おはよ
☆
――現在。 オフィサー、キャラロスト後。
目が覚める。
努々、自分は寝起きが悪いほうだと気を配っていたが、今日の目覚めは最高に心地が良かった。
立ち込めていた暗雲が晴れたように、肌に触る大気の感覚や、羽毛布団の心地いい摩擦、鼓膜を震わせる空間の微細な響き、全てが新鮮に思えてくる。
視界に映る色合いも輝いて見えた。
窓辺から覗く月明り、それに照らされた安っぽいベッド。
そんな特筆すべきことは何もない光景が愛しくて、思わず呼吸が詰まりそうになる。
というよりも、僕は長らくまともな呼吸の仕方も忘れていたんじゃないかと思えた。
喉を通る空気の流れがヤケに埃っぽくてむせてしまう。
咳をした声が聞こえたのか、呼応するようにどこかからノックの音が聞こえてきた。
ワンルーム……? マンションの一室だろうか。部屋にいるのは僕だけみたいだ。
ノックの音は外から発せられているようだった。
時たま郵便入れが開閉したりする音を聞くに、訪問者は相当在宅者――つまり僕のことが気になるらしい。
おもむろに頭に装着していたヘッドデバイスを取り外す。
後ろ手で器用にいじって金具を外した自分に驚愕する。
「あ……。 あぁ、そっか。 僕は『スターダスト・オンライン』をプレイしていたんだ。」
塗料が布を染めていくみたいに、じわりと記憶が蘇りはじめる。
今僕が寝ているのは正真正銘、自分のベッドだ。
都内有数の名門校・鳴無学院の学寮にある僕の部屋だ。
――3年前、『スターダスト・オンライン』が発売目前にしてベータテストで意識不明者数人を出す問題を起こし、急遽発売は中止。
開発者である姉さんは謎の失踪を遂げ、僕は凄くショックを受けて、ゲームに注ぐはずだった情熱を勉学に注いだ。
おかげで、志望校の中じゃ偏差値が群を抜いていた鳴無学院に入学することができた。
入学して数か月後、僕は偶々、学院内でのみ用いられるスマートデバイスの中にプリインストールされた『スターダスト・オンライン』のアプリケーションを発見し、プレイするための機具をいくつか用意して、自力でゲームにログインした。
3年前にテストプレイした時と同じように、『スターダスト・オンライン』は健在だった。
……でもあれ、どうして僕は途中までマニピュレート操作を忘れていたんだろ。
チュートリアルで【モルドレッド】に数十回とヤラれた記憶がある。
それと、他のプレイヤーの強力な兵装に手も足も出ずに撃たれ、切り裂かれた記憶も。
……不甲斐ない。 これじゃあ、テストプレイヤーとしての威厳がまったくないじゃないか。
どうして他のプレイヤーに攻撃されたか、僕は姉さんのつくった『スターダスト・オンライン』を遊ぶために、ゲーム内クラン”学院会”に敵対していた。
学院会は誰一人としてゲームをプレイしようとするプレイヤーが誰もいなかった。
皆がゲーム内の自己強化ばかりに励んで、キャリバータウンから出ようともしない。
そうだよ、それが嫌だったんだ。
僕は、プシ猫――クラスメイトである釧路七重の親友・瀬川遊丹をプレイヤーキルした犯人を捜しながら、【キャリバータウン】と呼ばれる、ゲームでいうところの”初期拠点”から逃げ出す方法を探っていた。
探すうちにリヴェンサーと呼ばれる熟練プレイヤーに負け、中学時代から互いに見下しあってた笹川宗次と一緒になって……やはり学院会によって殺された。
そして、学院会の中心的人物の”オフィサー”に遭遇し、僕は彼を倒して今に至る。
……いや違う。
倒したのはヴィスカという子だ。
「頭が痛い……」
ところどころで記憶の整合性が合っていないような違和感に襲われる。
記憶を辿ろうとすると、一定の期間だけノイズまみれになる。
特に、テストプレイしたときの記憶を想起すればするほど、身体に寒気が走る。
ドンッドンドンッ!
っと。
考え事をしていたらいつの間にかノックの音が激しさを増している。
「扉を破壊しかねない勢いだぞ。よっぽどの理由がない限り、弁償するのはこっちなんだからな」
ロックを解除しようとしたところで、不意にノックがなくなった。
今度は鍵穴をピッキングしてると思しき音が響いてくる。
……えぇ……。
そこまで来て尋常ならざる雰囲気を感じ取った。
というか、今の時刻は既に夜中の0時を廻っているわけで……。
そんな時間帯に乱暴なノックを数回。加えて、鍵をこじ開けようとする輩にまともなのがいるだろうか。
「いるわけないでしょうがっ」
こちらが結論を出すや否や、カチャリと軽快な音が鳴り響く。
脆弱すぎるトビラのドアノブがゆっくりと回り始める。
学寮部屋は全てが外開き、つまり僕からだと押す側だ。
僕の部屋は二階の一番端部屋であり、窓から逃げるには時間がかかるし、この訪問者に道を塞がれたら階段に向かうことも困難。
ならやることは一つしかありえないだろう!
先手必勝だ!
引かれて開きかかった扉を逆に押し込んで訪問者を払いのける。
「ヒェッ」
「離れといたほうがイイッスよ」
短い悲鳴と特徴的な語尾の声。
こちらが不意を突いたというのに、後者はまったくと言っていいほど危機感を持っていないようだった。
けれど構わず、僕はサンダルで上手く踏ん張りながら駆け出した。
尻もちをつく小柄な女性とスラリとした体型の女の子の丁度中心の空間を抜け、階段に向かってダッシュする。
「こりゃガチ逃げッスね。ついさっき会った美少女のことも覚えてないんスから」
後方で暢気な声が聞こえたと思ったら、言葉尻のあたりで急激に背後まで声が迫ってきた。
「よっ!」
彼女の一声とともに視界が反転する。
腰の痛みに呻き声をあげた頃には、僕の視界は雨どいの隙間から見える三日月を映していた
足払いされたらしい。ふくらはぎに鈍い痛みがある。
「ちょ、ちょっと紗矢っち! あたしの弟は病み上がりだから、あんま手荒に扱わないでってば!」
「手は使ってないッスよ。」
「減らず口」
「……はいはい、ドーゾドーゾ。 アタシには事情分からないッスけど、姉弟水入らずを楽しんでください」
機械的な駆動音とともに一つの足音が離れていく。
そして近寄ってくる聞きなれた歩幅の短い足音。
「おはよっロク」
夜空を仰ぐ形となった僕の視界には、紛れもなく、戸鐘波留――僕の姉さんがいた。




