5 私が生きている世界
何かが焦げ付くような匂いを感じて、メルは気が付いた。顔を覆う何か柔らかいもの…、なんだろう、これ。布の目地から何か臭いを感じる。息苦しい。手で取ろうとして、手は自由なのだと気が付いて、自分が何をしていたのかを思い出そうとした。
確かカイル兄さんと話していて、首筋が痛くて、ああ、手刀で叩かれたんだわ…、私はきっと気を失っていて、今は、何かが焦げた臭いで目が覚めた…。
焦げた臭い? 火事だわ!
メルは自分がどこか狭い場所に無理やり座らされていて、頭から布をかけられていたのだと気が付いた。急いで立ち上がろうとして、頭の上に布が沢山あって邪魔で、窮屈で立ち上がれない。布をかき分けて壁のような板を触ろうとして、誰かが何かを叫んでいる声を聴いてしまう。
そっと板を押すと何かが引っ掛かっている気配がした。うっすらと見えた外の世界を見ると部屋の中には誰もいなくて、ゆっくりと戸を押して出ると窓の外には月の明るさと煙とが見えた。
「ここは、兄さんの部屋だわ…、」
メルは部屋のドアの天井部分の隙間から入り込んでくる煙を見て、燃えているのはここではないどこかなのだと気が付いた。
急いで逃げないと、でもどうやって?
アオは? 兄さんは?
扉は鍵でもかかっているのか、すんなりと開いてくれない。
メルは思いっきり板を蹴って部屋の中へと転がり出た。
廊下へと通じるドアを開けると廊下は火の海で、一番よく燃えているのは階段に一番近い父母の部屋だった。
階段だったところは窯の口のように火を上げて噴いている。
下には逃げられない。どうしよう。
階下へと通じる階段のあった空間からは、誰かの声や悲鳴が聞こえていた。
このままここにいると、私は逃げられないまま死んでしまうんだわ…。メルは恐怖で身震いして、唇を噛んで痛みで気持ちをしっかりと保とうとした。
「音がしなかったか? …まだ誰かいたか、」
「いないはずだ、火を放ったからそのうち燻されて出てくるだろう。お前たちも出ろ、」
階下から聞こえてくる聞いたことのない誰かの怒鳴り声は、きっと、シンが話していた盗賊たちのものだろう。そっか、兄さんたちは逃げたのね…、って私は?
脱出は自力でするしかないのかな。メルはこんな経験を今まで味わったことがないのだから、飛び降りるくらいしか思いつかない。放火する卑怯な手段に悔しく思い、また唇を噛んだ。
飛び降りるのだって、怖い。2階とはいえ、飛び降りる先にネットやマットが敷いてあるわけじゃない。
どうしよう。どうやって逃げよう。
この前は洗濯用の縄を用意しておいたから容易く降りられた…。同じことをするなら…。
落ち着いて考えれば、やれるかもしれない。火が回る前に、少しでも計画を組み立ててやってみよう。
メルはカイルの部屋のドアを閉めて、窓辺へと走った。窓を開けて降りられないかと覗き込む。
この部屋は私の部屋と違って隣家へと抜けていくしかないんだわ。
隣の家は職人夫婦が住んでいて、酒場を経営するメルの家族のことをあまりよく思っていないようで、親しい付き合いはしていない。それでも、地上までは屋根伝いに逃げるしかないだろう。問題は、どうやって、その屋根まで移動するか…。
メルは唇を噛んで、隣の家の裏庭に面した2階部分の洗濯物干し場を睨んだ。飛び移るには高さと距離がありすぎる。
あそこまでこの窓から飛び移るのは無理だわ。でも、早くしないと。
部屋の中からパチパチという音が聞こえ始めていた。
この格好だけでは危険だわ…。メルは急いでカイルのクローゼットからジャケットを取ってきて着てみた。
そうだ、袖をつないで、ロープのようなものを作ってみよう。長い紐が何もないなら、作ってみるしかないのだもの。
丈夫そうな冬服を何枚も持ち出して袖を結んでロープ状につないでみる。
兄さんが背が高くてよかった。メルはカイルを思い出しながら思う。手が長い分、服には長さがある。
ふと、ベッドサイドのテーブルに鉄扇が置いてあるのを見つけた。
忘れ物?
