4 見知らぬ、街並み
涙を拭いながら微笑むディナと手をつないで、纏わりつくようにわあわあと興奮して話すアオと、見守る叔父のシュレイザ、そっと後ろからついてくるティヒとの存在に感謝しながら、メルは祖父のマードックの家へと向かって歩いた。久しぶりに見るディナとアオはあまり変わらない気がしたけれど、叔父のシュレイザは、顎鬚と口髭を生やして随分筋肉質な毛むくじゃらになっていて、街の銀行家から森の支配人に雰囲気を変えてしまっていた。見かけで年齢が判断しにくい風貌だ。
夕暮れ時の賑わいの街並みは、住んでいたはずの街の幼い頃から見慣れていた景色なはずなのに記憶が所々曖昧で、いくつかの建物に纏わる記憶が抜けてしまっていた。同じ街なはずなのに違和感ばかりする。しかも、火事の影響で建て替え工事があちこちで行われていて、知っている建物の方が少ない印象すらする。
ここは本当に現実なのかしら。まだ夢の途中で、本当の私は地の精霊王の神殿の客室に眠っていたりしない? 母さんがいるけど、本当に、本物の母さんなのかな。歩けば歩くほど迷路が深くなっていくようで、メルは不思議な気がしてならなかった。
明かりが灯った店の軒先には、夕食の買い物をする人々でごった返していた。
この街で最後に見た光景は火事での喧騒と怒号と、ワイバーンの奇声だったっけ。少し懐かしく思い出しながら、大通りをキョロキョロと見回しながら歩いていると、ディナは優しく建物や店の名前を教えてくれた。
「あれは、この前できた香辛料を扱うお店なのよ、あっちは、火事で焼けちゃったキトッドさんのお店が移転してきたの、」
「姉ちゃんがいない間に、引っ越したり引っ越してきたりもたくさんあったんだ、」
「お隣の小間物屋のノックスさん覚えてる?」
屋根を伝って庭から逃げた夜を思い出して、メルは小さく頷いた。気難しい、お隣のおじさんだ。
「あの人、田舎に帰っちゃったのよ。こんな危険な街には住んでいられないって。」
肩を竦めたディナを見て、アオが大人ぶって話した。
「最近はどこの街でも魔物が襲うようになったから、大きな街にいた方が騎士団や自警団もあるし安全だと思うな。だけど、あのおじさんは、そう思わなかったみたいだよ。田舎なら安心して小間物が作れるって、最後まで言ってたから。」
通りの向こうから建築中の建物を指を差して、ディナは小さく微笑んだ。指の先には灯りのない一角があってどこの建物も作っている最中な様子で、今日の工程を終了したのか、人がいる気配がなかった。
「父さんの酒場の『白波』も建て替え工事中なの、メル。もうじき完成する予定だけれど、それまでは、私たちはお義父さまのお家に間借りして暮らしているのよ、」
「住む家、焼けちゃったもんな。みーんな焼けちゃって、みーんなゴミになっちゃった。全部捨てたんだぜ、姉ちゃん。」
明るく言うアオの声に、メルは言葉を無くした。
あの夜、沢山の家が焼けて、私は、その後を知らない。ゲームの名前のある町人役である母さんは必ず生きているとしか考えていなかった。火事の後片付けも、家族がどうなったかを、私は知らなかった…。
あの夜からずっと、私は家に帰ることしか頭になくて、カイル兄さんが精霊王のマントを持って王都へ行ってくれている未来だけを信じてた。
残った母さんやアオが苦労しているだろうなんて、思ってもいなかった。
父さんとカイル兄さんが私を探して旅に出ているなんて、想像すらしなかった。
みんな無事で、みんな、予定通りの未来の中でそれぞれが思い描いていた生活を送っているのだと思ってた。
私、自分だけがゲームの本筋の世界から外れて大変な目に合ってるって、心のどこかで思ってた…。
黙ってしまったメルを見て訝しがるアオとシュレイザに、ディナは自分にも言い聞かせるかのように、詰め所で聞いたステイラ爺さんの神隠しの話をかいつまんで説明している。
もう一度改めて神隠しの話を聞いてみても、自分の置かれている境遇だとは思えなかった。
