道理とか罪悪感とか
『〈名無し〉……。』
自分でそう称したが、僕は彼女をそう呼ぶことに抵抗がある。
彼女はいわば、僕と同じ存在だ。
戸鐘路久〈ロク〉がゲーム内で受けたの悪影響を除去するために、用意されたのが僕だとしたら、〈名無し〉は〈ヴィスカ〉を苦痛から救うために存在しているスケープゴートだった。
彼女と僕の差異といえば、……彼女は〈ヴィスカ〉を想う一方で、僕は〈ロク〉に今も反感を抱いていることだろう。
〈名無し〉が〈トール〉を追い詰める動機は明白だったし、僕は大いに納得できてしまう。
ヤツのせいでヴィスカ――月谷唯花は何度も危険な目に遭わせられた。
刻み付けられた苦痛だって他人には計り知ることすらできないレベルだろう。
『〈ヴィスカ〉はこれを望んでいるのか?』
名無しではない、さきほどまで痛覚設定の効果で悶絶していた〈トール〉へと視線をやる。
砲撃から逃れるために塹壕へ無理やり身体をねじ込んでいたようだ。
その片腕は引きちぎれており、錫杖のビーム刃がじわじわとその装甲部を溶かし始めていた。
そんな満身創痍のキャラを借りて〈名無し〉は僕へ語りかけている。
『望んでいるよ? それとも何?
月谷唯花である私を疑っているの? あなたが?』
ひしゃげた首をさらに傾げて〈名無し〉はクスクスと笑い声をあげた。
僕の心の内を彼女は全て把握しているようだった。
〈名無し〉がヴィスカを守って被った苦痛は、紛れもなく月谷唯花のものだ。
故に彼女も〈月谷唯花〉だ。
そうでなきゃ……、あまりにも救われない。
疑うこと自体、酷い侮辱だ。
『…………』
それでも僕は〈ヴィスカ〉が告げてくれた言葉にすがろうとしている。
ヴィスカはこのスターダスト・オンラインで〈学院会〉や〈古崎徹〉を中心とした争いを嫌っていた。誰もが楽しめる『スターダスト・オンライン』の世界を守りたいと願っていた。
〈名無し〉がやっているのはその真逆に位置する復讐だった。
『貴方は”逃げようとしている”。
私の贈り物をまだ使っていないのがその証拠。』
『〈トール〉を操って僕に【スティングライフル・オルフェウス】を渡してきたのはキミだな。
どうしてそんなことを?』
『状況が変わったから、としか言えないね。
あの邪魔な私の兄さん――月谷芥が月谷唯花の身体を生き永らえさせていたなんて、私もヴィスカも知らなかった。
本来なら、イチモツさん。
貴方がこの仮想世界に残ると決めた時点で、私は刺し違えてでも〈トール〉と〈戸鐘波留〉をキャラロストさせてこのスターダスト・オンラインを守り抜こうと思ったの。
その二人さえ封じれば、〈学院会〉は自滅するだろうし、〈戸鐘波留〉がスターダスト・オンラインを消去するまでの時間稼ぎをすることもできたはず。
……仮にスターダスト・オンラインの消去が免れなくても、貴方と〈ヴィスカ〉で冒険する時間を工面することぐらいできる。』
名無しが打ち明けた元々の計画は、僕が予想していた最良の結末だった。
僕も、〈古崎徹〉や〈ロク〉を止めたあとは、波留に頼み込んで僅かな時間でスターダスト・オンラインを楽しもうと思っていた。
この身体がスターダスト・オンラインごと消去されるにしても、されないにしても、だ。
〈イチモツしゃぶしゃぶ〉が抱いた”ゲームをプレイしたい”という希望を果たしたかったのだ。
でも、ヴィスカが元の世界に戻れるというなら話しは別だ。
彼女は月谷唯花として現実世界で生きてもらいたい。それが僕の最優先されるべき願いだった。
しかし、だ。
『それだと、僕に【オルフェウス】を渡す理由にはならな――』
『――なるに決まっているだろう!! このバカ主人が!!!!』
腹底から響く慟哭が僕の喉元を震わせた。
これは僕の言葉じゃない。
グリムのものだ。
〈名無し〉も唐突な怒声に目を丸くしていた。
僕に寄生しているクリーチャー、グリム・キメラの存在は、たとえ彼女であっても知らなかったようだ。
『(グリム!? いきなり大声出すなよ。 僕が一人芝居しているように見えるだろうが)』
『限界だ! 主人は鈍感すぎる。 いいか、ヴィスカも名無しとやらも、主人のことを好いている!
だから、キミに現実世界で戸鐘路久として生きて欲しい!
単純な考えなんだ!
シンプルだ!
クリーチャーの私にでもわかる!』
『(違う! ヴィスカはそれを望んじゃいない! 少なくとも、彼女はロクに現実世界へ戻ってほしいと願っているはずだ。)』
『ヴィスカも主人も! 自分を優先しないバカだからそういうんだ!
私や名無し殿を見習え! 自分のことが一番好きだから、こうやって身を粉にして働ける!
わからないか?
ヴィスカは罪の意識に囚われて、ロクの幸せばかりを優先している。これは呪いだ。
彼女は、ロクという人物を危険な状態に追い込んだ負い目がある。
だから、ロクを生かしたい。
理解はできるが、それじゃあ彼女自身の気持ちはどうなる?
〈名無し〉殿が彼女のために耐え忍んだのは、〈ロク〉のためではない!
〈ヴィスカ〉が好き勝手に自分の感情を曝け出して生きることが、名無し殿の願いだからだ!
主人はヴィスカが……月谷唯花が幸せに生きるために必要な存在だと、名無しは認めている。
それに、主人も本心では同じことを願っている……。
スターダスト・オンラインの外でもヴィスカと一緒にいたい、って。
ならやるべきことは一つなんだ。道理とか、罪悪感とか、全部、私や名無し殿に任せればいい。
でも何もせずに、二人が消えることを選ぶのは、私たちが納得できない!
……許せないっ』
――だから〈ロク〉と、戦ってほしい……。
グリムはそう締めくくった。
『グリム……って呼んでたよね?
――グリムさん、ありがとう。そっか、私と同じ考えの子がいてよかった。
……うん、救われたかも。』
名無しがグリムに呼び掛ける。
僕以外の誰かが初めてグリムと意思疎通をした瞬間だった。
グリムは何も返事をしなかった。ただ一つ「主人に従う」と言い残したキリ、黙り込んでしまう。
〈名無し〉は数秒の沈黙のあと、仕切り直してこう告げた。
『早い話がね。 戦って勝ち取れってことなの。』




