2 奥様がお待ちです
フリッツたちを乗せた馬車の一行は、ほどなくしてフリッツの祖母である先代の国王妃クリスティーナの住まう離宮へと到着した。事前に離宮付きの騎士から連絡があったらしく、広大な敷地の中心にある昔ながらの重厚な建築の古びた屋敷へと続く通路を背に、執事や侍女などといった使用人たちが門に入ってすぐにある馬車寄せに並んで待ち構えてくれていた。大小さまざまな花を咲かせた薬草畑や薬草のための温室があちこちに設けられていて、屋敷まではすんなりと馬車で移動できない作りになっている。
馬車を降りたフリッツたち一行と、イリオスとペトロスに支えられたエドガーが姿を見せると、執事たちがエドガーを引き受け侍女たちが手際よく荷物を振り分けて屋敷内へと案内してくれた。先頭を歩くサーヴァと名乗った執事長にランスが状況を説明しているのに続くのはエドガーやイリオスたちで、フリッツたちはのんびりと後に続いた。馬車を見送ると門が閉じられると、鳥の鳴き声やせせらぎの音が聞こえ始め、外界から遮断されたかのような空間へと変わった。離宮は、花鳥公園とはまた違った緑あふれる世界だった。
「こちらのお屋敷で働く侍女たちは皇国から皇女様付きの女官としてこの国にやってきた者たちです。執事は王城の選りすぐりの侍従や皇国からお呼び寄せになった者たちですから、ドレノ、よく見て学ぶんですよ、」
神妙な顔をしてドレノは頷いて、早速、前方を行くフリッツたちの荷物を運ぶ侍女たちを観察し始めた。カークはフリッツの隣りで、手ぶらなのをいいことに、屋敷の周囲を囲んだ高い塀を遠く指さした。
「ここは何度かお使いできたことがありますが、また薬草畑が増えている気がします。壁も高くなってませんか?」
「カークの気のせいじゃないのか? 背が縮んだろ、きっと。」
「キュリス。馬鹿を言ってはいけません。ここの薬草を狙う不届き者が増えたんですよ、そうに違いありません。」
「まさか。先代の国王妃様のお屋敷だろ。国母様のお屋敷に侵入するなんて、そんな不敬な奴はいないって。」
気楽に笑ったキュリスたちを見て、フリッツは魔物や獣人にはそんな理屈は通用しない気がするなと思ったけれど黙っておいた。もしも本当に侵入者がいるのなら対策を考えた方がいい気がする。
「離宮って地図上で見ても敷地ばかり大きな印象でしたが、お屋敷まで小さいのですね。内部に入るのは初めてです。感慨深いですね。」
「先代国王妃様が皇国から嫁がれた際に、この国は魔法を使えない者ばかりの国と聞いて輿入れ道具の一部として持ち込まれた薬草を栽培するために薬草園を作られたのが、離宮を作るきっかけだそうですからね。」
ありがたがるビスターに、一番手前に見える薬草畑を指さして訳知り顔のカークが解説する。キュリスも知っているのか、頷いて、あとを続けた。
「ここで栽培された薬草が株分けされて恩賜として各領地に配られたそうだ。先代の国王妃様はあまりお姿をお見せにならない控えめな方だったって話だ。でも、無償で薬草をお配りになるお優しいお心遣いと婚礼の儀にお見せになった美しいお姿とで、国民に絶大な支持を受けていたって聞いている。絵姿をいまだに崇拝する者は多いと聞くし、自分の子供に先代の王妃様にあやかった名前を付ける親が続出したらしいからな。」
「クリスティナにクリスフォード、でしたっけ。『クリスなんちゃらって名前の者はたいていが一家総出で熱心な国王支持者だから、採用時に印象がいいよな』って人事院の者たちが笑い話にしていたことがありましたね。」
楽しそうにキュリスとカークとビスターが話をしているのを聞きながら、フリッツは幼い頃に見た祖母の顔を思い出そうとしていた。
祖母クリスティーナ・アンゼリカ・リュラーはフリッツの祖父が亡くなった後しばらくは王城にいてフリッツたちと暮らしてくれたけれど、ラナが手がかからなくなってきた頃には薬草園にあった屋敷を手入れして『離宮』とし、正式に王族の終の棲家とする手続きを取り潔く移って行ってしまった。それ以来、王城へ顔を見せることもなかったし、フリッツたちを迎えることもなくなった。母のクララと文のやり取りをしているとは聞くけれど、年に数回あるかないかの頻度だと聞いていた。フリッツの中では、年を取ってしまってからの顔よりも、王城の肖像画の間にある婚礼の儀の際に描かれた絵姿の顔の方が印象に強い。祖母のクリスティーナは、母親であるクララとは違い皇国民の特徴を強く持っていて、色白で黒味の強い焦げ茶色の髪に明るく純真に輝く黄色っぽい茶色の色素の薄い瞳、幸せそうな笑みを湛えた鮮やかな赤色の形の良い唇、柔らかな表情の小さな顔と均等で魅力的な体形に長い手足、といった容姿で、髪の色と瞳の色と雰囲気を変えれば妹のラナによく似ていると思えた。