言葉は、きちんと理解できるのに、私の言葉だけが通じないなんて、容易く信じられない。
「兄ちゃん、驚くだろうな。すっごい心配してたもんな。姉ちゃん帰ってきたって、教えないとな。」
アオが、腕を頭の後ろで組んで、遠い空を見上げて口笛を吹いた。
しっかりした何かが、群れを為して、夕焼けの向こうへと渡っていく。
空を飛ぶ影は鳥には思えなかった。竜かワイバーンか。それとも別の、魔物に思えた。
ほんの少し街を離れている間に、とても大きな時間の流れが出来ていた。
「この前、手紙が来てたわね、父さんと王都にいるって書いてあったわね。」
カイル兄さんは、王都で私を探しているんだろうか。ちゃんと自分の為に勉強してるのかな。ちゃんと、自分の人生も歩めているのかな。
ディナが、メルを見て微笑んだ。「父さんも、カイルも、二人とも、時々手紙を書いて寄越してくれるのよ。この街を通る旅団に託してくれるの。」
「王都なら、すぐに帰ってこれそうだよな、楽しみ~!」
「カイルはすぐには無理かもしれないけど、父さんは竜使いだから、すぐかもしれないわね。」
ふふっと笑ったディナと嬉しそうなアオを見ているうちに、メルは自分がしようとしている計画を考えると、心の中で謝るしかなかった。
ごめんね、母さん。私、この街をまた出るつもりでいるんだ。
そう思っていても、言えそうにない。
どうしてって引き留められる。
理由を言えない。
精霊王のマントをこの街においておけないからだなんて、言えそうにない。
黙ってしまったメルを見て、何か思うところがあったのか、アオが、心配そうに顔を覗き込んできた。
「ごめんな。姉ちゃんも、大変だったんだよな、」
そんなことないよ、と言いかけて、首を振る。
心配ばかりかけてごめんね、と言いかけて、そんな言葉ではアオの心の隙間は埋まらないかもしれない。感謝の気持ちを伝えられる、希望も持てるいい言葉って何だろう。
<アオのおかげだよ。母さんを支えてくれてありがとう。>
胸を張って未来を見つめているアオには、自分を誇りに思って生きていってほしいと思う。
言葉が通じなくても、表情で、気持ちを伝えられたら。でも、本当は、言葉で、思いを伝えたい。
アオには言葉は通じなかったみたいだけれど、ポンポンと腕を叩かれた。労わるような表情からは、優しさが伝わってくる。
「姉ちゃん、よく帰ってきたな。」
<アオったら…!>
しばらく見ないうちに頼もしくなった弟に胸が熱くなってしまう。
私がいないうちに、変わってしまった。街も、人も、弟でさえも。
同じだけ時を過ごしていたはずなのに、差を感じてしまうなんて、理不尽だ。
失ったものがとても大きく思えてきて、時間の淀みに一人取り残されてしまった気分になる。
祖父の家へと続く通りまでくると、犬の鳴き声が聞こえ始めた。懐かしい。演舞の賑わいと緊張感を思い出して、メルは帰ってきたんだなあとしみじみ思った。
「犬、半分くらい里子に出したんだ。じいちゃん大怪我してるし、世話が十分にしてやれないだろ?」
<そうだね、>
あの犬たちは、私のこと、覚えているのかな。
ふと不安に思って、メルは唇を噛んだ。帰りたかったこの街に念願叶って帰って来ているのに、どうしてこんなに悔しく思うことばかりなんだろう。
シュレイザは先に行って伝えてくると言って行ってしまった。
風に、木の葉が揺れる。生垣から民家の明かりが漏れて、雑木林との小路が優しく照らされている。
私、この道は覚えてるわ。どうしてここだけ? メルは不思議な気がして、でも、嬉しくて、微笑んだ。小さな発見でも、今はただただ、嬉しく思える。
微笑むメルを見て、ディナはほっとした表情になった。
「お義父さまはあの夜、火事を阻止しようと戦って下さったの。竜を召還することなく追い払うことができたのだけれどね。その…、降りる際に、梯子が崩れてしまったわ。焼けていた箇所があったみたいなのよ。」
「大丈夫だ、姉ちゃん、じいちゃんは生きてる。ピンピンしてる。足を怪我した程度で済んだんだから。」
