信頼の距離
「……大事なものだけ回収して後は逃げようって魂胆なの?」
北見灯子のハスキーで落ち着いた声音が、今だと心臓の隙間を塗って吹き抜ける寒波のように感じる。
演劇部の同期入部した仲間として好意を寄せていた相手だっただけに、今自分に向けられている眼差しが凄く痛い。
「急に何? 俺は別に、小テストの勉強しようと思っただけで、学校サボろうなんて気は一切ないって」
笑顔を引きつらせて笹川がそう答えると、北見は露骨にアシンメトリーな眉間の皺を強調させ、表情を歪ませた。
嫌悪感丸出しとはこのことだ。
「Bクラスの姫来って女子生徒知ってる?
吹奏楽部に入ってて一週間後のコンクールでトランペット奏者に選ばれてた先輩。
高校生活最後のコンクールでようやく演奏メンバーに入ることができたの。
その苦労、全部アンタのせいでなくなったのよ?」
いきなりの急所攻めという奴だった。
笹川は何とか返事しようと肺に空気を取り込むが、吐き出せずに喉元が震えるのを感じた。
「大変だと、思うけど。な、なんで俺にそんなこというわけ? 関係ないっしょ……」
まとめた資料を抱えて教室から出ようとした瞬間、爆発音と聞き間違うほどの騒音が室内に響き渡った。
悲鳴が出そうになったのを慌てて抑え込んだせいで、笹川が豚鼻っぽく「フガッ」と声を漏らす。
北見が教室の入口付近にあった掃除用ロッカーを蹴り上げたらしい。
彼女の身長ほどのロッカーがぐらりと揺れて扉が半開きになっていた。
「何笑ってんの? やっぱりわざと狙ってやったわけ?」
「笑ってない! 狙ったって何のことだよ。 北見さん言っている意味わかんないって。」
「あんたがネームレスの味方してたって『スターダスト・オンライン』してるプレイヤーなら皆知ってるって言ってんの!」
……やっぱシラを切りとおすなんて無理なんだよなぁ。
学院会クラン用のチャットログですぐさま情報は共有されたわけだし。
「どうしてプレイヤーを殺すなんてできるの?
あたしを『スターダスト・オンライン』に誘ってくれたのは、あたしを心配してくれたからでしょ?
姫来さんだって吹奏楽部の練習についていけないから悩んでたのよ?
キャラが死んだら、また悩むことになるって笹川ならわかってたのに」
北見灯子の瞳がうるんでいた。
こちらを糾弾する態度が徐々にしおらしくなって、最後には悲劇のヒロインよろしく、両肩を震わせて泣き始める。
「北見さん、俺はやってない。 もちろん会長だってやってないし、当人であるネームレスだって彼女に非があるとは俺には思えない。
事情は、言えないけど、俺”たち”はプレイヤーを殺したりはいない。」
「非がない? 姫来さん、トランペットがいつも通り吹けなくなったって、徹に連絡してきたんだよ。辛いって!
スターダストオンラインを始める前のあたしそっくりじゃん。
なんで平気な顔でそんなこと言えるの?
あたし、笹川に感謝してるし、”良い友達”だって思ってたのに」
その言葉はなんだか脅しじみているな。
……若干冷めた気持ちで笹川は目の前の北見を眺めていた。
昨日の放課後、その”良い友達”をストーカー呼ばわりして片思いの相手にすり寄るネタとしていたのは誰だっけか。
――いや、そんなことよりも。
「平気じゃないって。でも、今の北見さんを見てけっこう楽になったわ。」
「……?」
「演技、下手になったね。」
「演技……?」
「俺、役者希望出してるけど、演劇部じゃずっと裏方だからさ。
北見さんとか水戸亜夢のこともよく見てたんだ。
その時と比べると、本当二人とも下手くそになった。
手慣れた感じがあるというか、手探りで変幻自在な感じがないっていうか。
もう、照明当てる気にもならんわ。」
笹川宗次がいつも通りにニタリ顔で笑みを浮かべる。
途端、対比するかのように北見灯子の表情に赤身が差して、溜まっていた涙すらも引っ込んで口元をワナワナと震わせ始めた。
「北見さん、さっきから鳥肌立ってんの気づいてた?