「ここは長閑でいいところなんですけど、王城と比べるといささか設備が古くて不便なんですよね。人手もあまりなさそうですし。お世話になりっぱなしも申し訳ないので自分たちのことは自分でするのは騎士として当たり前ですが、それ以上に献身したほうが良さそうですね。」
エドガーやイリオス、ペトロスの様子を見て、カークが提案する。
先を行くエドガーは執事たちに支えられていて衰弱が激しいのだと一目で判る。ペトロスは自国民ということもあって侍女たちにエドガーやイリオスの状態を尋ねられると親切に受け答えしている。この国の言葉が怪しいイリオスは公国の貴族として振る舞うことにしたのか、背筋を伸ばして居丈高に、言葉が判らなくても貴族は庶民に世話をされて当然、という態度を取っていた。客観的に見ても一番若く見える侍女でもイリオスよりも年上だというのに不遜な態度で、かえってイリオスらしいなと思えてくる。
離宮で働く者たちは王城で働く者たちと比べると全体に年齢層が高く、一番若い者でもフリッツの両親よりも年上に見えた。
「そうだな。突然この人数が押し掛けたのではご老体たちが気の毒だ。休憩を取ったらさっそく手伝いを始めようか。」
キュリスとビスターが顔を見合わせると、カークが「薪割りは私がやります。何しろ私は見ていただけですからね、」と卑屈に笑った。「ドレノも働くんですよ、」とついでに声をかけている。
「よっぽど歯痒い思いをしたんだな、」
呆れたように言ったキュリスに、カークが「あの悔しさはしばらく不眠の原因になる自信があります、」と真顔で答えている。
玄関の扉の前で、執事や侍女たちがにこやかに微笑んで頭を下げて歓迎してくれた。
「ささ、奥へ。奥様がお待ちです。」
そう言って執事長は、一行の隊長であると判断したらしくランスを見て微笑んだ。フリッツ一行は王都の騎士団の制服を着ているので面識のない者には王子であるフリッツがよもや新人騎士として同行しているとは思いもよらないだろう。だが、フリッツの記憶が確かならば、執事長はフリッツのことを知っているはずだった。
最後におばあさまに会ったのは、おばあさまがこちらでお住まいになると言い出されて王城を出られた際に見送った時だから、十数年前か? その時に会った時、私は子供だったがこの者たちは既に大人だろうに、覚えていないのだろうか。成長したとはいえそんなに顔が変わるのか?
態度に違和感がするけれど、かといって名前を憶えている訳でもないフリッツは黙って新人騎士フリッツ・レオンに徹することにした。自分の身分がバレると彼らの中での優先順位がフリッツに移り、エドガーの養生がおろそかになってしまっても困る。
離宮の内部は古い建物ながらも経年による欠損やひびなどといった劣化もなく、床も壁も天井も建築材は一級品が使われているのだとよく判った。丁寧に掃除され、いたるところに緑の多い花瓶が置かれている清潔な印象の玄関ホールを正面の階段を横切って応接室に向かう。廊下にも大きな花瓶に花が活けられていて、空気にどこか甘くて清涼感のある香りが混じっていた。
応接室にはフリッツの記憶の中の顔かたちを数年だけ年を取らせたような姿の祖母と、見慣れない女性がいた。黄茶色い瞳に青灰色の髪の深い緑色のゆったりとしたドレスのシャキッと背筋を伸ばした老婦人は年を取っていても美人で、どこかで見たことがある気がするけれどフリッツには誰なのか思い出せなかった。
「奥様、」と、ランスと話をしていた執事長が数歩前に出て声をかける。「無事に皆さまをお連れしました。」
深い緑色のドレスの見慣れない女性は、フリッツたち一行を見ると、優雅に微笑んだ。
「ようこそ、待ちしておりました。騎士団のお若い皆さんと公国からいらした魔法使いの皆さまですね。はじめまして。わたくしがこの屋敷の主、クリスティーナ・アンゼリカ・リュラーです。サーヴァ、お若い皆さんにお茶の御用意を。公国の魔法使いの皆さんはこの国の言葉があまりお得意ではないとのことですから、オリガ、あなたがお世話を焼いて差し上げなさい。公用語も公国語も話せましたね? お体のお加減のお悪い方にはまず薬湯を差し上げてね。」
「畏まりました。奥様。お部屋の御用意はできております。わたくしがご案内いたします。」
そう言って頭を下げると、侍女服姿のフリッツの祖母クリスティーナと思われる女性はオリガとしてエドガー達を案内して部屋を去ってしまった。
どういうことだ?
