8 あなたは、私を
夜明けからよく晴れたので、カーテンを閉めずに寝たメルは眩しい朝の光で目を覚ました。誰かが持ってきてくれたのか、昨日はなかったのに、着替えが机の上に置かれている。
眠っている間に持ってきてくれたんだ。私、気が付かないほどぐっすり眠ってたんだわ。見慣れない色合いに心をときめかせながら、ベッドから滑り降りると手に取って広げてみた。
裾に蔓草模様の刺繍の入ったオリーブグリーンの膝下丈のスカートに生成り色の綿の品のいいブラウスは、誰かのお下がりやお古といった着古し感はなかった。当然、メルの持っていた服でもない。襟元には梯子レースでアクセントが付けてあった。ほんのりとしているところが、かわいい。これはおばあちゃんの趣味だわ。母さんじゃないと思う。そっと、レースを撫でてみる。生成り色のブラウスは地の精霊王の神殿でも着ていたわ。つい昨日のことなのに、懐かしく思えてくる。もっとも、今手にしている服の方が洗練されたデザインな印象がする。
胸にあてて袖丈を確かめてみる。ちょうどいい袖丈で、メルのために新調してくれたものにしか思えなかった。
ああ、ホントに火事で本当に全部燃えちゃったんだ。家を建て直したりと物入りだろうに、私のために服まで用意してくれて、私が帰ってくるのを待っていてくれたんだ…。
父さんも兄さんも旅に出てしまっていていない。昨日の夕食の時、領主さまの生誕祭には開店する予定よと母さんは笑っていたけれど、酒場だってまだ再建できていないから収入だってないだろう。働き手のじいちゃんはあの足だ。ここでの生活はきっと、傭兵をして出稼ぎをしているシュレイザ叔父さんの収入だけに頼っている。
自分の家があまり裕福ではない状況にあると冷静に受け止められるだけに、心遣いが嬉しい。新品の服は、なんだかもったいない気がしてきて、なんだか、申し訳なく思えてくる。
ありがとうと伝えようと着替えを椅子の上に置いて、夏の朝だというのに涼気を感じながら階下に降りると、開けっ放しのドアが目に入ってきた。
もう起きて働いているの?
少し驚きながら人の気配を感じて庭へと出てみる。朝日を浴びる中、裏庭ではイリヤが洗濯ものを庭中に張り巡らせた縄にかけて歩いていた。
<おばあちゃん、おはよう、早いね、>
<そんなこともないさ。朝食にするから着替えてきなさい。服、あったでしょう?>
<見たよ、おばあちゃん、すっごくかわいかった。ありがとう、>
<さ、早く着替えてきて見せておくれ、>
<うん。>
上機嫌で家の中に入ったメルは、奥の炊事場で朝食を作っている母のディナの後姿を見て、何ともいない気分になった。
旅支度を済ませたら、私はまた母さんの元を離れる。私が私であるために、退魔師を探すんだわ。
理由を伝えても、母さんは顔を曇らせて黙ってしまうだろう。決していいよって言って送り出してはくれないだろう。
後ろめたい気持ちと、逃げ出したい気分と、でも譲る気はない心持ちとで、素直になれない。
スーッと息を深く吸って、メルらしい在り方を再現してみることにする。
<おはよう、母さん。新しい服、ありがとう。>
何を言っているのか判らないけれど声が聞こえたので振り返った、といった表情のディナは、メルを見て複雑そうに微笑んだ。一晩寝たのにまだ言葉が直らないんだわ、とでも思っていそうだ。
「メル、おはよう。眠れた? 昨日はお義父さまたちと長く話していたのね。何を話していたのか知りたいけれど、とりあえず、着替えておいで?」
<判った。>
何を話していたのか、気になるけれど聞けない、といったところなんだろうなと察して、メルは唇をぎゅっと噤んだ。
聞かれても答えられない。
