第七話 彩
支えられながらなんとか椅子に座る。
手がしびれてうまく動かない中、目の前にスプーンが差し出された。
「はむっ」
乗せされたカレーライスを一口で食べると、また新しい食料が口の前まで運ばれてくる。
「大丈夫? 飲み物飲む? 麦茶あるよ?」
スプーンを持った彩が、そう言いながらコップに麦茶を注いでいる。
「なあ……」
「ん? 何?」
「どうになならないのか、これ」
律さんが去った後、飯を食べるにも体を動かせない俺は、藤宮に頼んで飯を食べさせてもらうことにしたのだが……。
「どうしたの? 何かだめなことあった?」
不思議そうに小首をかしげる藤宮。
俺は抗議のこもった視線を向ける。
「いや、だめってわけじゃないんだが。こう、なんというか、良い年した高校生が幼馴染に介護されるということに違和感をだな……」
「えっ、ケンくん、私にお世話されるの嫌だった……?」
悲しみの表情を浮かべる藤宮。
まるで捨てられた子猫のよう。
「いや違う違う!」
「じゃあなんで? もっと別の理由があるの?」
「やっぱりなんでも無い。ありがとうな藤宮、世話してくれて」
「そ、そんな急に、えっと、その、どうしたしまして!」
少し赤くなる藤宮。
なんというか、心配性すぎだ。
ため息をつこうとしたけれど、既に目の前にはカレーが乗ったスプーンが差し出されていた。
俺のため息は藤宮の笑顔の中に消えていった。
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体が動かなくなってから三日たった。
その間、俺はほとんどといっていいほど藤宮の介護を受けていた。
無理に動こうとする度、
「ケンくん動いちゃだめ!」
と藤宮に怒られる。ヘルパーさんに介護される老人になった気分だ。
藤宮の親戚だという老人から車椅子を貸してもらって、移動も楽になった。
学校の中に障害者用のトイレがあるので、用を済ませるのも案外苦労していない。
特に辛いこともなく、苦しいこともなく、平和な時間が過ぎていた。
何も問題は無いはずだった。
けれど……。
「ケンくん?」
車椅子を押す藤宮が、上から俺の顔を覗くようにしていた。
「そんな不安そうな顔して、何かあったの?」
「いや、なんでもない」
嘘だ。
平和なはずなのに、何も問題はないはずなのに、胸の奥がどうしようもなく虚しかった。
毎日世話をしてくれる藤宮は、ことあるごとに笑顔を見せてくれる。
心配性で、いつも俺の身を案じてくれている。
俺は幸せものだ。こんなにも俺のために何かをしてくれる人がすぐそばにいる。幸せものなんだ。
……なのにどうして、満たされないんだろう。
大切な何かが足りないと、思えてしまうんだろう。
すると、優しげな表情で藤宮がささやいた。
「私さ、昔からケンくんのこと凄いと思ってたんだ」
「俺のこと?」
うん、と頷いて藤宮は続ける。
「魔法使えないのに、魔法以外の方法で、魔法と同じことをしようとするでしょ?」
「それは、まあな」
魔法の才能が無い、というのは現代では珍しいことだった。
だからこそ、少しでも魔法を使えるやつに追いつきたいと思って、俺は魔法以外のところで努力を重ねてきた。
「そういうの見てて、凄いなあって」
「魔法使える藤宮の方が凄いじゃねえか」
「ううん、違うの。魔法が使えなくても、努力して、苦労して、それで他の人に追いつく。そんなケンくんを見てると思うんだ」
藤宮はどこか遠くの方を見て言った。
「大切なのは魔法の才能じゃなくて、真面目に頑張ることなんだなって」
少しの間、静かに風が吹いた。
「藤宮も頑張ってるだろ」
「私は……まだまだ、だよ」
「どうしてそう思うんだよ」
藤宮が諦めたような表情をする。
「私ね、お母さんみたいになりたいって思ってたんだ。頭が良くて、強くて、優しくて、みんなを笑顔にできる魔法使いにね」
だけど、と言葉を繋いだ。
「どれだけ頑張っても追いつける気がしないんだよね。私には無理なんだなって、お母さんの魔法を見てると思っちゃうんだ」
手のひらに光の球を出す藤宮。
明るく光っていた球は、すぐに消えてしまった。
「だからね、ケンくんのこと凄いと思うんだ。みんなに追いつけるかも分からない中でも、ちゃんと頑張り続けられるんだもん」
寂しそうな笑顔でそう言う藤宮。
その様子を見て、俺の口からいつのまにか言葉が出ていた。
「藤宮は凄いな」
「えっ?」
「動けない俺の世話をしてくれる。いつも笑顔で接してくれる。俺の気持ちを考えて話してくれる」
驚いた表情の藤宮にただこう言った。
「俺の中じゃもう藤宮は、強くて優しい魔法使いの一人だよ」
口をぽかんと開けて、藤宮は手をわたわたさせた。
「そ、そう、かな」
「そうだ。もっと自信持てって」
唖然としていた様子の藤宮は、口をつぐんで、目を閉じて、じっと佇んでいた。
そして不意に、にこっと笑顔になって。
「うん!」
元気に返事をしてきた。
「ありがとう!」
「そりゃどうも」
なぜか俺の方まで気分が晴れた気がした。
空は晴天で、どこまでも透き通っていた。
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彩とケンが会話している時。
その様子を遠くから眺めている一人の男の姿があった。
「…………」
長めに切りそろえられた髪とフチの黒いメガネが、自然と優等生であるような雰囲気を漂わせる。
実際、彼は高校の成績では常に上位であり、魔法も運動も平均以上にできる優秀な生徒だ。
「……壊したいですね」
しかし、その心の内側は普通ではない。
水属性が得意だ、と普段から口にしている彼は、右手の中に使えるはずのない闇の光を浮かべていた。
「あの幸せを壊したら、どれほど面白いことになるのでしょうか」
彼の顔に笑みが浮かぶ。
一見して普通に笑っているだけにしか見えない表情は、その奥深くに、暗くて黒い感情をまとっていた。