何度か瞬きしたフリッツを見ても、カークも誰も何も言わなかった。
「奥様、ではお茶の御用意を。」
「ええ、ありがとう。連絡を頂いてから料理長たちとお食事の御用意をしましたのよ。皆さん、大変でしたでしょう? 何もお召し上がりになっていないではないかしらと思いましたの。」
優美に微笑む自称クリスティーナは執事や侍女たちにお茶の用意をさせ始めた。
※ ※ ※
違和感を感じているのはフリッツだけな様で、何度かお使いで来たことがあると言っていたカークはもとより、ランスやキュリス、ビスターもドレノも自称クリスティーナを「国母様」と呼んで、穏やかな午後の日差しを浴びながら楽しそうに軽食を楽しんでいる。
大きく開けた窓から心地よい風が吹いてくる。庭のどこかから鳥の鳴く声が聞こえる。不自然な圧力で誰かの権利が虐げられているぎこちなさや、この世界が作りものであるかのような気配もない。誰もおかしいと思わないのかと静かに様子を窺いながら、フリッツは黙々と食事をしていた。もっぱら話すのはランスとカークで、話題はクラウザー領での食生活や食材が中心だった。さすがに先ほどまでいた迎賓館での出来事を口にすることはなかった。
質のいいクリーム色のテーブルクロスの上には白く小振りな食器がいくつも並べられていて、薬草園で育てているという薬草を煎じて出した薬湯や飼育している鶏を自家製で燻製にしたというハムを使ったサンドウィッチやサラダ、冷製のスープなどが盛り付けられている。どれも少量で、品数がやたらと多いのでかえって少量で都合がいいと思いながらフリッツは話を聞きながら食べていた。あくまでも新人騎士フリッツ・レオンとして扱われていてカークたちと同じような待遇で、給仕をしてくれている侍女や執事たちから決して特別扱いされることはなかった。
食事をしながら王城へと戻る数日間の滞在の許可とその間の無償の衣食住の提供と対価としての労働力の提供と協力、交代制の警備の参加がランスと自称クリスティーナの間で取り決められた。流れのついでにそれぞれの役割も決まり、ランスとキュリスとビスターは夜勤も含めて警護班に加わることになり、ドレノは侍女の仕事の手伝い、カークとフリッツは滞在期間中の食糧の買い出しと薪割りの役目を振り分けられてしまった。
「新人とは言え騎士が市場に食料を買い出しに行くだなんて、騎士団の団長殿からお小言を頂きそうね、」
自称クリスティーナが困ったように微笑む。祖母のクリスティーナとはまた違う優雅さがあって、フリッツは演技なのだとしたらどういった素性の持ち主なのだろうかと不思議に思う。素でクリスティーナを演じているのなら、昨日今日の演技ではない気がする。
「国母様、ありがたいご配慮、感激です。市井に混じって庶民の生活を観察するのも騎士の立派な職務のうちです。ご心配、ご無用です。」
カークが心底感激した様子で答えている。本当にお前は離宮に使いに来たことがあるのかと尋ねたくなりながら、フリッツは調子を合わせて会釈しておいた。そんなフリッツを見ても、ニヤつくことも意味ありげに微笑むこともなく、自称クリスティーナは「それではお任せいたしますね、」と微笑んでいる。とても演技には見えない。もともと育ちがいい女性なのだろう。
「奥様、公国の皆様方へのお食事が済みました。入浴をご希望されていますので、お支度をさせていただくことになりました。」
オリガと呼ばれていた侍女が静々と自称クリスティーナの傍に近寄って報告していた。
観察していて気が付いたけれど、オリガの白髪のない黒っぽい焦げ茶色の髪や肌理細やかな肌の質感から年の頃はフリッツの母であるクララと同じかそれよりも若い。
私の祖母ならこんなに若いはずがない。彼女も祖母のクリスティーナと同一人物とは思えない。かといって最後に会った記憶の女性に近いのは、自称クリスティーナよりもこのオリガと呼ばれている女性の方が近い。でも、そうなると、見かけの辻褄が合わない。
他の者たちの様子からも、齟齬を感じているのは自分だけだ。やはり、気のせいなのか? 自称クリスティーナが私の『おばあさま』なのか?
