぼとぼと山の中を彷徨っているところを、公国にほど近い皇国の山奥の領の検地官に助けられた職人は、発見された時すでに両親や兄弟との縁が切れていた。天涯孤独となってしまった職人を憐れんだ領主である侯爵は、そのまま自領に領民として迎え入れ手厚く保護をした。
昼も夜も判らない環境の中でひたすら作っていたのは小型の時計だという職人は、優しい心遣いと暖かな配慮に感謝して、領主に自作した小型の時計を献上することで恩を返したという。その当時、時計といえば個人で持つには高価で、街の有力者が大きな壁時計を持つ程度の技術で作られていた。手のひらに収まるほどの大きさなのに緻密で精巧な小型の時計は、侯爵の人柄と共に領民に知れ渡った。
侯爵は時計の素晴らしさを領民たちにも惜しみなく披露し、職人も乞われれば作り方を伝えに領内を渡り歩いた。
領主の持つ時計を一目見て憧れた領民の誰もが実物を欲しがり職人の技を真似したがったおかげで、侯爵領には時計作りの職人が住む街がいくつもできた。しかも職人が暮らすクアンドの街は国境に近い街で、公国からも欲しがる者たちが遥々国境を越えてやってきた。侯爵領は潤い栄え、侯爵は日頃の功績が認められていつしか公爵へと爵位が上がっていた。
職人が作り始めた時計は、より細やかな仕組みが研究され貴重品としての価値を高めるための装飾も華美になり、クアンドの懐中時計として各国へと広まった。
めでたしめでたしで終わった物語は、その後の物語が家庭教師の口から語られて完結したのだったと思う。
「ライヴェンと言うのは綽名だった気がするな。本名は違う名だった、と記憶しているが、思い出せないな。」
「ライムンド・レヴェルロですよ、フリッツ。あの当時、すんなりと私は言えなくて、うちに帰ってから何度も練習しましたから。ライムギ、取れ、ベルロ、と繰り返したんですよ?」
そんな理由で覚えていたのか。
「確かクアンドの懐中時計の中でも、ライヴェン本人が作った作品の数々は『クアンドのライヴェン』という名でまとめられて、蒐集家によって高額で取引される逸品として今も語り継がれた銘品なのですよね? 国王陛下が王妃様に結婚記念の10周年目の記念の証としてお贈りになった時計が、我が国にある最も高額なライヴェンだと聞いたことがあります。」
「カークは変なことを覚えているのだな。」
息子であるフリッツは気にもしていなかった。
「当たり前です。いつか殿下が即位された際には何とかしてお手配させていただきたいと、子供の頃からお小遣いを貯めていますからね。」
「正気か、」
いつの事か判らない記念に合わせて購入するつもりであるのなら、その頃には値段は天文学的な数字になっていそうな気がする。
「半分本気です。でも、フリッツにクアンドの懐中時計をお持たせしたいと思っているのは本当です。」
「気持ちだけ受け取っておこう。」
「いっそのこと、竜魔王討伐の旅の際にクアンドで一緒に買いませんか、お揃いの懐中時計。」
「カーク、」
冗談なのか本気なのか判らないカークは、へへへっと肩を竦めて笑うと、「本物のライヴェンは皇国の品らしく魔道具らしいですから、魔法をお使いになられるという王妃様だからこそ使いこなせる逸品なのかもしれませんね、」と続ける。
「魔力を動力に動くのか?」
「さあ、見たことがないのでよく判りませんが、ありえそうですよね。」
ナチョのからくり人形といいライヴェンの懐中時計といい、皇国では機械と魔法が共存しているのだろうか。
「この国では当たり前のことも他国ではありえないことなのだと思うと、竜魔王の討伐の旅はお互いの違いの差を埋めるいい機会なのかもしれませんよ? 公女様と有効に時間を使ってみてはいかがですか?」
「浮かれた旅に行くわけではないのだぞ。」
いきなり急にフローラの話を振られてムッとしたフリッツを見て、カークは小さく笑っている。
「ところでカーク、その手紙はなんだ?」
「ああ、これですか、お渡しするのが忘れていました。先ほど王城より届いた知らせです。フリッツの名前があるので、誰も開封していませんからご安心ください。」
そう言って差し出してきた手紙には、白い封筒に王家の紋章とフリッツの名前が宛名書きされていた。几帳面な字は父であるアルフォンズのもので、ペーパーナイフで開封した中に入っていたのは重ねた白い便箋二枚にただ一言、「おばあさまをお助けしなさい」とだけあった。
どういう意味だ?
固まってしまったフリッツを見て、カークが「伺っても拝見してもよろしいですか?」とでも言いたそうな顔でフリッツの顔を見つめている。
どういう意味か、言葉通りに考えるのが妥当か?
手紙を見せたフリッツに、カークはにっこりと微笑んだ。
「陛下はすごいですね。フリッツ、お手伝いを頑張りましょうか、」
カークの言うお手伝いは家事や執務の仕事の事だろう。しかもそれは、自称クリスティーナの補助だろう。
口を開くのも億劫になってしまったフリッツが黙っていると、部屋のドアをノックする音が響いて、キュリスとビスター、ドレノ、そしてランスが部屋の中へと入ってきた。
ありがとうございました




