3 契約を交わす
ドアを開けると眩しいばかりの光で満ちた7月の空が広がっていて、呼び込みをする商人の声や冒険者たちの話し声や馬車の行き交う音とで、情報が溢れている。メルは思わず、刺激の多さに面喰って息を飲んだ。
光に誘われるように歩き続けて神殿の前の広場を抜けると、立ち止まる。
眩しい。
今は昼間? 夜じゃないの? さっきまで真夜中だった気がするわ。
振り返ってみても、神殿は神殿なままで、どこかの森の奥でも夜でもない。
「メル、」
名を呼ばれて顔を向けると、レイラとシュレイザが近寄って来るのが見えた。
「ぼんやりとしちゃって、何があったのです? 話せるかしら?」
レイラが腕を掴んで、メルの顔を覗き込んでくる。
私、もしかして雰囲気に呑まれちゃってた?
頭を振って否定して、メルは気持ちを切り替える。
<何もないよ、ちゃんと冒険者登録して、勇者に近付けたと思う。>
「女神さまでも言葉は直せなかったのね、」
そりゃそうだ、呪い返しをしてもらいに行ったわけじゃないんだから。メルは心の中で呟いて、シュレイザを見上げた。黙ってメルを観察しているシュレイザは、メルがどんな職業を選んだのか気になるのだろう。
「メル、とりあえずククルールへ帰りましょうか。ここにいても通行の邪魔だわ、」
神殿には絶えることなく冒険者たちがやってきて列をなしている。メルの様子を窺う好奇の目も、感じる。
<わかった、>と答えて歩き出したメルは、すっかりナチョのことを忘れてしまっていた。
※ ※ ※
ククルールの街に戻ってきて検問所で門番たちに通行許可証を見せると、彼らはメルを見て何度も頷いて微笑んでくれた。
「次からはもう見せなくてもいいぞ。今度からはその指輪を見せてくれるだけでいい。冒険者だと一目で判る。」
「女の子が1人で旅をするのは危険だから、早く仲間を見つけた方がいいだろう。『白波』のディナさんなら頼りになるだろうしな。」
まるでゲームでの会話みたいなやり取りね。
不思議な既視感を感じて胸をときめかせながら、メルはぺこりとお辞儀した。
門番や騎士たちに手を振って別れると、レイラとシュレイザとともに、メルはククルールの街の中へと足を踏み入れた。
「よかったわね、メル。ちゃんと冒険者になれて。それにしても、剣術舞踏家だなんて、評価が高すぎる気がしますわ。」
もう何度目かのレイラの感想には聞き飽きていたし、返す言葉も思いつかなくなっていた。
決まってしまったことを言われても仕方ないんだけどな、と思えてきて、反応に困ってしまう。
<そんなことを言われても、そう評価してもらったから、頑張るしかないよ。>
「シュレイザさん、どう思いますか?」
その質問も何回目だろう。決まったことだ、とまた云わせたいのかな。
メルの顔を見て無言のままシュレイザは目を細めると、先に行ってしまった。
「あ、待って、シュレイザさん。メル、ごめんね。通訳がいなくなっちゃったから、なんとなくでお話しをしましょうか。」
残念そうには見えない笑顔で、レイラはメルの腕に自分の腕を絡ませて、体を近付けてきた。
<歩きにくいです。困ります。>
「ねえ、メル。あなたに話があって、私は今日会いに来たの。やっと二人になれたわ。」
急に砕けた物言いに変わった囁くような声はとても親密な甘さを含んでいて、もしかすると思っている以上に親しい関係だったのだろうなと思った。レイラの囁きは先を行くシュレイザにはとても聞こえないだろう。歩く速さもゆっくりになる。
「昨日から私の屋敷に、ジルベスター領から来た商団がお泊りになっているわ。その隊の団長さんはとてもお綺麗な女の人なんだけど、」
多分それはローザのことだ。メルは知っている、と伝えたくて、何度か頷く。
「メルを連れて行きたいってご所望なの。我がジルベスター伯領には由緒ある風の精霊王の神殿があるし、いい退魔師に伝手があると仰ってるの。ほら、メル、言葉がこんなでしょう? 退魔師に呪いを解いてもらえばいいのではないかしらって教えて下さったの。」
私を庇ってくれただけでなく私のために動いてもくださるんだ、と思うと感激してしまう。メルは話の続きが気になって、促すように小さく頷いて見せる。
「お父さまは賛成しているけれど、お母さまが、ディナ叔母様やマードックさんたちは、やっと帰ってきたメルを手放さないんじゃないかって、言ってたのよね、」
状況が状況なだけに、じいちゃんなら行っておいでって言いそうだけどな…。
「シュレイザさんには悪いけど、このまま私の屋敷に来てほしいの。あなたを連れてくるって言って家を飛び出してから、ずいぶん時間がかかってしまったの。ね、メル、いいでしょう?」
