9 前へ進み続ける
「これはいったい…?」
プルメリアの香りがする。
暗い夜空のような天井を見上げると、月なんて見えなかった。地平線を囲む暗くて深い森と、どこかから聞こえてくる鳥の声…。濃い、新鮮な空気に満ちた世界には、血の匂いなどしなかった。
ここは、はじまりの村・エルスの月の女神さまの神殿だわ。
私は、ここに、冒険者として勇者の誓いを立てるためにやってきた…?
左手を翳すと、まだ指輪などなかった。
背中も熱くない。
服も、今朝イリヤおばあちゃんに出してもらった生成りのブラウスに藍色のズボン…、私の服だ。傭兵の制服じゃない。
目の前に立っているのはファーシィではなくて、女神官ただ一人だった。
「気が付きましたか? あなたは帰ってきたのですよ?」
<これはいったい、どうしたと言うのですか。>
メルと目を合わせると、女神官は微笑んだ。
「夢、のようなものです。あなたはいくつかある分岐点から続いていく未来の、そうですね、私が介入したことによって選ばれた、これから起こるだろう未来の可能性を体験してきたのです。」
<どういうことですか?>
あんなに痛くて、あんなに死を感じたあの世界が、夢? 疑似世界とでも言うの?
「月の女神エリーナ様は運命を司る女神でもあります。冒険者などという、危険で安全ではない職業を民にお許しになった時、エリーナ様はお考えになりました。『世の中の仕組みを知らずに勇者となっても、何が正義かと迷い、正義とは何かを見誤ったまま蛮行を繰り返すなら、民に望まれた勇者とは言えないでしょう。素質によっては冒険者にならない人生の方が幸せかもしれません。言葉で伝えるよりも愛は行動で示した方が思いが伝わるのと同じように、勇者の誓いをすることでやってくる未来の可能性を伝えるには一度体験したほうが判りやすいでしょう』と。」
<それが、あの世界なのですか?>
「ええ。あれはいくつかあるあなたの未来の世界のひとつで、あなたにとっていちばん優しく愛される世界です。いくつかある未来のどの未来を選んでも、同じ人物と関わるでしょう。でもその関わり方には差があって、いくつも分岐した未来の可能性の中で一番あなたを愛して労わってくれる世界が先ほどあなたが体験した世界です。冒険者の見る一周目の未来、と呼んでいます。」
あれは…、私、死にかけたのではないのかな。もしかしたら死ぬギリギリだったのかもしれない。
寒いと思ったのを思い出して、メルは身震いして、あれがいちばん優しい世界なんて嘘だ、と思った。
<私は、剣術舞踏家として、冒険者になっていました。>
本当なら、踊り子見習いで、本当なら、踊り子でも持て余す職位かもしれないのに、私はいきなり剣術舞踏家になった。
「あなたにはいくつか加護を見つけたので、本来よりも高い技能の職位を用意したのですよ?」
本来よりも高い技能…。
<あれは、加護があったからこその評価なのですか?>
「ええ。あなたを精霊王が高く評価したから加護を与えたのでしょう? 気の迷いで加護など与えたりはしないでしょう? それ相当の価値があると思ったから加護を与えられたのでしょう?」
<私を通して、精霊王の審美眼をお確かめになった、ということでしょうか。>
「そうですね。そうとも言えるでしょう。」
高い評価は嬉しいけれど、それは、私への評価じゃない。シャナ様やリハマたちへの迎合だわ。
<つまり、本当の私ではない幻影の私を評価して職位をお与えくださったのですか。>
私はあの未来の中で、本当の自分よりも高い評価を基準に自分を作って見栄を張って、よりよく見せたくて見栄のために無理をして、努力をして差を埋めようともがいた。
「あなたが先ほど言っていたような見習いという区分がありませんからね。その職業には不満があるのですね。」
メルはこくんと頷いた。
剣術舞踏家を名乗るのは無理だったと認めるのは悔しいけれど、あんな無様な状態で名乗るのは無謀だと思えていた。
思案顔の女神官を見ながら、メルは考える。先ほど、って言ってた、この人。先ほどが当てはまる時間って、何になりたいのか希望を聞かれた時のこと?
もしかして、私の中で十日間ほどの時間を感じていたけれど、周りの人にはそれほど時間が経過していないのかもしれない。
あれは本当につかの間の夢? 一瞬の出来事だったの…?
とても生々しくて、とても、痛かったのに?
