第四話 深淵
家への帰路を歩く俺の視界には、道、だったものが広がっている。
いつもの帰り道には倒壊した建物の瓦礫が散らっていた。
これは道と呼べるものじゃないだろう。
足元に注意しながら進む途中、ふと顔を上げてみる。
目に入ってくる光景は、何もかも破壊され崩れている。
ビル、だったもの。瓦礫の山と、崩れずに済んだ一階部分のコンクリートの壁が残っている。
公園だった場所は、趣味の悪い現代アートみたいに歪んでいる遊具と大きな地割れが目立ち、沢山の瓦礫と一緒にトイレの男のマークが地面に転がっていた。
人は一人も見当たらない。もう既に逃げ出したのだろうか。
それとも、ここにいた人は全員……。
途中で考えるのをやめて、足だけを動かす。
転ばないように気をつけながら、暗い中歩いていく。
コンビニから歩き始めて十五分ぐらい。来たときの三倍時間をかけて、家の前の横断歩道に戻ってきた。
ヒビの入った白線を渡る。
倒壊した家が見える。
完全には壊れていない。半壊だ。
俺の部屋が崩れて一階部分を押しつぶしている。
あと玄関の扉はある。もう少しで崩れそうなほど壊れているけれど、まだ出入りはできる。
出入りはできるけど、どう考えても危険だ。
そして、家の向こう側には巨大な壁があった。
地響きの音が轟々響いて、と耳に入ってくる。
強く風が吹いて、瓦礫の砂の匂いが鼻についた。
ガタン。
突然、崩れた家の中の暗がりから物音がした。
すかさず声を出す。
「……ミナ! 避難するぞ。隠れてないで出てこい」
反応はない。
どうせ、家の中で身を縮めてこもってるんだろう。
玄関の扉をくぐる。
手に持ったレジ袋がカサカサと音を立てる。
家の中に入った途端、妙に静かになった。地響きも聞こえてこない。
天井や壁のいたるところに亀裂が走っている。これは早く出ないと生き埋めになるかもしれない。
「マナ茶買ってきたぞ。早く出てこないとお兄ちゃんが飲んじゃうぞー」
リビングの扉は半開きの状態で壊れている。中は暗くてよく見えない。
リビングへと足を踏み入れる。
家具が散乱していた。
棚が倒れていた。
壊れた机の上に、ホールケーキらしきものがぐちゃぐちゃになって乗っていた。
ケーキには文字が書かれいた。
”お兄ちゃんたんじょうびおめでとう!”
「……くそっ」
目頭が熱くなって、気づいたら溢れ出していた。
頑張って作ってくれるミナの姿が脳裏に浮かんで、涙が止まらない。
いつも笑顔いっぱいの妹が、今更愛おしくてたまらなかった。
「早く、避難しよう」
目元を拭って、一歩踏み出す。
べちゃり、と足元から音がした。
「…………」
踏んだ液体は赤黒い。
血溜まりから目が離せない。
手が震え始める。
踏んだ赤の液体はリビングの奥に続いていた。
今までテレビが置いてあった場所に大きな穴が空いていて、その中に吸い込まれるように続いていた。
他に人のいる気配も、姿も見つからない。
あの中にみんないるのか?