ローザやコルザたちの暖かい笑顔を思い浮かべて、メルはつい頷いていた。母さんにはあとで言えばいいかな、と思ったのは言うまでもない。
「よかった! じゃあ、このまま私の屋敷まで行きましょうね、メル!」
嬉しそうなレイラに腕を取られて向かった先は街で一番だと思われるような豪邸で、ここもやっぱり覚えていないな、と思いながらメルは敷地内に足を踏み入れた。
体に、微かに衝撃が走る。
感電したかのような刺激が足から這い上がるように駆け抜けた。
<な、なに?>
「あ、メル、もしかして冒険者になったからかしら? ごめんなさいね。うちは商売柄魔力に反応するように結界をいくつも重ねているのよ。」
門番たちと話をしていたレイラは、愉快そうにメルを見た。
私自身は魔力を持ってないけれど、もしかして妖気に反応したのかな。メルは黙って誤魔化した。冒険者になったから引っかかったのだと思われている方が都合がいい。
「メル、とっても可愛いわ。髪の毛が逆毛だってしまったのね、」
静電気を帯びているかのように立ち上がってしまった髪の毛を優しく手で撫でつけてくれたレイラは、「ああ、心配だわ。やっぱり私も一緒に旅に出ようかしら、」と真顔になった。
※ ※ ※
レイラに連れられて入った屋敷の客間には、ローザ達親子と家庭教師のコルザ、見た記憶のない紳士と婦人が楽しそうに談笑していた。
「お父さま、お母さま、遅れました。メルを連れてまいりましたの、」
立ったまま挨拶するレイラに倣ってメルも挨拶をする。昨日の今日の再会なのに、懐かしい人に出会ったかのように胸が暖かくなってくる。
「レイラ、よく連れてこれたね。ディナのことだから渋っているだろうと思っていたよ。遅くなるだろうともわかっていたから心配ないよ。」
優しい話し方で穏やかな笑みを浮かべて微笑む紳士はレイラによく似た顔立ちで、若い頃はさぞやモテただろうと思われる。そこそこ暑いのに仕立てのいいシャツを袖を巻くることなく着ているこの紳士は、会話の雰囲気からレイラの父であるルース伯父だと察しを付けた。なんとなくだけれどメルの母親ディナに似てもいた。隣にいる華やかな笑顔の婦人は妻なのだろう。だけど、こちらも、メルにはさっぱり記憶がなかった。
「メル、久しぶりだね。ちょうど君の武勇伝をローザ様から伺っていたところなんだ。元気そうで何よりだ。」
「お父さま、メルはお話の通り、言葉が通じませんでしたわ。」
「ルース様、私たちの商団には言葉を理解できる者がおります。剣術舞踏家がいてくれれば心強く思います。メルさんと一緒に旅ができればどんなに頼もしいことでしょう!」
「ローザ様、メルは先ほど月の女神さまの神殿で冒険者登録を済ませてまいりました。剣術舞踏家の資格で通行許可証もいただいています。」
「まあ! それはとても素敵ですわ。」
嬉しそうに微笑むスリジエとミモザがローザの顔をニコニコと見上げている。
「そうかい。それは何よりだったね、メル。差し出がましいようだけれど、ローザ様たちと一緒に旅に出られるのなら是非にそうしなさいと私は思うよ。言葉が通じないまま孤独に生きていくのは悲しいことだからね。」
「ディナ叔母様もおかわいそうでしたわ。」
「あなた、私たちのレイラがそんな目にあったら悲しくて胸が張り裂けてしまいそうですわ。ローザ様の御厚意に甘えた方がよろしいのではなくて?」
「そうです、それがいいですわ、お父さま、お母さま。ローザ様、私の可愛い妹分のメルを、どうか旅のお供に加えてやってくださいませ。」
「そうだな、それがいい。ローザ様、私たちの可愛い姪っ子を、どうか片道だけでも世話にならせてはいただけないだろうか。私からも、よろしく頼みたい。」
ローザの膝に手を置いて顔を見上げる二人の娘たちは、お行儀よく黙ってはいたけれど、目を潤ませておねだりをしている表情をしていた。
「こちらこそ、メルさんには危険なところを救って頂いたのですから、ご恩返しができて本望です。私どもはもちろん歓迎いたします。珍しい剣術舞踏家と旅ができるなんて、子供たちもいい経験となりますわ。」
これは嫌とは言えない雰囲気ね、とメルは思ったけれど、嫌という理由が思いつかなかった。
素直な気持ちで、<よろしくお願いします、>と頭を下げる。
「奥様、よろしくお願いします、と言っています。」
「お母さま、メルがよろしくって!」
「ミモザも聞いたよ、メルが一緒に来てくれるって!」
嬉しそうに声を上げた娘たちを抱きしめて、ローザは笑顔になった。
「まあ! とても素敵ね! よかった。ルース様、感謝します。」