正直に伝えると驚くのは判ってる。心配かけたくない。
兄さんを助けに行くと言って飛び出して、こんなだもの。いい加減にしなさいって怒られてしまいそう。
それでも、ここを出てやりたいことがある。言葉を取り返したいし、記憶も取り戻したい。何より、精霊王のマントを、ここから遠ざけたい。
唇を噛んで前を向いて、メルは顔を上げた。
着替えるために戻った部屋にはベッドの端に座る人影があって、メルは思わず、その人を睨みつけてしまっていた。
※ ※ ※
<着替えるから出て行って。>
椅子の上に置いてあった着替えをそそくさと胸に抱えて、メルは睨みつけた。
<どうしてここが判ったの?>
旋回するフクロウが、そっと手を伸ばしたシンの元へと帰ってくる。
<どうしてだろうな?>
ふっと微笑んで、シンは足を組んだ。早朝だというのに綺麗に整えられた赤黒い肩にかかる長い髪も、つるりと綺麗な顔も、仕立てのいい暗緑色のジャケットに黒いシャツ、黒いズボンの優雅な佇まいも、寝起きのメルとは違いがあり過ぎる。
教えてくれないなら、ますます出て行ってほしい。
口を尖らせてメルは部屋の隅に行って背を向けた。
ナイトウェア姿を見られるのも嫌だったし、着替える様子を見られるのも嫌だった。
<窓の外を見ていてやるから、そこで着替えればいい。>
<変なことしない?>
<以前もお前が着替えるのに居合わせただろ?>
あの時と今とじゃ、着ているものが違うわ。そう言いかけて、メルは考え直した。
この人は譲歩するつもりなんてないんだわ。だったら私の条件をどこまで受け入れさせるか、だよね。
<こっち向いちゃ、ダメだからね?>
振り返って確認すると、シンと目が合った。
<見ないよね?>
<面倒だな。>
文句を言うなら出て行ってくれればいいのに。メルはシンが顔を背けたのを確認すると、背を向けて下着姿にならないように着替え始めた。
予測できない行動をとるのがシンだけれど、よく考えてみれば、シンに何をしようと思っているのかを確かめたことも聞いたこともない気がしてきた。
私が尋ねないから答えないし、シンが話してくれないから私も尋ねないのだとしたら、私たちの関係はずっとこのままだ。いつまで経っても変態男は変態男なままだろう。
<これから、どうするつもりなの?>
前に私の部屋に突然来た時は、盗賊が来るのだと教えてくれた。一緒に行かなかったけれど、この街の近くまで一緒に帰ってきた。
<また盗賊が来たりするの?>
着替えながら尋ねたメルに、シンは黙ったままで何も教えてはくれない。
突然現れるシンは、地の精霊王ダールと親しそうで、水の精霊王のシャナ様はシンの頼みは断れないと言っていた。でも、精霊ではないような気がする。
いったい、何者なんだろう。
名を呼んだわけでもないのに、朝から何をしに来たのだろう。
袖を肘まで巻くって腕を出して、手櫛で髪を撫でつけて、脱いだナイトウェアを胸で畳み直して片付ける。やっと着替え終わったメルはシンを振り返った。
メルのベッドの上に寝転んで天井を向いているシンは、瞼を閉じている。シンの赤黒い髪が広がっている傍を、フクロウが踏まないようにしてベッドの上を歩き回っている。しかもフクロウは小さく鳴き続けていて、よく聞いていると一定の間隔で時を刻んでいる。
眠っているの? もしかして、待っている間に眠っちゃったの?
人のベッドで?
この人は何をしに来たんだろう。まさか、幻じゃないよね。
愛しい恋人が忍んできてくれるのなら情熱的だと思うけれど、あいにくとメルにはそういう対象はいないし、シンもそういう対象ではない。
近寄っているのに気が付いていないのかな。
息、してるよね、生きているよね?
