2 私にできるのは
「あなた、あれが誰なのかも判るの、」
驚いて目を見開いて立ち上がったシャナは、何かを言おうとして口を噤むと、大きな音を立てて天井のドームを揺さぶる竜の姿を一瞥して唇を噛んで、「来て、」とメルの手を引いて階段へと急ぎ足で歩き出した。
「今日はあなたがいるから大丈夫だと思ったのに、」
シャナは口惜しそうに唇を噛んで怒った。シャナの体の周りに、青黒い粒のような卵のようなものが一斉に現れて、ぱっと空中に散った。ふわふわと、空中に漂うように浮いている。
真珠と同じくらいの大きさなのに青黒い卵だと判るのは、中に稚魚がいるのが見えたからだった。あれが朱色なら鮭の卵のイクラかな、とメルはこっそり思った。
「なんです、今の青黒いの、」
「ああ、あれは私の感情の魔力。」
こともなげにシャナは答えて、さっと行く手に広がった空中に漂う青黒い卵を払いのける。
「私の負の感情を体に溜め込まないように外に捨てるようにしているの。怒りは魔力を増幅させるから危険だものね。」
パチン、パチンと小さな卵が割れて、青黒い小さな魚が現れて、群れをなして空中を泳いでどこかに行ってしまう。
「あれは私の魔力の塊でもあるから、メルも食べてみればいいわ。おいしくはないけれど、魔力が体に馴染めば魔力が溜まっていくかも知れないわね、」
もちろんドラドリでのシャナにそんな設定はなかった。クスクスと笑ったシャナの言葉に、メルは目の前を泳いで過ぎていく青黒い小さな魚を目で追って、「考えておきます、」と答えておいた。
シャナは天井に体当たりする音が聞こえなくなると、階段の踊り場で立ち止まった。
「あいつはいつだって私の至福の時間を邪魔するの。あのサロンルームは地上の雰囲気が楽しめて私のお気に入りなのに、」
悔しいのか、シャナは手を握って気持ちを沈めている。
お気に入りの場所なら早々と付き合いの浅い人に打ち明けないだろうに、と不審に思いながら、メルはシャナの顔を見つめていた。
「私のあのサロンを壊そうとするからあいつなんて嫌い。客人のあなたがいたら遠慮するかと思ったのに…、」
だからわざわざメルを着替えさせてお気に入りの場所に案内してくれたんだ…!
納得して、それまでしていきたかった場所なのねとメルは思った。
「でも、あなた、どうしてあれがマルケヴェスだって知ってるの?」
ギュッとメルの手を掴んだシャナの顔つきはさらに険しいものになっていた。
「他にも水竜はたくさんいるわ、どうして?」
「…あの黄色の瞳の水竜は彼しかいないから…、」
マルケヴェスの人間の姿は、白銀髪に黄色の瞳の、少し青みがかった白い肌の背の高く逞しい美丈夫だった。
美しい顔と長い首と、上半身裸で白いズボン姿のマルケヴェスは落ち着いた声優の声の渋さもあって、スチル画は恐ろしく美麗だった。
美人な水の精霊王シャナとマルケヴェスの結婚式のスチル画はたまらなく美しいもので、前世のメルはうっとりと眺めたものだった。
険しくなるシャナの顔を見て、メルは答えてから後悔した。ああ、これは、またゲームの情報だ…。
「彼って、あなた、シンではなくマルケヴェスの関係者なの?」
言い回しを間違えた。また失敗してる!
メルは高速回転で自分の今の身分を考え始めた。
このままではただの子供だと納得してもらえないだろう。知識を怪しまれずにいられて、学生でもないし、酒場の娘でもなくて、何か、竜について知っていても怪しまれないような、まっとうな職業…。
「違います。私はただの竜の調伏師です、」
まだまともな実戦経験も調伏の訓練を受けたこともないけれど、将来的にはそうなりたいから、間違いではない、と思う。
「竜の調伏師?」
意外な回答だったのかシャナは目を丸くして驚き、やがて、「そう、竜の調伏師なの、」と、お腹を抱えて笑い始めた。
「おかしい、おかしいわ、」とひいひい言いながら笑うシャナは笑いすぎて涙を浮かべていて、メルはそんなにおかしなことを言ったのかなあと少し不安になった。
シャナの背を擦っていた侍女は困り顔のメルに「お嬢さまは調伏師が何なのかご存じなのですか、」と尋ねてきた。
「竜を操れるよう馴染ませて…、竜に、人間と生きていく術を仕込んで暴力を調教して押さえつける仕事です、」
メルは言葉を選びながら答えた。大笑いする様子から察するに水の精霊王から反感は買っていないと思っていても、シャナと竜との関係によっては、まだメルはシャナの敵になりそうな気がしていた。
人間よりも長く生きる竜は、ヒト型になれるほどの魔力と知性を持ち、群れで生活できるほどの秩序と理性を持っている。
長く生きていく中で人間と竜とがお互いが理解し合え心を満たせ、共存することで無駄な血が流れないように調停するのがあらゆる調伏師の心得になる。
決して敵対することなく人間と竜の共存を望む竜の調伏師は世界の平和請負業でもあると思えた。
他に祖父のマードックに教えてもらったことと言えば、竜を殺すわけではないということくらいだった。愛して、理解して、尊重して、助け合う。それが理想だった。
「あのシンが、ふふふ、竜の調伏師をお気に入りに思うなんて、ひぃひい、おかしいったら…!」
「シャナ様、何かご存じなのですか、」
シンの秘密でも握っているのだろうか。
メルにとってはシンは謎が多くて、判らないことが多かった。
いつも秘密ばかり持たされている気がしてならない。竜に捕まっていたはずの自分がなぜここにいるのかがそもそも謎だった。
シンが、竜から私を助けてくれたの?