兄さんのお母さんの形見だって聞いていた鉄扇がこんなところにある…。王都へ向けて出かけるための用意はぐるりと部屋を見た感じでは見つけられない。荷物は夕食の時、旅団に運んだって言ってた気がする。あとは身の回りの持ち物だけだって兄さんは言ってた…。ならこれは忘れ物? でも、これは燃えていいものじゃないわ。
メルはズボンの背に挟むとジャケットで隠し、服のロープの一番端の袖をベッドの足に括りつけ、窓から垂らして覚悟を決めた。
「大丈夫、私はやれる、」とメルは自分を励ますと、服のロープを手に家の壁を蹴って少しずつ降り始めた。適当なところで立ち止まり体勢を変えると、思い切って隣家の屋根の上に飛び降りる。
暗くて距離感がよく掴めないけれど、大丈夫だろうと自分を励ます。
着地には成功したけれどドサッと音が響いて、メルは首を竦めた。おじさん、また怒鳴りそう。夜遅くまで客商売をしているメルの家と、生活時間帯がずれていてあまり仲がいいとは言えない関係の隣家の小間物職人な住人たちを思い出して、メルは肩を竦める。
おじさんたち、ちゃんと逃げたのかな、まだいて今の音、聞こえていたりするのかな…。
あとできちんと修理にくるからごめんなさい、とメルは自分がしようとしていることを思い描いて、心の中で謝っておく。
ぐらつく体勢をいったん立ち止まって整えて、屋根板を踏み抜かないように駆け下り、雨どいに手をついてぶら下がる。
足元を見ようと振り返ると隣家の裏庭で、幸いなことに付近に物は何も置いてなかった。
真っ暗闇の裏庭は底なし沼に思えた。
雨どいにぶら下がったメルはドキドキしながら呼吸を整えた。
どうしよう。私の背の高さを考えても、地上への距離は1メートルとないと思う。でも、何かあったら? 着地に失敗したら?
このままいつまでもぶら下がっているわけにはいかない。メルの体重で雨どいが壊れてしまうのも困る。
指だって痛い。落とされるよりは自分で落ちよう…!
見上げた夜空は火の勢いで明るい。家が燃える音や大通りから聞こえる喧騒の音が気になる。躊躇ってる場合なんかじゃない。
メルは呟くと、呼吸を整えて自分の中で踏ん切りをつけていると、ぐらっと、体が揺れる。雨どいを固定していた杭が、メルの重みで軋んで外れかけた。
まずい、早くしなくちゃ。
思い切って壁を蹴って、後方へと飛んだ。
着地の衝撃が両足を上って来て、しゃがんで、尻もちをつきそうになるぐらつく体を必死で堪える。
はあはあとやけに大きく聞こえる自分の息遣いにメルは、「大丈夫、生きてる証拠、」と自分を言い聞かせて、気持ちを落ち着かせた。
暗がりの中で距離感がよく判らなかった割には無事に着地できたと思う。
足が震える。
でも、ここにいたって、何もできない。
しっかり立って息を整えると、隣家の裏庭を駆け抜ける。
この痛みは、私が無事な証拠、この乱れた呼吸は、助かっている証拠…。
興奮が続いている間は痛みなんか我慢できるはず。まだ大丈夫、私は大丈夫。
メルはよろめき走りながら空を見上げた。
煙が、炎が、喧騒が、騒動が起こっている…。
空気に焦げたような、きな臭さや熱さが混じっていた。
こんな大きな火事だもの、あの騒動なら、大通りには街のみんなが集まってるはず。人が多くいるところで盗賊団は暴れたりしないはず…。
興奮と恐怖でメルは涙を滲ませながら走りながらそう思い、路地を抜けて、自宅でもある酒場が見えるように大通りに出た。
夜空に、燃える家と、空を舞う魔物と、戦う人々の姿がはっきりと浮かび上がっていた。
犬の吠える声が響き、我先にと逃げようとする者たちの喧騒と、自警団の水をと叫ぶ声と、延焼を食い止めるために大工たちが家を割る音に混じって、悲鳴も聞こえる。
空には竜に近い中級の怪物であるワイバーンが何匹か舞っていて、炎を口から吐いている。飛び火するように屋根が燃えている。
大通りは逃げ惑い叫ぶ人々で混乱していた。
燃えているのはうちだけじゃないんだわ…、こんな時に魔物の襲撃に会うなんて…!
「通してください、家族が見つからないんです、」
メルは逃げ惑う人込みを掻き分けながら前へと進んだ。「通してください、母や家族が見つからないんです、」
父さんたちは無事だろうか、兄さんや、アオは?