「その職種よりも高いものを用意する訳にはいきませんが、階級を下げることならできます。冒険者としての誓いを反故にすることも可能です。どうしますか?」
ごくり、と唾を飲んだ。
選択を間違えてはいけない。
踊り子見習いという職位で旅に出るのは危険だと、あの世界での体験でよく判った。魔物を倒す武器を持たないと、たちまち殺されてしまう気がする。
でも、実力の伴わない高い職位も厳しいものだと理解できた。
あの世界が一番優しい未来なら、現実にやってくる未来はもっと厳しい世界だと推測できる。組む相手によってはもっと厳しく剣術舞踏家としての能力や技術を要求してくると思える。
奥様が優しかったから、レーマンたちが見守ってくれたから、私はルース伯父さんからの預かりものとして大切に扱ってもらっていただけなんだわ。怪我をしそうなほど危険な敵には、傭兵仲間が援護してくれたから、かすり傷程度で助かっていた。きっと、そんな優しい世界なんて、本当にはやってこない。
あれが、知らない人との旅だったら、踊り子としてできる技や、剣術舞踏家としてできる技をもっともっと要求されて、最前線で共に戦って怪我だらけになっていたと思う。
そうならないように、もっともっと努力したら周りの要求にはついて行けるかもしれない。
でも、本音を言えば、実力と評価との差を埋めたくて焦ってばかりになるのだと知ってしまった。このまま剣術舞踏家でいいとは思えない。
<質問があります、いいですか?>
「いいでしょう。何なりと。」
<見習いという職位は、やはりお作りにならないのですか?>
「必要ですか?」
<はい。私は、踊り子見習いにしてほしいと思いました。>
「どうしてですか? 見習いとして旅に出るのは危険だと説明したと思います。踊り子のではいけませんか?」
女神官は不快そうに眉を顰めた。
<踊り子でも、十分すぎるのです。ここで、踊り子見習いの職位を貰って帰って、速攻でじいちゃんに踊り子になるために必要な舞や詠唱を教えてもらいます。剣の使い方も研ぎ方も。短期間でどこまでやれるか判りませんが、やってみせます。その後で改めて、剣術舞踏家の職位を貰いに来ます。私は実力を伴った職位で、胸を張って旅に出たいのです。>
瞳を覗き込むように見つめる女神官と目を逸らさないように、メルは見つめ返した。
<我が儘かもしれません。でも、加護を貰ったからこそ、精霊王の加護が貰えるほどの人間なのだと評価がされたいのです。あんまり弱くて、『精霊王様の加護を貰ったのは嘘だ、だってこんなに弱いじゃないか、』なんて、想像でも誰かに言われたくないのです。加護を貰った自分を恥じるような人間にはなりたくないのです。>
スリジエやミモザが願ったような、風の精霊王の神殿に奉納の舞を捧げられるような剣術舞踏家になるには、踊り子から学びたいと、職位が決まっていない今だから言える。
私は、名ばかりの剣術舞踏家になりたくない。
「とても理想的な答えです。いいでしょう。見習いという階級を作りましょう。」
両手を広げて呪文を唱え、空中に大きな本を出現させた女神官は、パラパラとめくると、さらさらと爪の先で文字を書き込んだ。
「これで、各職位に見習いという階級が出現しました。あなたは踊り子見習いになるのだとしたら、3階級も下がることになりますが、よろしいですか?」
指を折って数えてみる。
踊り子見習い、踊り子、剣術舞踏家見習い、剣術舞踏家…。
大丈夫、私はさっさと階級を上げるつもりだから。
メルは胸を張って顔を上げると、「構いません。すぐに取り戻します、」とにっこりと笑った。
後ろめたい気持ちで自分の職業を口にするくらいなら、そんな見栄、ない方がいい。
「そうですか。通行許可証も改めましょうね。あなたの職位は踊り子見習い、と…。」
ほのかに、メルが手にしていた通行許可証が光った。
広げてみると、肩書が踊り子見習いに変わっている。
「あなたの言葉通り、職位を上げに来てくれる日を望みます。期待していますよ、メル。」
<大丈夫です。きっと、すぐに来ますから。>
一度目の未来の世界でやっていたことを改めてやり直すだけだもの。じいちゃんだっているし、シュレイザ叔父さんだっている。大丈夫、私ならやれる。
「楽しみですね。久しぶりに愉快な気持ちになりました。もう、他には質問はありませんか?」
<そうですね…、もし、あげてほしいと願っていたら、どうされていたのですか、>
「もう一度未来を見せてあげます。分岐した未来の中で、一番つらくて苦しい未来を。」
ギョッとした心情が顔に出てしまっていたのか、女神官はメルの顔を見てふふっと微笑んだ。
「月の女神エリーナ様は、私たちの未来を守ってくださいます。大丈夫です、未来を選ぶのはいつだってあなた。辛い未来も優しい未来も、あなたの選択次第で変わっていきます。あなたが努力するのなら、いつだって、優しい未来がやってきます。」
優しい声は、優しく心に響いて染みていく。女神官は、そっと、メルの手に、鉅の指輪を嵌めてくれた。
「汝、親を泣かすなかれ、子を泣かすなかれ、神に背くなかれ…。」
メルの瞳を瞬きもせずまっすぐに見つめた女神官の瞳には、メルの心の奥深くまで届いていきそうなほど強い光が宿っている。
「冒険者の旅はあなたを育てる時間です。親はあなた、子もあなた。神とは運命です。自分と見つめ合って生きて、勇者とおなりなさい。」
自分探しをするのが冒険者なのか…。とても深いわ…。メルは感激して女神官を見つめていた。
<巷で広まっているような意味ではなかったのですね、>
悪行を働いて親を泣かすな、薬指を失って結婚できなくなって生まれてくるはずの子供を悲しませるな、エリーナ様との約束を破るな、という意味じゃなかったのね。
ずっと、メルはそういうものだと聞かされていた。誰かの評価の中で作られた冒険者の虚像を大切にして、自分自身も同じように振る舞って、冒険者であることを意識していたつもりだった。
「それもあっていますよ?」
女神官は楽しそうに微笑んだ。
「もうお判りですね。勇者の役割も、冒険者として生きる意味も。」
小さく頷いて、考える。私は、一周目の未来で幸せだった。冒険者なのにぬるま湯に浸るような生活をしていた。
「結構です。それにしても…、加護や祝福を持つ者の職業の選択は、現実の実力に近しい方が良さそうですね。確かに、あなたのように評価を低くしてほしいと願う者はたいてい加護か祝福を既に持つ者たちでした。この先も職業の選択の見直しを希望を口にする者が増えていくのなら心外です。最初に行う私の評価が間違っていることになってしまいます。」
間違っている、というより、高く評価しすぎなのでは?
