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厭世の果て・前

 

 …………。

 ………。

 ……あぁ、これが〈月谷唯花〉としての”最後”の記憶か。


 

 …………。


 水面が珠の飛沫をあげて砂浜を打ち付ける。

 弓状に広がる海岸には他の遊泳客はおらず、動きのあるものは本当にさざ波くらいなものだった。

 しかし、それすら規則的すぎて徐々に生きている風景に思えなくなる。


 浜辺に立つ足元には、押し寄せた海水が私のくるぶしを抜けていった。

 海水と体温の境がはっきりして、なんだか気持ちが悪い気がした。

 体温調節の機能が働いたのだろう。



『脚の負荷・感覚神経の損耗に慣れていきましょう。

 ハンディ・キャップ設定を20%まで上昇します。

 ボディ・センシティブをオフにします。


 ――それではリハビリテーションプログラムを開始します。

 本日も頑張っていきましょう。』



 電子音声の案内に従って、私はガクリと沈む膝や腿の感覚に身構える。


 二脚で大地を蹴られることは偉大だ。

 誰よりもそれを理解している自負はあったが、この場所に押し込められて再確認させられていた。

 それに、肌を包む外部の刺激もリハビリが開始されたことで消え失せる。

 外見はちゃんとした生足を晒しているが、私自身にはつっかえ棒が脚に挟まっているような感覚があった。



『アクティブストレッチ項目をクリアしました。

 健康状態に問題はありません。

 引き続き、インターバル走項目へと進みます。

 競争相手のダミーを用意することができます。

 使用しますか?』



「する。月谷芥の外見にして。」



『かしこまりました。』



 機械的な受け答えのあと、砂浜には不自然な人影が現れ、やがてコントラストがちょっとずつハッキリする形で兄さんの姿を模った。

 

 このガイドが彼を用意したわけではなく、私自身が兄だと誤認するよう、神経活動に呼び掛けているらしい。詳しいことはわからない。


 腿付近と砂浜を隔てるつっかえ棒を用いて私は走り抜ける。

 競争相手である兄の速度レベルは、一般人に設定してあったが、それでも私よりはるかに軽い足取りで砂浜の丘陵を走破していく。


 足首の動きは全てAIが行ってくれる。

 けれどそれに身を任せられるほど、身体の反射は器用じゃない。

 砂によってかかる不安定な負荷に、人工知能が対応しようとすればするほど、動きは複雑になり、操られている私自身が枷となって上半身が前のめりに転がる。


 痛みはない。

 


『心拍数の大きな乱れを確認しました。

 トラブルシューティングの結果、ダミーの消去を行いました。

 心の負担になるイメージを避けてください。』



 電子音声ガイドのくせしてこちらの心を慮るのは笑える。

 そのまま砂浜に仰向けになって、今にも夜に切り替わりそうな桜色の空を眺めた。



「”湯本紗矢”のダミーを用意して。」



『かしこまりました。』



 心配したわりにすぐ別のダミーを用意する辺り、やはりこのガイドも人工知能だ。

 兄さんと同じようにして、あの日の恰好と何も変わらない湯本紗矢が現れる。

 相変わらずズボンの裾から覗く義足の反射光には胸が締め付けられる。

 

 ……思い出すのはあの後のことだ。



 私は湯本紗矢と兄さんの説得で家族の元に返された。

 そこで待っていたのは両親の手厚い待遇ではなく、ただ責めるような口調で私の将来に一切責任はとらないと告げられた。

 けれど兄さんが一度怒鳴ると、母親は意見をすぐさま変えて私に謝ってくる。

 何に対して謝っているのか、本人もわからない様子で、だ。


 父親のほうは兄さんに言われたことが癪に障ったらしく、そのままいつも通りの日常に戻っていった。

 


 一方で湯本紗矢はその後、私に一つの連絡先を教えると「しっかり家に帰るから」そう強く念押しして一人で帰路についた。

 また叔父夫婦の家で彼女は古崎グループへの復讐計画を考えるのかもしれない。

 それを思うとやるせない気持ちになる。


 ”古崎”グループだったあの男がどうなったかはわからない。

 私や湯本紗矢は顔も見られていないし、名前が知られたわけでもないので、私たちを追うことは困難だろう。


 彼女の連絡先である電話番号は、彼女との別れ際にしっかり繋がるか確認した。


 けれど、数日すると電話自体が解約されて彼女の行方は完全に分からなくなった。

 頼りないと思われたのだろうか。

 まぁ、あそこまで実の兄に取り乱すところを見せられたら当然かもしれない。



 結局私は、湯本紗矢という”出口”を失ったのだ。

 彼女は、月谷芥が中心である現実から逃れるための、唯一の脱出路だと思えていた。



 そのあとの日々はひたすら空虚なものだった。

 一時は全寮制の高校を探すことに明け暮れた。学費の足しになればと、中学生でも許可が下りるバイトをいくつか行い、都度母親に見つかって兄の足手まといと罵られた。

 

 いや、そんなことは些細な問題だったと思う。

 けど、その頃には私は疲弊しきっていた。

 海外留学も視野に入れた進学校へ兄が入学したことで、母親の私への監視は更に強くなり、一方で兄はその万能さを遺憾なく発揮して、父親の劣等感を逆撫でた。


 家の中では暗雲が立ち込めているはずなのに、兄の周りだけは台風の目がごとく煌びやかな交友関係が構築されていった。


 おかげで私は他人の目を恐れながら、兄の足手まといにならないように生活することを強いられた。



 そしてとある日の朝、あろうことか私は自宅のすぐ前の交差点でふらつき、横断歩道の真ん中で倒れてしまった。

 当時の記憶はあまり覚えてはいない。

 唯一はっきり覚えているのは、倒れた私に気づかず左折する中型トラックの唸り声だ。

 フロントタイヤが緩慢に回転して――――何かに乗り上げたことくらいだ。




 …………。

 その後の経緯自体は、音声ガイドを通じて語りかけてきた医師に聞かせてもらった。

 車両事故により、大腿骨及び脛骨は複雑骨折。

 関節及び神経系にも多大な損傷があるそうだ。


 どうして今、こんなに冷静に話せるのか、それは私が念願叶った現実ではないどこかにいるせいだ。

 【ます・なーぶ・こんばーた】という最新の医療機器は、患者をバーチャルリアリティーへと誘って、その中で外傷を受けた現実の肉体とのギャップを無くすためのリハビリテーションが行えるというものらしい。


 だからこそ、兄や湯本紗矢の偽物を作り出すこともできる。

 リラクゼーション用に夕日の砂浜を選ぶことだって可能だ。



 私・月谷唯花にとってここはある意味楽園なのかもしれない。


 

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