店の前にいる助け出された人の中にいてくれればいいのに。メルは自分の息と鼓動の音と人込みと、家が燃えていく音とで興奮して涙ぐんでいた。
煙が目に染みる。興奮して、涙が出てくる。
私を気を失わせた後、兄さんはどうしたんだろう。無事だろうか。どうして、家が燃えているんだろう。どうして、魔物までいるんだろう。
息を切らしながら人込みを掻き分けていくと、先頭にいて立ち入りを禁じて消火活動をしている逞しい男性たちは、泣いているメルの顔を見て、「大丈夫だったのか、」と尋ねてきた。酒場の常連客でもある彼らは街の自警団の面々で、昔は剣士や領官だった男達だった。
「兄さんは…、父さんや母さんや、アオは…、」
男性たちは黙って首を振って、そっと救護の人たちに囲まれて地面に座り込んでいる人たちを指さした。見覚えのある女性が毛布で包まれて、煤だらけの頬を涙で濡らしている。
「母さん!」
メルが駆け寄ると、はっと気が付いた表情になって、ディナが立ち上がった。「キエエエエーッ」といななくようなワイバーンの鳴き声があたりに響いた。火の勢いが増して、火の粉があたりに舞い散る。
一瞬肩で耳を塞いだディナが、メルに抱き着いた。
「メル。無事だったのね、」
「…兄さんが隠してくれたの。父さんと兄さんと、アオは…?」
「父さんは怪我をしてるけど、きっと、無事よ。…アオも、逃げられたの。」
気まずそうに、ディナは俯いた。
「母さん、カイル兄さんは…?」
ディナを介抱していた自警団の老人たちも黙り込む。
「じいちゃんもいないよね。ねえ、兄さんは?」
犬が吠えていたけれど、ここには2匹しかいない。他の犬たちはどこに行ってしまったのだろう。
「…盗賊団が冒険者一行を討ちに来たの。あいつら、盗賊ギルドの竜のイヤーカフスをつけていたわ。父さんは気が付いて店の外でやれと仲裁したのだけれど、相手が悪くて、店に火を放って炙り出そうとしたの。」
メルから目を逸らして、ディナは腕をきつく抱きしめた。
「店の中はすぐに消したのだけれど、外に仲間がいたみたいであちこちに火をつけ始めて、騒ぎになって、お義父さまが来てくれて…。」
炎に照らされたディナの表情は暗くて、微かに震えているように見えた。
「お義父さまは、辺りの家にも火を放とうとした賊を止めようとしてくれたわ。犬を何匹も連れて助けに来てくださって…、犬が騒いだからって。火矢を放とうとした賊を止めようとして諍いになって、石を投げて加勢しようとしてくれたアオが捕まって、カイルが、カイルが…、」
アオは子供ながらも、燃える家を消火する集団のバケツリレーの中で懸命に水の入ったバケツを手渡していた。ここにアオがいるということは、アオを奪還した後、賊を追いかけているのかもしれない。
「ねえ、母さん。兄さんはどこへ行ったの、父さんはどこにいるの、じいちゃんは、」
ディナは泣きながらメルの顔を見た。首を振っていて、教えてくれる気配がない。
メルを見つけたアオは一瞬嬉しそうな表情になって、大人と交代すると、駆け寄ってきた。
「アオ、知ってるんでしょ、教えて。兄さんと父さんはどうなったの? じいちゃんはどこにいるの?」
大きなどよめき声と破壊音がして、炎の中で通り向かいの宿が焼き崩れてしまった。空に向かって矢を放っている者がいる。アオが気まずそうに、小さく「隣の村の方へ行った、」と答えた。
「兄ちゃんは、僕を助けようとして賊の腕を切ったんだ。僕はその隙に逃げて…、」
「アオ、最初から言って、落ち着いて。」
メルは話しているアオも話を聞いている私も混乱している、と思いながら話を聞いて組み立てる。
「いきなり捕まったの? それを、兄さんが助けてくれたのね?」
小さく頷いたアオは、メルを見つめた。
「人を呼びに外へ出ようとしたら変な臭いがして、空を見上げたらワイバーンが襲撃してきて、驚いて店の中に引き返そうとしたら盗賊団に捕まって、連れて行かれそうになった。」
「それで、どうしたの?」
「兄ちゃんが追いかけてきて助けてくれた。兄ちゃんが剣で戦って、僕、逃げようとして暴れていたら僕を庇ってくれた兄ちゃんは体勢を崩して、怪我をして、その時捕まって…、」
「隣の村の方へ行ったのを見たのね?」
「うん、伝えろって言われた。ちょうどいい、交換だって言って、冒険者たちに取り返しに来いって言えって言われた。僕の代わりに、連れていかれちゃった…。」
炎の音と、ワイバーンの奇声とが、アオの沈黙の中聞こえた。
「父さんと叔父さんが追ってるのね?」
メルの質問にアオは小さく頷いて、まだ燃えていない隣家の屋根の上を指さした。人影が見えて、ワイバーンに向かって矢を放って応戦している者たちがいた。祖父のマードックの姿も見える。
「じいちゃんはあっちの屋根の上から、あいつらが街に降りてこないように、みんなと矢を放ってる。父さんと叔父さんはすぐに兄ちゃんを追って、冒険者たちと一緒に行った。父さんが大丈夫だって言ってたけど、あんな怪我してるのに、僕のせいで、」
泣き始めたアオを励まして、メルは決心して自分の両頬を手で叩いた。
「僕、父さんの代わりに役に立ちたかったんだ。役に立ちたかったんだ…。」
ゲームのシナリオでのはじまりの村の隣町ククルールは、大火災からの復興の最中だった。
度重なる魔物の襲来に街の人たちは家を焼かれ、情報を求めてやってきたディナの酒場は出稼ぎ労働者で溢れていた。
気風のいい女将の威勢のいいセリフは荒くれ物が多い酒場ならではだろうと、ゲームを勧めながら思ったものだ。
この状況はゲームと重なるんだ…! なら、兄さんたちは、どうなるの?