顔を覗き込んで口元に手を翳すと、手首を掴まれた。怜悧な光が、鮮やかな緑色の瞳に宿る。
<こっちにこい、>
<あっ、>
腕を取られて抱きしめられると、微かにスパイシーなムスクが香る。身なりも、体格も大人なシンは、いったいいくつなんだろう。
<離してほしいし、朝から暑苦しい。>
子供の私を揶揄うのは、そろそろやめてほしい。
<思ったよりもここは呪縛がひどい。>
<ここには何もないけど?>
呪縛というからには、何かの術具でもあるのかな。でも、メルには何も感じられなかったし、何もおかしなものを探し出せなかった。
<しかも、ここにはいくつか耳がある。>
<耳?>
どういう意味だろう。
<他の部屋には結界が張ってある。この部屋のは剥がれているようだな。>
<シンが剥がしたのではなくて?>
<違うな、>
頬をメルの頭にこすりつけてきたシンは、うっすらと笑みを作った。
じゃあ、誰なんだろう。
ここには何か、重要なものがあるのかしら、と言いかけて、まさかね、と自問する。重要なのは、もしかして、精霊王のマント…?
<何か知ってるの?>
<いいや。だが、お前はここにいて窮屈じゃないのか、>
ふるふると首を振って、メルはシンの瞳を見つめた。結界が張ってあるなんて知らなかった。知っていても、窮屈を感じたりはしないと思う。
<私と一緒に来い。もう用事は済んだだろう?>
<行かない。用事は沢山あるもの、>
まずは呪いを解いてもらって、呪い返しをしてもらうために、あの街に行って退魔師を見つけなくてはいけない。その為には冒険者になって旅に出る必要がある。旅に出るには資金がいるし、依頼するにも資金がいる。前世でゲームをプレイして培ったドラドリの知識を駆使して魔物を退治して、お金を稼いでいくしかない。
命を奪うのだと思わずに、生きるために必要な手段だと割り切って、冒険者として旅に出る用事がある。
<どんな?>
<言えない。>
誰かに呪われているなんて、言いたくない。
呪いを解くために旅に出るのだと言えない。とても大事な、秘密だ。
シンは私が呪いを受けているのだと知ったらどうするだろう。
…何もしないで、大変だな、と言って笑うだけな気がしてきた。
腕に捕まったままのメルの背中を撫でているシンに無性に腹が立ってきた。
<そろそろ離してほしい、大きな声を出すわよ?>
<もう少しこのままでいたかったが、残念だな。>
<全然、残念じゃないわ。>
抱き寄せる腕が離れていく気配がして、メルは起き上がった。
シンから離れるとベッドの縁に背を向けて座った。乱れた髪を手で撫でて直していると、シンも起き上がって、隣に並んで座った。
シンにはきっと判らない。
私がどんなに緊張しているのかなんて、きっと、判らない。
魔物とはいえ生きている命を奪うのだと思うと戦うのを躊躇ってしまうけれど、私にはこの方法しか残っていない。成人していない私が確実にお金を稼ぐ方法が思いつかない。
誰かに頼めばいつかどうにかなるとか、やりたくないとか言える甘い余裕はどこにもない。
頼りになる父さんはいないし、兄さんもいない。じいちゃんは無理だし、シュレイザ叔父さんだって駄目だ。アオに頼むなんてもってのほかだ。
女だからって親切な誰かが助けてくれるのを期待して頼って、待ってばかりな間に記憶まで抜かれてしまったら、私は私ではなくなってしまう。少しずつでも考え方を変えて魔物を倒してお金を貯めて、自分自身で自分を助けるしか、他に手段がない。
一人で旅に出なければいけない恐怖も、魔物をお金に変えるためと割り切って戦っていく恐怖も、私だけのものだ。誰も、分かち合ってなんか、くれない。
<そうか? 私はとても名残惜しい。>
足を組んで目を細めた表情は、地の精霊王の神殿でドレスを着させてもらった時の私を見ていた表情に似ていた。
この人は、名を呼べば来てくれる、魔法が使える不思議な人だ。
いつも私の危機には傍にいてくれる気がする。
そうだわ、シンは魔法が使える。風を花弁にしたりして、ゲームの中では出てこなかったような、役に立つのかどうか怪しいような訳のわからない魔法を使っている。
突然現れたりするのは瞬間移動の魔法なのだとしたら、かなり高度な魔法も使えることになる。
もしかすると、私の受けている呪いを解いてくれるかもしれない。
だけど、必ず見返りを要求してくるだろうってことは、経験から知っている。秘密を共有させられたこともあったっけ。
あと腐れなくお金を要求してくる退魔師の方がマシかもしれないと、一瞬思ってしまった。
お金で解決できない見返りは、突拍子もない意外なものだろうと、身構えてしまう。
<ねえ、私の髪の毛は、何に使ったの?>
あなたは、魔物じゃないのよね?