よっぽど俺のこと気持ち悪いのに、耐えて、口説こうとしてたんだな」
笹川はロッカーを蹴り上げたせいで若干捲れあがっていたスカートを指さした。
鳥肌なんて本当は見えなかったが、反応を見る限り、図星なのは明白だった。
すぐさま北見は裾を抑えて肌を隠そうと努める。
「キモチワル……。」
「存じてるって。 古崎く……古崎たちに命令されてやってんの?」
あえて不遜な態度をとろうとしたが、油断するとすぐに情けない自分が出てきそうだった。
「口説くとか命令されるとか、その考え自体気持ち悪いっていってんの。
『スターダスト・オンライン』でキャラロストしたからって、他の皆を巻き込もうとするのやめてくれる?
他人の足引っ張るって本当最低だし、とっても惨め。」
「だから、話した通り、俺たちが引き起こしたことじゃない。
北見さんにも忠告するけど、古崎徹は信用しちゃいけない。」
「徹を悪く言わないで! 昨日だって、姫来さんのこと聞いて悲しくなったからあたしに連絡くれたの。
それくらい友達思いなの、あんたと違って!」
もう話す気にすらなれなかった。
北見灯子は古崎徹に心酔しきっている。
まったく、どうして俺は彼女なんかを好きになっていたのだろう。
笹川が意趣返しと言わんばかりに、開きっぱなしになっていた掃除用具入れのトビラを強めに閉じた。
「っ……」
”普段怒らない奴が怒るとなんとやら”効果が働いたのかもしれない。
北見がこちらを糾弾する口を開いたままで固まった。
「その姫来って生徒がトランペットが思うように吹けなくなったのは、彼女の元々の実力がその程度だったってことだろ。
むしろ本音は、古崎に悲劇のヒロインっぷりを見せたかったから連絡入れた可能性が高いって。
北見さんはそっち気にしたほうがいいんじゃないか?」
吐き捨てて教室をあとにする。
廊下でちょうど釧路七重がしゃがみ込みながら、声を殺して笑っていた。
朝日が差してタイルを光らせる廊下は、程よい暖かさがあった。
「やるね……〈笹川宗次〉」
眠気眼をこすりながら女子生徒・釧路七重は立ち上がって細く伸びをする。
その姿は、プレイヤー名〈プシ猫〉に合っている気がした。
「教室の窓、特別棟の美術室あたり。」
ふいに彼女言われて再び教室へ振り向くと、北見が窓辺によってどこかに手を振っていた。
ちょうど釧路七重が告げてきた美術室付近だ。
目を凝らすと、数人の影が見えた。
けれど、あんな小さな人影、言われなきゃ絶対気づけない。
「本物のスナイパーかよ……」
笹川が思わず口にした言葉に七重がほくそ笑む。
「私は、貴方含めて全員撃ち殺すつもりでいたからね。
――それよりも、私、復学の書類まとめて、また遊丹が入院してる病院へ戻るけど……一緒にくる?」
「……あぁ、うん。いいのか?」
瀬川遊丹は釧路七重にとって恋人並みに大事な存在だと知っていたからこそ、自分がその場に同行していいのか、笹川は聞き返してしまっていた。
そうしてしまうほど、他人の個人的な事情に立ち入る経験が少なかったのだ。
「ん。ちょっと昨日のダメージがあるから、杖代わりが欲しかったの」
七重は別段気にする素振りなく頷いてくれている。
「いや、そういうんじゃねえんだけど……。 まぁ、いいのか。」
笹川宗次はどことなく誇らしげな気持ちを抱いた。