<アオ、>
へへへ、とアオは笑うと、鼻を鳴らした。
「やっぱり姉ちゃんだ。声も、言い方も、姉ちゃんだ。父さんと兄ちゃんが探しに早く帰って来てって連絡しないとな、」
<アオはなんだか、生意気に磨きがかかった気がする。>
素直に、受け入れてくれて嬉しい、と言えなくて、メルは口を尖らせた。
「悔しいな。きっと姉ちゃん、ひどいこと言ったんだろうに、何言ってんだかわかんないや。」
震えるように笑ったアオの顔は、泣くのを我慢しているみたいに見えた。「わかったら、言い返せるのに。姉ちゃんじゃないみたいだ。悔しいな。」
ポンポンと、ディナがアオの肩を優しく叩いた。
<アオ…、>
言葉を無くして俯いたメルに、ティヒがそっと、ズボンを噛んで引っ張った。
※ ※ ※
「ちょっと、話さないか、」
辺りには明かりが、家の窓から零れる灯りしかない。
夕やみに馴染んでいく世界の中でも、ティヒの白い手足はぼんやりと、浮かび上がっている。
<テッちゃん、>
「驚いた! 姉ちゃん、この犬、吠えるんだな。ずっと黙ってたから、吠えないよう躾けてあるんだと思ってた。」
ティヒの声は他の人間には犬の吠え声に聞こえているらしかった。
メルの耳には、きちんと言葉に聞こえていた。
そうね、と言いかけて、テッちゃんは犬じゃないんだよ、山犬なんだよ、と説明しようとした言葉を飲み込む。
山犬は人と暮らす犬じゃない。野に棲む精霊だ。人を襲う魔物じゃないって、いったいどれほどの人が知っているんだろう。
ティヒは山犬だ。使命がある山犬だ。むやみと人を襲う、魔物なんかじゃない。
地の精霊王の神殿で暮らしていた時、山犬になる前はショセと呼ばれていた執事だったとも知った。自分のことを俺って言ってみたり乱暴な話し方もするけれど、本当は状況に合わせて私と言い換える思慮深さも知性もある妖だ。
でも、魅力を伝えたくて説明すればするほど、誤解を招きそうな気がしてくるのはどうしてだろう。
ドラドリのゲームの本筋では、魔物は基本的に魔法が使えても、人間とは意思疎通は出来ない。話せる知識と知能を持つ魔物は、イベントの制圧対象である大将クラスぐらいだったように記憶している。
街の近くで人を襲うような魔物は、言葉すら通じないレベルの低いものばかりだ。
山犬と、そんな敵の魔物と、いったい何が違うというのかと聞かれると、メルには言葉が通じるか通じないかとしか言いようがなかった。
でも、今のメルならティヒと話が出来ているけれど、元の言葉しか話せない生活に戻ったら、また未知の存在に変わってしまうかもしれない。妖と人間は、基本的に言葉が通じないものとされているからだった。
妖や魔物は直接、意思の疎通が取れないから忌み嫌われるの?
そんなことないわ、だって…。
自分に問いかけた疑問に、自分で答えを出そうとして、凍り付く。
なら、言葉が通じない私は、この街の人から見たら魔物と同じなの?
「姉ちゃん立ち止まるなよ。なんだ、この犬も歩かないぞ。どうしたんだろ、」
ティヒは、私と話をしたがってる。私も、私の言葉が通じるテッちゃんと、話がしたい。
メルは空を見上げた。月の無い夜だ。指を折って考える。出会ったのは満月を迎える前だった。あの日から、もう二週間ほど一緒に過ごしている。たった二週間とはいえ、私にとってテッちゃんは頼もしい相棒だと言える。信頼できる仲間だと思える。
「メル、話がある。」
地の精霊王ダールは、ティヒにメルを家まで送り届けるようにと言っていた。山犬であるティヒは、対象を送り届けないと森へと帰れない決まりがある。
話って、きっと、その話だわ。
「うん、」
テッちゃんはきっと、お別れを言うつもりだ。
メルは<先に行って、>と伝えてディナの手を離すと、祖父の家の方を指を差した。
<後で、行く、>
伝わったかどうか判らないけれど、ディナとアオは顔を見合わせて頷くと、先に行ってくれた。
ありがとうございました