囁くような声で、可能性を言葉にしてみる。
シンに、私の髪の毛を確かにあげた。
闇の眷属は人間の女の髪を使って術を練ると聞いたことがあったからあの時はあげてしまったけれど、もしかして、人形を作っていたりするの?
<なにも使っていないが、どうしたんだ?>
面白そうに笑みを浮かべてメルを見ているシンは、状況を楽しんでいるように思えた。
<捨てたの?>
持っていてほしいとは思わないけれど、捨ててしまったのなら、それでいいとも思えた。
人形を作ったのはシンではないのだと思えるから、その方がいいかもしれない。
<いいや?>
捨てないの?
何も使わないのに、捨てないの?
じっと見つめて見ても、シンは言い訳ひとつしない。
<…私と一緒に旅に出てくれる?>
私に、一緒に来いと言ってくれるのは、あなたぐらいしかいないのかもしれない。
少しだけ期待して、少しだけ、近付いてみたくなる。
そうね、このままどこか遠くへ、私を呪う誰かに捕まってしまうその日まで、あなたと逃げてもいいかもしれない。
<どうしたんだ? いったい、>
信じてないのかしら。
メルは目を細めて自分を見ているシンの目を見つめて、次の言葉を待ってみた。
この人は、私に悪意を向けてはこない。一緒に行ってくれるというのなら、シンの言うどこかへ一緒に行ってもいいかもしれないと思った。
呪いを解いてもらって、その見返りに、一緒に行ってもいい。
言葉が戻ったのなら母さんにきちんと説明できるし、じいちゃんにこれ以上心配をかけなくて済むと思えた。少しくらいシンと出かけたって、また戻ってこればいい。
呪いが解けないなら、呪いを解く方法を見つけ出すのを前提として、見返りとして、一緒に行ってもいい。
投げやりかもしれないけれど、一緒に逃げてもいいわと、思えてくる。助けてくれるような人だから、ひどい扱いはされないだろうと期待してしまう。
どっちにしても、呪いを解くために退魔師を探さなくてはいけないのだから、ここではないどこかなら、歓迎だ。
一緒に行ってくれないと答えるのなら、自分の宿命からは逃げられないのだと諦めよう。
やれるだけの努力をして、這いつくばってでも、前に進んでいこう。
見返りなんか差し出せない。時間がかかっても自力で旅をするし、あなたを頼ったりはしない。
いくら待っても、シンはメルの様子を窺っているばかりだった。
ああ、答えは、ないんだ。
期待していたのになと思うと、つい、笑ってしまった。
そうだよね、シンは、一緒に来いとは言ったけれど、一緒に来てほしいとは言わなかったわ。来いと命令するのと、来てほしいと懇願するのとでは、私の置かれる立場は変わってくる。
この人は、自分の希望で私を連れて行こうとしていて、この人の望んだ旅の果てには私が望んでいるかどうかなんて関係ない未来が待っているんだわ。そこにはきっと、この人が思い描いた、聞き分けのいいメルが、いるんだわ。
私は私のままで、私の望んだ未来にいたい。
<忘れて。>
シンは目を見開いて、メルを見ていた。
<もういいの、気の迷いだわ。>
メルは立ち上がり背を向けるとそのまま部屋を出た。
甘えちゃダメだ、メル。幸い私にはこの世界の知識と記憶がある。大丈夫、ひとりでも、やっていける。
危うく、誇りも無くしてしまうところだった。
頬を両手で叩いて気合を入れて、メルは背筋を伸ばして歩き始めた。
ありがとうございました