酒場は女主人ディナが守っていた。男手がない中、ディナが切り盛りしている、という描写があった。
前々からあれはどういう意味なんだろうと思っていたけれど、火災で男手はなくなってしまった、という意味なんだと閃いた。
いなくなるってどういうこと?
出稼ぎに出ているの?
それとも、本当にいなくなるの?
嫌よ、そんなの。
メルは首を振った。このまま悪者の手に町が落ちてしまうから、精霊王のマントは酒場で見つかるの?
そんな未来は、嫌…!
「アオ、母さんをお願い。私も追いかける。」
私、このまま兄さんや父さんたちを見殺しにはできない。シナリオ通りに死んでほしくない。
私は、ゲームのシナリオを知っている。私は、この先の未来を知っている…!
メルは、自分に残されている選択肢は、ここで母さんたちと助けを待つか、兄さんたちを追って自分も戦うか、だと思った。
「何言ってるの、メル。きっと領都から騎士団が来てくれるわ。その時を待ちましょう、」
メルは昨日の今日で騎士団が動けるとは思えなかった。きっと、あの取手くんに似た少年たちの護衛をしている最中だろう…。
「戦うのは一人でも多い方がいいわ。大丈夫、私、ちゃんと自分の力量を知ってるから。」
「メル、行かないで。傍にいて、女の子なのよ、守ってもらえばいいじゃない。」
メルは、ディナの瞳をじっと見つめて、今しか言えないと思った言葉を伝えた。
「母さん、私は、女の子だけど、誰かの役に立ちたい。女の子だからって、何もしないまま待つのは嫌。私でもできることがあると思う。私はそれをやってみたい。」
前世の私は、何もしなかったし、できなかった。
「メル、」
街が燃える匂いも音も、人が戦う世の中も、私が生きている世界だわ。
母・ディナの縋るような声を振り切って、「母さん、大丈夫だから!」と大きな声で答えるとメルは駆け出した。
※ ※ ※
街を守る門はこんな緊急時なのに開いていて、小屋のドアの前に連絡用のロバがつないであるのを見つける。レモン混じりのミントの香りを感じて空を見上げると、門の上の遠見櫓から白い煙が立ち上っていた。
緊急用の狼煙が上がっているんだ…!
この匂いは魔物除けになるって聞いたことがあるし、狼煙が上がると緊急事態と判断して近くの街から応援がやってくると聞いたことがあるわ。
そんなの、待っていられない。
「おっちゃん、借りるね、」
サイモンとフィールという二人の門番の詰める休憩所に声をかけ、メルはロバに跨った。
「ラドーラ、メルよ。力を貸してね、」
聞き耳を立てていたロバのラドーラはメルの言葉を理解したのか、小さく頷いた。
「メル、こんな時にどこに行くんだ、」
慌てて出てきたサイモンたち門番は、顔色を変えた。
「お前は女の子なんだ、他の女たちと一緒に隠れていろ。門が開いているだろう? もうじき騎士団の騎馬隊が来てくれるはずだ。それまで待ちな、」
酒場という商売の関係で、店に食事をしにやってくるサイモンとフィールとは幼い頃からの顔見知りだった。どんな髪型になっても二人はメルだと気がついてくれた様子で、メルは少し嬉しくなる。
「ごめんね。私、盗賊団から、兄さんを助けて帰ってくる。」
「ならなおさら、騎馬隊を待った方がいいんじゃないかい? 盗賊を追ってラルーサさんたちが出ていったけど、メルは女の子だろう?」
女の子だけど、その前に、メルはひとりの人間だった。知っていて逃げ出せるほど卑怯ではないと思っていたし、少しでも助けになりたかった。
「大丈夫。無理はしないわ!」
時々借りて乗る練習をしていただけあって、老いたロバはメルを落とさず進み始めた。
「ごめんね、頑張ってね、」
メルはラドーラの脇腹に蹴りを入れると、走らせ始めた。
昨日、エルスの月の神殿の前には野営の跡があった。あれは、旅団のものではなく、盗賊団のものだったのかしら。
メルは小さく唇を噛んだ。
行けばはっきりするわ。行って、兄さんを連れて帰ればいいだけなんだから。
月の隠れた暗い夜空の下を、メルはラドーラと駆け抜けた。
ありがとうございました