身に余る「ありがとう」を
「ハハ、無事なものか。
こんな夜中じゃ電車もタクシーもなかったからな。自転車一本でここまできたんだ。」
月谷芥は、一見すればシャツにチノパンの爽やかな服装をしていたが、額にはふつふつと汗がにじみ始めている。
若干息も上がっているようで、緩やかに肩を上下に動かして呼吸しているようだった。
「そんな無茶な!
いくら、ゲーム内でリカバリーできたとしても、腹部貫かれた痛覚はリヴェンサーくんには残っているんだよ?
下手すれば現実の身体が痛覚に反応して、昏睡状態にすることだってあるんだ。
なのに自転車漕いでここまできたって?」
テーブルを叩いて立ち上がったのは姉さんだ。
「ということは貴方が戸鐘波留。
『スターダスト・オンライン』を”開発した”張本人か。
話は電話越しに聞いていたが、まさかこんなに幼い顔立ちの女性とは思わなかった。」
遠目でみればスラリとした体躯の青年という印象だったのに、月谷芥が僕らまで歩み寄ってくると、その姿は厳かな威圧を伴っている。
鳴無学院の生徒を会長として取りまとめるという大任を担った実績が彼を大きく見せているのか?
それとも別の何かがあるのか。
考えれば当然のように思い浮かぶのは報復だ。
リヴェンサーは瀬川遊丹を大切に思っていた。おそらくは恋仲と呼んでもいい関係だったのかもしれない。
そんな彼女を意識不明の重体に陥れた『スターダストオンライン』は、リヴェンサー――月谷芥にとって忌むべきものだ。
それを開発した本人が目の前にいるなら……。
「ネームレス。いや、戸鐘路久。どうして道を塞ぐ?
オレは彼女に用事がある。」
身体が動いて、僕は月谷芥の進行を妨げるように前へ出ていた。
「話を聞いていたなら、わかるだろ?
姉さんは3年前、既に『スターダスト・オンライン』の開発グループから追放されていたんだ。
彼女を恨んだからって瀬川遊丹が帰ってくるわけじゃないっ」
僕の言葉に月谷芥は立ち止まった。
けれども彼が見据えたのは僕自身ではなく、その後ろにいた面々にだった。
「なんだ? 彼には話してないのか、一番頑張ってくれたのに。」
彼の糾弾するような瞳は主に笹川へと注がれていた。
「え、あ、いやぁ、もう知っているものかと思って……」
横目で逸らして笹川は姉さんへと視線をずらす。
「あぁ……ロクはオフィサーと戦ってたから知らなくて当たり前だよね。
てっきりヴィスカが話してくれたと思ったんだけど」
姉さんが溜息をつく一方で、笹川は姉さんから湯本紗矢へと視線を映す。
しかし、恍けたように首をかしげる湯本や、周りが自分と同じように彼女を見ていないことに驚愕して笹川は眉根を潜めて、黙り込む。
「どういうことだ――」
尋ねる前に、持っていたスマートフォンが一度だけ音を鳴らした。
あまり馴染みのない鈴の音は、メッセージアプリのものだ。
「まったく釧路の行動力には負けるよ……」
何かを察して月谷芥は肩を竦める。
疑心が募る中、アプリを確認すると〈釧路七重〉から画像が一枚添付されたメッセージが届いている。
開いた瞬間、僕は言葉を失った。
看護師二人に両腕を掴まれて病室の外へと連行される七重と、その光景が写るように画面端から顔を覗かせる……苦笑いを浮かべた瀬川遊丹がいた。
――。
月谷芥は高らかに告げた。
「回復アイテム――ネームレスが言った【ヴォッカド濾過】も含めて、彼女の状態が元に戻らないか、波留さんのガイドの元で色々試したんだ。
そしたら、彼女は意識を取り戻した。」
「正確にいえば、回復アイテムがキーってわけじゃないよ。 どちらかといえば、M.N.C.を操っていたオフィサーが、どこかで操作を誤ったんじゃないかな。
おかげで解除不可能だった瀬川遊丹こと〈ニャンニアンEU〉のバッドステータスを直すことができた。
思い当たる節は?」
朧気に思い浮かぶのは、オフィサーとの対決で、彼が”音声認識”と告げて何かを叫んだときのことだ。
「一応ある、けど、オフィサーが自由にできたのはM.N.C.の管轄だろ?
『スターダスト・オンライン』自体のステータスの変更とかは出来るの?」
「はっきりとしたことは言えないけど、M.N.C.から得た神経系情報を元に、クリーチャーの挙動や活動パターンが生成されているものもあるから、『スターダスト・オンライン』のステータスに紐づけされた情報を辿れば、いくつかデバックコマンドのようなことができるかもしれない。」
「デバックって……開発者権限でゲームを自由に弄れる手段ってことだよね?
姉さんは? どこまで使えるの?」
「残念ながら、ほとんど無理。
もしあたしがデバックコマンドを使えるように『スターダストオンライン』へアクセスしたら、そのログを辿ってオフィサーたちにも同じことができるようになっちゃうの。
不用意に〈ステータス変更〉コマンドなんて使えば、もっと彼らは手が付けられなくなる。
だから実行するにしても、彼らに使われても問題ないようなデバックしか行えない。
――多分あたしの存在は、オフィサーたちに感づかれてはいたんだ。
けど、直接手を下さずに泳がされていたのは、開発者であるあたしに何かしらの発見を見出すためだったんだと思う。」
「そう……なんだ。」
「フフ。安心して、ロクが心配することじゃないよ。あとはお姉ちゃんに任せないって。
……今はユニちゃんが戻ってきたことを喜べばいいから」
メッセージアプリが再び音を鳴らす。
七重からで一言《本当にありがとう》と書かれていた。
おそらくは最大の謝辞だろう。
けど、それに見合うほどのことが僕にできたのだろうか。
「ログアウト寸前に『救急車でもなんでも使って、わたしがユニの様子が見にいくから、波留たちのところにはオマエがいくです』。 満面の笑みで釧路がそう言ってな。
オレが遊丹の彼氏だって知った上で彼女は言ってるんだ。
意地が悪いにもほどがある」
「会長そんなこと言いつつ、顔めちゃくちゃ笑ってますよ」
「すまないな、今だけは締まらない顔でも許してくれ。
――戸鐘、遊丹を救ってくれてありがとう!」
「え、あ……はい。」
笹川と月谷会長が喜び合うのを傍から見て、焦りばかりが募っていく。
結局、会話に混じれぬまま、姉さんが「さて」と話を切り出すまで僕は黙っていた。
「月谷芥くん、本当はもっと君が安定してから、と思ったんだけど……。
成り行き上、今話をさせてもらうね。
あたしと一緒に――」
「『スターダスト・オンライン』を消去してほしい――ですか?」
いつの間にか月谷会長の表情は、元の凛としたものに戻っていた。
姉さんが頷いた。
事情を察しているかのように彼は続ける。
「そのために〈キャリバータウン〉のレイドイベントを発動させる……。
オフィサーがプレイヤーを頑なに街の外へ行かせようとしなかった本当の理由がそこにはあるんですね。」