「こちらこそ、ローザ様、感謝の気持ちとして、ジョルダン商会との取引は常に最優先とさせていただきましょう。」
「ルース様、お任せください。道中のご安心をお約束します。我が商会も、こちらのルイスククルール商会を常に最優先とさせていただきますわ。」
にっこりと微笑むローザは、娘二人とコルザを見て、小さく頷いた。
「ご挨拶もさせていただけましたことですし、さっそくと言ってはなんですが、次の街へ向かいたいので、私たちは出発したいと思います。メルさんは着の身着のままで同行してくださって構いません。建前上我が商団の従者の一人という扱いとさせていただきます。ですが、その代わりといってはなんですが、服も宿も、私どもが提供させていただきます。」
破格の待遇に、メルは目を見張った。未成年のメルを大人と同じ扱いをしてくれるだなんて、思ってもいなかった。ローザの表情は嘘を感じなくて、心からそう言ってくれているのだと判って、余計に感激してしまう。
「お引止めしてしまってすみませんでした、ローザ様。とても実りのある時間を過ごさせていただきました。感謝します。」
「ルース様とはこの先もいいお付き合いをさせていただけそうで、夫も喜ぶと思います。」
ニコニコと話をまとめたローザ達は、立ち上がると、メルの元へとやってきた。優雅にお辞儀する夫人は、まっすぐにメルを見て優しく微笑んだ。
「私たちの商団に来てくださってありがとう、メル。言葉が話せなくても、私たちがいるから安心してくださいね。」
「奥様。メルの通訳はお任せください。」
「お母さま、私も先生のお手伝いができます。」
スリジエが嬉しそうに手をあげて誓うと、ミモザも真似をして手を上げた。
「ミモザもです、お母さま。」
「まあ、とってもかわいらしいですわ。メル、よかったですわね。」
レイラが嬉しそうに笑っている。自分のことのように喜んでくれる様子に、本当に私のことを妹分だと思ってくれている人なんだわ、とメルは思った。
消えてしまった記憶は相手が覚えていてくれれば新しく作り直せると思っていたけれど、取り戻したいと心底思った。
もっと、この人と何があったのかを知りたい。
この人との思い出が消えてしまったのは、悲しい。
私は、記憶を取り戻したいと、はっきりと、自覚してしまう。
<ありがとう。ローザ様、旅の仲間に加えて下さって感謝します。>
旅をして、退魔師を見つけて、呪いを解いてもらう。呪いを、返してもらう。絶対、ここに、帰ってくる。
「奥様、不束者ですがよろしくお願いします、と言っています。」
あ、やっぱりそういう感じなんだ。相変わらずのコルザの通訳ぶりに、苦笑してしまう。コルザの通訳はかなりコルザの偏見が入っていると思えてきた。言葉を通訳してもらうには、ある程度信頼関係がないといけないのだと判ってくる。私、この人にもっと私を知ってもらう必要がありそう。
「先生、ありがとうって言ってたよ、メル。」
「そうですね、そうとも言っていましたね。」
スリジエの方が素直に通訳してくれるのかもしれない。もしかして、コルザは本音と建前の世界に生きている人なのかしら。
「お父さま、私もメルと一緒に行こうかしら。なんだか心配ですわ。」
「お前は婚礼の支度があるだろう。朗報を待つことも重要な仕事だと思うよ?」
ふうっと肩を竦めたルースを見て、ローザは微笑んで、お辞儀をした。
「ルース様、次回窺うときは、レイラさまの婚礼に合わせて銀細工をお持ちしましょう。我が商団は公国との取引がありますから、良い品が手に入ります。」
「それは楽しみですな、よかったレイラ。」
「ローザ様、お土産にメルを付けて下さるともっと嬉しいです。」
暗に、帰り道を送ってやってほしいとレイラは希望を口にした。
「そうですわね。それも楽しいですわね。」
否定せずに微笑むと、ローザは優雅にお辞儀した。
「よい宿をありがとうございました。またいつかお会いする日まで、ごきげんよう。」
「おじ様、おば様。レイラ様。ありがとうございました。また来ますね、」
お行儀よくスリジエがお辞儀をすると、慌ててミモザもお辞儀した。
「ミモザ、とっても楽しかったです。また来る時は泊めて下さいね、」
お行儀のいい子供たちの後ろで、コルザも深々とお辞儀していた。
「こちらこそ、何のお構いもしませんで。ローザ様、道中の無事をお祈りします。またお越しいただける時を楽しみに待ちましょう。メル、くれぐれも無理のないように帰ってくるんだぞ。」
<わかりました。気を付けていってきます。>
メルがお辞儀すると、目に涙を溜めていたレイラがそっと指で目尻を拭って、「メル、ちゃんと帰ってくるのですよ、」と微笑んだ。
ありがとうございました