「見習いという職位もできたことですから、実力と同等のレベルかほんの少し下なくらいな方が良さそうですね。他の冒険者たちも条件を同じにして今までよりも低めの職位を与えることにしましょう。本当に実力があるものなら、あなたが言うように、すぐに職位を上げるために来てくれるでしょうから。」
<今まで、どうして、加護や祝福を受けた者には、甘めに過大評価して職業をお与えになっていたのですか?>
「どうしてって…、普通の者よりも死ににくいでしょう? 例え、普通の人間なら死んでしまうほど過酷な未来でも、加護や祝福を受けてさえいれば守りは頑丈ですから。現にあなたも死ななかった。」
もしかしてシュレイザ叔父さんも祝福か加護を受けていて高めに評価を受けていて、一周目の未来で死にかけたのだろうか。だから、見かけを変えて、体を鍛えているのかな。
<加護を受けようと受けていなかろうと、無理に高い職業を与えて、他の者なら死んでしまうかもしれない未来を体験させるのは、酷だと思います。>
「それを試練というのです。冒険者にふさわしい素質を図るための試験なのだと思いませんか?」
あれが、試練? あれが、試験?
<私は、死なないと試験が終わらなかった、ということでしょうか?>
「そうかもしれませんね。一周目の未来が終わるのは、月の女神さまの神殿を訪れるか死ぬことが必須条件ですから。たいていの冒険者は職位を変更したいと月の女神さまの神殿を訪れるので、その時点で一周目の優しい愛に満ちた未来は終わります。」
<私は、剣術舞踏家となった以上、上の階級の職位を目指すまでに今いる職業の技能を満たすために当分の間、月の女神の神殿へと向かう理由がありませんでした。そうすると、もしかすると、しばらくの間未来は終わらなかった、という可能性だってあるのではありませんか?>
「確かにそうとも言えますね。あなたのように、優しいはずの未来で死にかける者や死んでしまった者は、今までに何人もいたのも事実です。」
<無理を、冒険者に強いていませんか? 高い評価で、実際よりもふたつもみっつも上の職位って…、無茶ですよね? >
加護を受けていれば高く評価をされてしまうのなら、何の能力も持たない人間だって、剣士見習いからではなくいきなり騎士になってしまう、ということだってありうる。
剣術の手解きを受けていない人間がいきなり騎士としての指導や力量を試されるのは、自称してなくても周囲から見ると詐欺に近い。
そんなのは無茶だ。そんなのは、冒険者として勇者として、困っている誰かの助けになりたいという志を潰しにかかっているようなものだわ。
メルの思いを聞いてくれる気になったのか、女神官は「そうですね。それもそうかもしれません、」と何度か頷いた。
「甘い査定をすれば冒険者たちは喜ぶと思ったのですが、そうではないようですね。」
<あまり、嬉しくはないです。死にかけるのって、痛いし苦しいのですから。何度も経験したくないですよ。>
あの痛みは、どう言えば伝わるのだろう。
「そうですか。加護を受けていてもそう思うのですね。」
<はい。それとこれとは別の話だと思います。>
どうか、私の後に勇者になりたい者が、こんな苦しい未来を体験しなくていいことになりますように。まっすぐに女神官を見つめて、メルはそっと願う。
「あなたが加護を沢山頂いている理由が分かった気がします。ああ、決してお世辞ではありませんよ? 」
<ありがとうございます。>
社交辞令なのだろうなとメルは思った。
「学ぶことが多くありました。よりよいあり方となるように、私も進化し続ける必要があるようです。」
すっと、女神官は闇に向かって指を差した。
「この先へとお行きなさい。見えてくるドアを開けば、あなたにとっては2周目の未来があなたの人生に重なり始めます。あのドアを開ければ、あなたは冒険者として世界が始まるのです。」
背中を押されるように歩きだしたメルは、見えてきたドアから外へ出た。
明るい日差しの中、シュレイザとレイラが神殿の前の広場に待ってくれていた。
駆け寄ろうとした矢先に、「よお!」とナチョがメルの背中を叩いてニカっと笑った。
ありがとうございました