家族に感じるような暖かみがまるで感じられないでいるけれど、私が、おかしいのだろうか。
「あの方はとても疲労を溜め込んだ顔つきをされていましたね。薬草風呂のお支度をしてあげて下さい。オリガ、得意でしたね?」
「はい。お任せください。」
にこやかに返事をして部屋を出ていった侍女は何の悲壮感もなくて、もともと侍女であるかのような快活さがあった。皇女であった先代の国王妃が弱みでも握られて無理やり侍女の仕事をさせられている、といった事情があるようには思えない。
根拠がないのに騒ぎ立てるのは無礼だ。かといってどう考えてもクリスティーナを自称する女性はフリッツの祖母とは思えない。
もやもやとした気持ちのまま食事を終えて割り当てられた客室へと戻ったフリッツを見て、カークが「もしかしてお腹いっぱいになったから眠いんですか? 支度しますから、フリッツも先に入浴させてもらってきてはどうです?」と揶揄うように尋ねてきた。割り当てられた部屋はどの部屋も2階の北向きでバルコニーでつながっていて、ランスはペトロスと、キュリスとビスター、フリッツとカーク、ドレノはひとりで使うことになっていた。建物自体は古めかしいけれど調度品は質が良く逸品と言われるようなものばかりで、間取りも広くてふたりで使うには十分な広さがあった。
窓を開けると屋敷の裏手に広がる薬草園や丘陵地に広がる果樹園が見えた。ちなみに、エドガーとイリオスは廊下を挟んだ2階南側の主客室を使っている。
「いや、そうではない。」
お前は、あの人を私の祖母クリスティーナだと本当に思うのか?
「私は見ていただけですから平気ですが、フリッツはあの時、魔力を使われてしまっていますよね? 大丈夫なんですか?」
フリッツが魔力を自分で使わなくても誰かに使われる度にひどい疲労感に襲われているのを知っているカークは、フリッツにソファアを進めながら尋ねてきた。
「ああ、たいしたことはない、」
ふと、火の精霊王リハマの言葉を思い出した。自分の上着やズボンのポケットの中には魔石のような手触りは何もなかった。そういえば、ドレノにはまだ魔石を持たせたままだ。
「それにしても…、クリスティーナ様はいつお会いしても優雅な方ですよね。フリッツのこと、気が付いていらっしゃったみたいでしたね。時々じっと見ていらっしゃいましたね。」
「そうか?」
とてもそうは思えない。もしそうなら、自分がクリスティーナの偽物だとバレたと思っているからだろうと思えた。でも、フリッツが見ていた限り、フリッツを警戒しているような素振りはなかった。
「ビスターが事前に知らせたんですかね?」
「そうは思えないな。」
応援を頼むときにフリッツの話などするのだろうか。したとするなら、いくら騎士団の一員として行動しているとはいえ、フリッツを見たなら無事を喜びそうなものを、と思えてくる。彼女たちは何もしなかったし、身内に対する反応もなかったように思う。
「明日からは私は心を入れ替えて頑張りますからね、フリッツ。名誉挽回をさせてください。」
「そうか。無理はするな。」
「いくらご自分のおばあさまの前だからって王子様に戻ってはいけませんよ? ここには事情を知らない下々の者も働いているんですから。数日の間はフリッツ・レオンとして振る舞って下さい。」
「ああ、そうするつもりだ。」
そう答えたものの、どう考えても自称クリスティーナが自分の祖母には思えなくて、また思考の渦の中に嵌って行ってしまう。フリッツは動くこともせずにソファアに肘をついたままでいた。自称クリスティーナは偽物でオリガが祖母クリスティーナでもないのなら、本物の祖母クリスティーナはどこに消えてしまったのだろう。
皇女付きの女官として一緒にこの国へと渡ってきた侍女たちはどう思っているのだろう。弱みでも握られているか何かの事情でもあって、感情を控えめにフリッツに接しているのか? …どうも違うような気がする。
「私は早速できそうなお手伝いをさせてもらってきますから、フリッツは休憩していてください。明日は明日で忙しいでしょうから。」
荷物を簡単に片付け終えたカークが部屋を出て行ってしまった。
ここへ来た時、結界が張られているとは感じなかった。猫のような何かの髭も反応していない。妖気も感じなければ、魔物もいない。精霊が人に化けているのなら、エドガーはもとよりイリオスやペトロスも察知して反応したはずだ。
おばあさまを探さなくてはいけないな、とフリッツは思う。皇国の先代国王の姉にしてフリッツの祖母であり国王妃クララの母である先代国王妃クリスティーナがいなくなったと世間に知れたら大問題だ。内密に解決しなくてはいけない…。
ソファアのひじ掛けに肘をついて頬杖をついて考えているうちに、フリッツはそのまま眠り込んでしまった。
ありがとうございました