竜と戦おうなんて、そんな価値を私に見出してくれたの?
「あなた、知らないのね、」
侍女たちと顔を見合わせると、きょとんとするメルを見てシャナはまた笑い始めた。ひいひいと、ちょっと失礼だと感じる程にシャナは笑い転げている。
「もう、笑いすぎてお腹が痙攣しそうだわ、メル、と言ったわね。いいわ、気に入りました。あなたを私が守りましょう、」
目をぱちくりすると、メルは「ありがとうございます、」と頭を下げた。自力でここから脱出したいけれど、水の精霊王が味方になってくれるのなら、微かな望みも大きな希望になる気がする。
素直に嬉しそうなメルの様子を観察して、涙を拭うとシャナはコホンと咳ばらいをして笑うのを止めてしまった。
「さて、お茶の邪魔をされてしまったから、歩きながら話しましょうか、」
そう言って、姿勢を正すとシャナはメルを連れて歩き始めた。
「早速だけど、メル、調伏の技を教えてほしいわ。」
「…どうしてですか、」
そんなことをしていたら、家に帰る時間が遅くなる気がする。ここに来るまでにどれだけの時間が過ぎたのかだって判らない。
この先、どれぐらいの時間をかけて技を習得するつもりなのだろう。
「見たでしょう、さっきの、」
天井に体当たりしてくる水竜王マルケヴェスのことだろう。
「あいつ、しつこいの。私が天気のいい日にお茶していると、いつもあんな風なの。曇りの日は湖底には日が差さないからあの場に行かないのだけれど、部屋にずっといるのは気が滅入るのよ。たまに気晴らしに出るとあんなじゃない? ちょっと揶揄ってやりたいのよね。」
ふと、ここにはどうやって来たのだろうとメルは気が付いた。確かドラドリでは、この神殿へは水竜たちの住処である地底湖からの洞窟を抜けて辿り着いたはずだった。
「あの、私、ここへはどうやって来たのですか。聞いても大丈夫ですか?」
不安げにメルが問いかけると、シャナはとびきり楽しそうな顔をしてにっこりと笑った。
「シンが直接ここへ連れてきてくれたのよ。あなたをしばらく匿ってやってほしいって頼まれたわ。あのシンが私に頭を下げたの。」
「それって、すごいことなんですか?」
メルはシンといても、ひどい目にしか合っていない気がする。シンがここへ連れてきてくれたのは助けてくれたのだろうとは思う。だけど、他のやり方はなかったのかなとつい思ってしまう。
前世の記憶や知識を総動員して考えても、この状況がいい状況とは思えなかった。
この水の精霊王の神殿は、各地の地底湖の湖底にある迷路からつながった湖の底にある。ここから地上へと出ようとすると、まずは迷路を脱出して地底湖まで出て、そこから地上へと出られる洞窟を抜けなくてはいけない。
他領に出てしまった場合、月の女神の神殿で討伐宣誓書を書き誓いを立て特別通行許可書を貰ったわけではないメルは、自領から逃亡した脱領者として投獄されて、多額の保釈金を払うか領官もしくはその身内と結婚しない限り自由にはなれない。着のみ着ままで手ぶらなメルに保釈金を払う余裕なんてないし、領官と結婚したとして自領に帰れるのは出産する際の里帰りの間だけだった。
不審そうな顔のメルに、シャナはにっこりと微笑んだ。
「すごいわよ。いつだって自分しか大事じゃないシンが、あなたのために空気の球を作ってまでこの湖の底まで来てくれたの。抱きかかえて空気の玉でやって来るなんて、シンは相当あなたが好きなのだと感心したわ。」
「空気の玉ですか? 息をしたままで、湖面から降りてきたのですか?」
風船のような大きな空気の玉を想像して、メルは目をぱちくりとさせた。それって普通に魔法、だよね?