頭の中で、穴の中に入るなって警鐘がガンガン鳴り響いてる。
早くここから立ち去れと訴えてくるように、ひどく胸騒ぎがした。
「…………」
けど、血溜まりを見て、誰も見つけてないのに立ち去るなんてありえない。
ブラックホールとも思える真っ暗な穴の中に踏み入る。
真っ暗で何も見えない。
音も聞こえない。
歩いていると突然、足に何かが当たった。
当たった何かは転がった。
「えっ」
その何かには、目と、鼻と、口がついていた。
「父さん!?」
バラバラの死体。
父さんだったものがいくつも転がっている。
父さんの死体の先には、母さんがいた。
まるで何かを庇うように、うつ伏せに倒れていた。
駆け寄る途中で、ベチャベチャと何かを踏んだ。
一旦止まってそれを見た。
「…………」
おびただしい量の血が一面に広がっていた。
その血が母さんの腹から出てるなんて、俺は信じたくなかった。
小さな声が聞こえた。
「こない、で」
「ミナっ!」
母さんの後ろに、仰向けに倒れるミナの姿が見えた。
駆け寄ろうとするが……足が、一歩も動かない。
「なんだよ、これ」
石にでもなったかのように、足がピクリとも動かなかった。
周囲の壁から、不気味な光が糸となって俺の足に絡みついていた。
魔法だ。
「どうして……どうしてっ!」
思い切り足に力を込める。
動かない足を手で殴る。
それでも足は言うことを聞かない。
一歩踏み出すべき状況だ。それは誰よりも理解している。
「ミナ、安心しろよ、今すぐ助けてやるから」
けど、強気に言葉を投げかけても、どんなに力を込めても、魔法の力を願っても、俺にできることは何も無い。
バランスを保てなくなって、足が固定されたまま前に倒れる。
危ないと思ったその時、右手の指先が、ミナの足の先端に少しだけ触れた。
その瞬間に、突如目の前の空間が歪んだ。
グニャリと、次元の裂け目と言えるような球体が形成される。
急に出てきた謎の物体に、猛烈な勢いで意識が吸い込まれる。
いつの間にか、俺は空にいた。
真っ赤な空を見上げながら、落下していた。
加速しながら、地面に向かって永遠に落ちている。
胃がせり上がってくるような気持ち悪い感覚。死にたくない、と焦った。
けど、少しずつ慣れてくると、今度は周りの風景のおかしさに気づいた。
雲が一つも無い。それどころか、地上に建物が一つも見当たらない。
見えるのは無数の赤い点。
血の海だろうか。いや違う。動いている。
全部個別に動いてる。
でも生き物じゃない。
目だ。
気づいた瞬間、地上に広がる無数の目が一斉に俺を見た。
怖くなって空を見ると、真っ赤な空に無数の目が広がって俺を見ていた。
「うわああああああっ!」
逃げるように目を閉じると、閉じたはずのまぶたの裏に無数の目が広がった。
目を閉じることさえできなかった。
恐怖で反射的に目を開くと、さっきまで遠くにあったはずの無数の目が、顔の十センチぐらい前でひしめきあっていた。
周りのどこを見ても、グロテスクで奇怪な赤い目が俺を凝視していた。
おかしくなる。
怖くて叫んだ。
叫んでも目は消えなかった。
泣いた。
叫んだ。
この世界から出たかった。
俺はこの世界にいるのか?
俺は泣いた。
俺は泣いているのか?
俺は叫んだ。
俺は叫んでいるのか?
自分が何をしているのか理解できなくなってきた。
「お、にい、ちゃん」
かすかな声が、急速に意識を蘇らせる。
「……がはっ」
口から息が吐き出され、目が覚めた。
無数の目が消え、眼の前にボロボロのミナが現れた。
さっきと同じ光景。同じ場所。
何をしていたのか、徐々に記憶が戻ってくる。
「ミナ……」
名前を呼ぶ。
返事はい。
「ミナ!」
声は無数に反響した。けれどミナは反応しない。
前に進もうと走った。けれど、なぜか少しもミナには近づけない。
「ミナ!」
ボロボロで、今にも死んでしまいそうな状態で、ミナがゆっくりと口を動かして、つぶやいた。
「いきて」
空間がグニャリと歪んだ。
動画が逆再生されるかのように渦巻きの外に出される。
その中、ミナが無数の赤い目の中に沈んでいくのが見えた。
誰かの助けを求めるかのように手を伸ばしながら、沈んでいった。
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気がつけば、家のリビングで倒れていた。
はっとしてリビングの奥を見ると、画面の割れたテレビが転がっているだけで、穴は広がっていなかった。
代わりに、巨大な壁の一部と思われる紫色の岩が、家を侵食するように存在していた。
さっきまでの悪夢のような光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。
その時、上からホコリが落ちてきた。
上に視線を向ける。何かが落ちてくる。
急いで横っ飛びすると、さっきまでいた場所に天井の一部が崩れて落ちてきて、でかい音を立ててバラバラに割れた。
このままじゃ巻き込まれる。
「くそっ!」
急いで立ち上がって走る。
玄関から外に出たところで振り返ると、家が崩れ始める。
俺の住んでいた家が、巨大な壁に呑まれていった。
俺は、ただ突っ立ってその光景を見続けていた。
それしかできることは無かった。