厭世の果て・後
間違って現実世界に繋がったマイク音声がONになったのだろうか?
その声は明らかに私へ向けられたものではなかった。
生活音の騒めきも酷い。
複数人の男が何かを話、時たま、私の面倒を見てくれている看護師さんの一人・鶴岡さんの声が混じってくる。
喋り終わったのか、衣服の布切れ音が何度か聞こえた後、一度ガコンとはっきりとした衝撃音が響く。
『――さて、まさかM.N.C.(マス・ナーブ・コンバータ)にこのような使い方があるとは思ってもみませんでした。
ですが。
改めて考えなおしてみますと、確かに。
我が【エンドテック】社の開発したマス・ナーブ・コンバータのVR技術は、近年みられるビデオゲームのVRモドキとは一線を画す仮想現実を使用者に体験させることができます。』
[木馬太一]と名乗っていたその声は、さっきと打って変わってクリアに聞こえてくる。
どうやらマイクの前に彼らは腰を下ろしたらしい。
『これを娯楽に使うとなれば、まさしくプレイヤーには”もう一つの世界”を提供することができるでしょう。
……わたくし、ゲーム界隈には疎いのですが……再度、その……ゲームの名前を聞いてもよろしいですか?』
木馬太一の問いに、マイクから遠い声が返事をする。
『【スターダスト・オンライン】。』
すたーだすと、おんらいん……。
しゃがれた低い声で、老齢の男性から発せられたものだとはわかった。
けれど、その声音は驚くほどに通りがいい。
”ドスが聞いてる”と形容できるかもしれない。
『お前ら【エンドテック】を初めとする夷敵どもから、日本を取り戻すために造られる”刀”だ。
我々には外国企業を呼び込んでしまった責任がある。
それは晴らさねばならない。』
『……は?』
老人の言葉に木馬太一が間抜けな声をあげた。
でも彼の気持ちは部外者である私にもわかる。
今の会話はゲームの話題だったのに、この老人は急に夷敵だの刀だの言いだしたのだから、困惑するのは当たり前だ。
『会長……。 木馬さん、こちらが用意したランタイムアプリへM.N.C.を接続するまでの作業をよろしくお願いします。
――申し訳ございません。
少々会長の御具合が優れないようなので、待合室をお借りして休憩させてもよろしいでしょうか?』
今度は3人目の男が会長と呼ばれた老人とは打って変わって冷静に断りを入れる。
看護師・鶴岡の声が小さくだが聞こえた。
そこから一旦会話は途切れたようだった。
「すみませーん、私まだ仮想現実にいるんですがぁ!」
声をあげて聞いてみるも、こちらの声を届けられるスピーカーやヘッドセットの類を用意していないようで、返事は返ってこない。
代わりに木馬太一の独り言らしき呟きがまた流れてくる。
『……な、なにか失言したか?
石橋さんからの伝手で、あの古崎牙一郎に謁見できたというのに、ただ不機嫌にさせたとなれば、この木馬太一のキャリアに傷がつきかねないからな。
にしても医療機器をゲームに使うという発想には恐れ入る。
医療大麻といい、アルコールといい、人間ってのはつくづく医療を娯楽や嗜好に使いたがる。
口は災いの元、か。
――おれはサラリーマンとして御上に従うだけですな。』
「古崎牙一郎……。」
その名前を思い出すには私自身、時間が必要だった。
けれど思い出す前にVR世界に異変が起こる。
『ふむ。ランタイムアプリとはつまり、この【スターダスト・オンライン】というゲームがM.N.C.を介してプレイできるか判断するもの、というわけですか。
はは、M.N.C.という庭にミントの種でも撒く所業ですな。
【エンドテック】の足手まといにならなきゃいいです――がっ、と。』
キーボードを叩く音が聞こえた途端、ボイスチャットの音質にノイズが走る。
それどころか真っ暗闇だった地表に砂利っぽい大地を踏む感触が生まれた。
「な、なに……これ?」
暗闇だった目の前が一瞬の光に飲まれていく。
次に感じたのは土埃と鉄臭さに満ちた大気の流れだった。
そして光が晴れると現れたのは、ツートンカラーの世界だ。
紺色の闇が天井に、白っぽい干からびた大地が地上に。
イタリアの鮮やかな緑と青に彩られた山岳はどこへ行ったのか。
少なくとも私は音声ガイドに向けて命令をしてはいない。
外界の木馬太一という人物が仮想現実に何か仕掛けようとしているのだ。
「……なんなの。」
”リラクゼーションエリア”と呼ぶには、あまりにもかけ離れすぎている荒廃とした大地。
辺りを調べて何か外界へ自分の存在を知らせる方法はないか探ろうとする。
けれど見渡す限りにおいて、見えるものは干からびた草木、家屋の名残らしき鉄骨のオブジェ、そして小規模なクレーターらしき窪みだけだ。
「痛っ……」
両脚を踏み込んだ瞬間、前のめりにガクリと倒れこむ。
「脚への負荷が有効になった? リハビリテーションプログラム外なのにっ。」
いやそれよりももっと酷い。
倒れこんで思わず着いてしまった手のひらに砂利が食い込み、僅かな痛みを訴えている。
それが何を意味するか、考えることすらゾッとして私は大きく取り乱す。
「聞こえてないの!? 園田先生!
