月谷唯花が死に至るまで。Ⅻ
「あ……っつ……ぁぁ……!!」
遅れて左足に激痛が走る。
わずかな熱を感じたと思った途端に、何かの工具で肉を挟まれ固定されたような痛みが押し寄せる。
脚はいうことを聞かず、少しも浮かせることができない。
脱力してアスファルトに面した膝が擦れ、骨まで抉られているように思えた。
しかし秒の速さで徐々に血の気が引いて、その感覚すら掠め取っていく。
視界の隅で手から離れたスマートフォンが転がっている。
拾い直そうとしたところでまた銃声が響く。
慌てて手を引っ込めて両腕で頭を覆う。
その行為にまったく意味がないことくらいわかっていたが、反射的にそうしていた。
私の頭を狙ったのだろうか、耳元に「ボッ」と空気の塊が通過した音を聞く。
それと同時にスマートフォンが弾かれて、二度三度、宙を回転して落下した。
「……よか、った……」
スマートフォンの画面には風穴が空いていた。
バッテリー部に命中したのか、わずかに火花のようなオレンジ色が見えた。
素人目からみても、スマートフォンが完全に破壊されていることは明白だった。
あれが壊れてしまえば、とりあえず湯本紗矢に危険が及ぶことはない。
猛烈な痛みに襲われているのに、彼女が助かったことに安堵を感じた自分が誇らしく思えた。
「っめぇぇ、今すぐぶっ殺してやる。 身元調べて家族にも同じ末路追わせてやるからよぉ!? くたばってんじゃねえぞ」
半狂乱の男の声が相変わらず背後から聞こえてくる。
その表情を見るのが怖くて振り向けなかった。いっそ背後からもう一発撃ってくれたらいい。
だってもう後の祭りだ。
乱射なんてせずに、私の脚を撃ちぬいた時点で拳銃を使わなければ、確実にスマートフォンを奪い返すことができたのに、彼は怒りに任せて手掛かりであるソレを誤射してしまった。
挙句には家族を殺すと来た。
望むところでもある。こいつはつまるところ、ヤクザとかどこぞのグループの末端にしかなれない男だ。
こんな時間にこんな危険な場所をほつき歩いているガキが、家庭に満足していると?
脅す材料に足るものだと?
「バカバカしい……。
殺せばいい。
お母さんが私を邪魔者にする世界も、お父さんが私に興味がない世界も、全部兄さんが掻っ攫って端役を強いる世界も、もう懲り懲りって言ってるの!!」
荒い呼吸の吐き出すタイミングでこちらから怒声を返す。
男の脅し文句が途切れた。
虫の息だった対象がいきなり叫び出したら多少は驚くだろう。
一度怒鳴ったら、変な酩酊状態に入ったみたいだった。
この心地よさはちょうど、走っている最中に包まれる快楽と似ていた。
徐々に何も考えられなくなって、今いる現実から別のところへ剥離していく感覚だ。
「……ぁ。」
ふと手に触れた何かを掴みとって視界のピントにあうよう持ってくる。
それはスマホから千切れた猫のストラップだった。
ストラップの底には”さやからパパへ”と下手くそな字で書かれている。
……プレゼントかな。湯本さんは愛されていたんだ。
目を瞑ろう。あとは殺されて終わりなのだから、そう悟ったところでようやく違和感に気づく。
違和感の答えは、背後の声のおかげでわりとすぐに出た。
「お姉ちゃん、大丈夫……?」
恐る恐る振り返ると、そこには湯本紗矢がいた。
彼女はへたり込んで私の脚に自身の衣服を押し当てて血を止めようとしていた。
こちらを追ってかなり急いで来たらしい。彼女の呼吸は酷く苦しそうだった。
……男の姿はどこにもいなくなっていた。
「へ、平気。最初は痛かったけど、今はあんまり感覚がないというか。」
「ごめん、なさい。 あたし分かってなかったの。
お姉ちゃんがここまでしてくれるって思わなくて、さっき、手伝ってって言ったときも、あたし、自分のことしか考えてなくて。」
呼吸が苦しそうな理由は、そこに嗚咽も混じっていたからだった。
目を腫らして泣きじゃくる彼女は、脚の傷口をどうすればいいか分からず、ただ必死になって止血を試みている。
見ているこちらが痛々しい気分になる。
「そんなことないよ。私がしたかったらからそうしたの。
――ごめんね。 スマホ、壊れちゃった……」
脚を引きずりながら、彼女に向き直って壊れたスマホとストラップを手渡す。
「……頬、どうしたの? 腫れてるよ?
――まさかさっきのあいつに……!!」
「大丈夫。あたしのよりお姉ちゃんのほうが心配だよ!」
湯本紗矢は頻りに首を振って再び私のケガの具合を見ようとする。
けれど、そもそもあの男の行方を知らなければここで悠長に留まるわけにもいかない。
「男は? 湯本さんが倒したの?」
「ううん。”あたしじゃないよ”。
……あの人が」
彼女は一度目を伏せると、路地裏の丁度境、ビル間の最も狭い箇所から現れた人影を指さした。
それがケガによるものなのか、精神的なトラウマによるものなのか定かではなかったが、私はよく見慣れた兄・月谷芥の姿を確認すると、全身の血の気が引いていく感覚に襲われた。
「紗矢、無事か?」
兄さんは眉根一つ動かさずに、変わり果てた私を眺めて、憐れみの表情をを浮かべていた。