「そうよ。いくらシンがあいつとあまり仲良くないからって、あいつの住処なんて通るわけないじゃない。それに空気の球は上級魔法だもの。私だってあんまり使いたくないわ。」
シンは、上級魔法が使えるのね…。魔力が強ければ強いほど知性もあって自我がある。シンは行動が突然過ぎて予測できないでいる厄介な相手だ。ますます持って、メルには面倒さが増した気がしていた。
「シャナ様は仲がいいのですか?」
「私は…、」
シャナは一瞬言い淀んで、考える顔つきになって「シンとは仲がいいと思うわ。シンは私に絶対触ろうとしないし、私のことに興味がないもの。初めて会ったのは春の女神のマリ様の神殿だったわ。あの時もシンはひとりだったけど、私に言い寄ったりしなかったわ、」と懐かしんだ。
「それって最近のお出かけですか?」
春の女神さまって伝説の存在で名前ばかりだと思ってたけど、本当にいるんだ、とメルは変に感心してしまう。伝説の春の女神マリは世界を統べる4人の女神のうちの一人で、風の属性を持つ雷竜の伴侶なはずだった。
春の女神の神殿は各領地にあるくらい信仰されていて、ミンクス侯爵領の端の村にも小さな神殿があった気がする。
どういう集まりで出会ったのかよく判らないけれど、会いに行けるような関係な程、女神と精霊王って仲がいいんだ、と意外に思う。
「さあ…、いったいいつのことかしらね、」
相当前っぽいな、とメルは思い、後ろをついて歩く侍女たちを振り返って首を傾げると、侍女たちは「シャナ様は人見知りなのです」、「以前はよく外をお散歩されたりもしたのですが、」と曖昧に微笑む。
「今はお外をお散歩されないのですか、」とメルが尋ねると、侍女たちは不服そうな顔つきになって「人間どもがシャナ様に身勝手な願いをしながら集まってくるので嫌気がさして出歩かなくなってしまわれました」、「シャナ様はお気の毒なのです」と口々に言う。
「身勝手な願い事って何です、」
じいちゃんは4大精霊王の性格を教えてくれたことがあったっけ…。我儘な水の精霊王と博愛主義者の火の精霊王、癒しを生む風の精霊王と変革をもたらす地の精霊王って言ってた気がする。どれも性格と評が逆じゃないの、とメルが尋ねると、どれも同じことなんだよ、とじいちゃんは笑ってた…。
目の前の水の精霊王は我儘な博愛主義者ということなのだろうか。
メルがそれとなく尋ねると、また侍女たちが教えてくれる。
「晴れている日に雨を降らせてほしいと言ったり、雨の日に止ませてほしいと願ったりと、勝手なことばかり申すのです、」
意味が判らなくてメルは少し考えて、「頼む相手を間違えているのですか、」と尋ねてみた。
「もしかして、水の竜王様にお願いするようなことだったりもするのでしょうか?」
侍女たちは小さく頷いた。
「水竜王は水の竜神として自然界の水の流れを司られます。天気といった気候は、シャナ様の采配によるところではないのです。シャナ様は水にまつわるすべての生き物の長です。」
「人間も血という水を蓄えている生き物ですからシャナ様の眷属ともいえる存在になります。シャナ様は眷属のものすべてに優しいお心で臨まれますが、人間の望みで天気を左右するのは勝手が違われるのです。」
シャナの美しい横顔を見つめながら、メルは、確かに困った時には頼む相手の違いを気にせずにやってくれそうな人に頼む気がする、と納得してしまう。シャナは心優しく人が良さそうで、頼りにすればやってくれそうな気配がする。
「私は水の精霊王だもの、それくらいの魔力はあるだろうとは思っているわ。でも…、晴れた場所に雨を降らせるのはやれなくはないことだけど、どこからその雨を持ってくるというの? 他の地で降っている雨を持ってくるにはその距離はどうするの? 何日もかかる大技だわ。その間ずっと飲まず食わずで私は魔力を使って雨を呼ぶのよ、」
シャナは唇を噛んでメルを見た。
「願い事を叶えるには魔力を使うのよ? 出来なくはないからと言って、魔力が使えたら、無力な者に差し出さなくてはいけないとでもいう義務でもあるのかしら。私には私の使い方があるのだと誰も思わないのかしら。民の意見は民の数だけ意見があるわ。長雨を利用して貯水池に水を溜めたい者だっているし、長雨を利用して繁殖する小さな生き物だっているわ。そういう者の声は聞かないでおけとでもいうの? 誰もの意見を平等に聞いていると、何もできなくなってしまう。私が私らしく水の精霊王としてあろうとすると、助けないなんてシャナ様らしくないと人間に言われるでしょう? 助けるって、誰を? 人間を? ねえ、シャナ様らしいって何かしら。」