……まさか、あの猫撫で声のおっさん、先に帰ったの!?
自分の患者を残して……?
――鶴岡さん!!
月谷です! まだ私はM.N.C.の中に取り残されてます!」
リハビリテーションプログラムでは、ケガを負った患者は現実世界の肉体状態へ徐々に意識を慣らしていくことが可能だった。
これのおかげで、肉体は既に健康なのに、ケガを負っていたころの意識が邪魔をして元の生活に戻れなくなる状態を緩和することができる。
けれどそれらの過程では、痛覚なしでは行えないリハビリテーションも存在する。
痛覚とは本来人間の生物としての防衛機能だ。
痛みを無効にしてVR内でリハビリを行っても、現実世界でのギャップは大きく食い違い、意味をなさないことは多々ある。
故に、M.N.C.(マス・ナーブ・コンバータ)には使用者に痛覚を伝える機能が存在する……。
VRによるリハビリ以前に、園田から聞かされた説明が頭をよぎっていた。
砂利と砂の混じりあった地上を歩くと、何かの破片らしき突起物が足の裏を裂いてくる。
ひりひりとした痛みがあって、素足を覗くと血は一滴も垂れていない。
本当に痛みだけがリアルに伝わってくるのだ。
「そ、そうだ。ログアウト。こっちから自発的にもできたはず。
音声ガイド! ログアウトを開始して、プログラム終了。
私をここから出して!!」
気づいて声を張り上げるが、音声ガイドはうんともすんとも言わない。
「じゃあ!負荷! これじゃまともに走れない。
こんな脚いらない! VR空間くらい痛みなんか忘れて走らせて!」
相変わらず返事はない。
言い知れぬ孤独と絶望感に苛まれながら、刺すような痛みを与えてくる大気や砂利を避けて、その場に座り込んでうずくまる。
一瞬だけ、地鳴りのような音が響いた。
確かめようと地上に耳をあてると、今度は木馬太一の鼻歌混じりの独り言がけたたましく邪魔してきた。
『ははっ、M.N.C.のリラクゼーションエリアが何百倍と需要がある気がしますね。
宇宙の星々に移転した人類が主役のゲーム、と石橋さんはおっしゃってましたが、こんなものが果たして売れるのでしょうかねェ。
所詮は現実に居場所のない連中が群がる、惨めったらしい空間になるに違いない。』
「…………惨め……っ。」
耳に入ってきた言葉をそのまま反芻する。
あぁ。そうだ。彼の言う通りかもしれない。
どちらにせよ現実世界でも私は惨めなのだ。
足が動かなくなって、仮に退院したとしても、陸上もパルクールもできない。
母の小言から逃げ出せず、父には関心すら持たれずに、兄からはひたすら同情される。
待っているのはそんな現実だ。
……痛み感じるが、動ける脚があるだけこの世界のほうがマシだ。
そう思うと、少しだけ気分が楽になる。
覚束ない足取りで立ち上がり、腰についた汚れを払う。
ポジティブに考えよう。今は誰の監視もない。そういうこと。
なら存分にこのVR空間で出来ることを試してみよう。
そんな決意をしたところで、急激に私の背後が暗くなった。
天上は紺色の夜空が広がっているのに、影が差すというのも不自然だが、私の背後に何かが鎮座したのだ。
『――続いて、AI操作によるクリーチャーが正しく動き回れるか否かのテスト……。
巨躯の化物で名前は【ジェネシス・アーサー】、ビジュアルは悍ましいな。』
振り向くとそこには、巨岩のような肉体を侍らせた獣がいた。
「う、そ……。」
『えらく動く。 まるで何か獲物でもいるかのような動きだ。
そういうモーションを読み込ませているのか?
――でもこれじゃあ、”制止状態”のチェックができないじゃないか。
バグか?』
「――――ぁ」
暢気な木馬太一の声とは対極的に、私は声すら上げられなかった。
目の前にいる人知を超えた化物は、鬼や巨人と形容できる10m超えの巨躯でこちらに向かってくる。
開いていた距離がすぐに縮み、化物は何の躊躇いもなく私の身体をその巨腕を私に振り上げた。