メルはこの人は見かけ通りに優しい人なのだと思った。声無き生き物の様子を観察して動かないでいることを選んだ水の精霊王を、身勝手な人間が責めたのだろうと思う。
「水を降らせる見返りは何? 何も捧げる物がないから、まさか、誰かを生贄に差し出すっていうの? 幼い子供や女? 貰ってどうするの? 生贄を差し出せなんて私は望まないわ。そんなものいらないから、私に身勝手な願い事をしないでほしいだけなの、」
聞いていてメルは、この人は神様じゃないからこそ、優しいから誰もに手を差し伸べているうちに、身を削ってまで民に尽くすことに疲れてしまったのだろうと思う。
「はじめは本当にささやかな願いだったわ。何日も食べていない子供のために恵みの雨が欲しい、と願う者たちがいたから、池をひとつ潰して雨にして降らせてみたの。それが噂を呼んで、国のあちこちから地上の神殿に人が押し掛けるようになっていったわ。小さき者たちへの癒しとして与えた泉の水も人間が独占してしまって、売り始める者も出て来たわ。」
ゲームの中で登場する水の精霊王の地上の神殿は観光地化されていて、確かに宿屋も酒場もあったし、神殿の隣では基本の回復の水も売られていた。メルはプレイしていくうえで回復の水を神殿傍の売店で大量に購入して神官に魔法で効能を上げさせ、回復の特効薬に変化させて持ち物に持たせていたなあと思い出す。
話を聞いているうちにあの回復薬はもともとは無料の泉の水だったんだわ、と思い至る。
シャナは不機嫌そうな顔でメルを見た。
「雨を止ませるのは容易いことだけど、止めた雨はどこに持っていくの? 他の地域? その間ずっと、私は何も食べられずに移動の術をかけ続けるの? で、見返りは何が貰えるの? いらないものを止めるのだから何も捧げなくていいだろうって、どういう意味なの? たまに外に出ると、そんなことを言う者ばかりが寄ってくるの。だから私はここにいるのよ、メル。水の精霊王だからって特にいいことなんてないし、むしろ、あんな竜に絡まれたりしていいことなんてないのよ、」
天井に体当たりしていた竜を『絡まれる』と捉えているのねとメルは思ったけれど黙っておいた。竜はたいてい群れで生活をしていて、王と肩書がつくような竜は必ず何匹かの護衛に囲まれて行動している。
雄の竜が一匹で行動している時は求愛行動をとっている時だけだって、じいちゃんは言ってた気がするんだけどなあ…。
「調伏の動きを教えて。メル、できるんでしょう?」
「シャナ様ほどの方に教えられるほどでは…、」
まだ詠唱を正確に知らないと言えないメルは、曖昧なことを言って誤魔化して微笑んだ。
「あなた、練習くらいするんでしょう。その動きを見せてくれるだけでいいわ。私が知りたいのは、どういう魔法陣を描くかなの。」
シャナは目的の部屋に辿り着いたのか、ドアの前に立ち止まると、侍女たちに部屋のドアを開けさせる。
この大広間はおそらく舞踏会に使うためのもので、こんな広い部屋を使って舞う練習をするのならシャナは本気なのだろう。
「さあ、メル、私のために舞ってちょうだい。対価は…、あなたの望みを可能な限り叶えてあげましょう。」
対価って、ご褒美だよね。メルはごくりと息をのんだ。
シャナがちらりと見ると、侍女たちがメルの傍にやってきて、メルの肩や腕や手を掴んだ。5人にぐるりと囲まれて、メルは警戒して身構えてしまう。
「大丈夫ですよ、」
囁く声は優しくて、ほっと肩の力が取れる。
触れられた瞬間、暖かいような優しい何かを感じていた。
ふわり、と体が軽くなる気がした。視界がはっきりして、体の芯から浮足立ってくる錯覚がした。
「この者たちが体の痛みやしびれ、疲れを取ってくれたでしょ。メル、これなら、舞えるでしょう?」
シャナがニヤッと笑って、メルを見ていた。
シンがいつ来るのか当てにならない以上、メルは自力でここから無事に脱出したかった。出来れば、自領につながる出口から外の世界へと帰りたい。
メルは調伏はまだできないのだと言い逃れが出来なくなってきたなあとこっそり心の中で呟いて、顎を引いて、姿勢を正した。
「判りました。舞います。」
覚悟を決めて、メルははっきりと気持ちを口にした。
ありがとうございました




