月谷唯花が死に至るまで。Ⅺ
剣技の巧みな漫画のキャラクターのように、”手ごたえ”を確認する暇はなかった。
着地地点を若干見誤った。
跳躍がうまく行かず、男の斜め上から体当たりする形で私の身体は彼と衝突した。
「がはっぁあァ!!??」
ただはっきりしているのは、目まぐるしく反転を繰り返す視界に、血の雫と舞っていたことだけだ。
クッション代わりの男を隔てて地面へと激突する。
いくら女子供の体重一人分であっても、落下の衝撃が合わさればそれなりに威力になる。
というか、私も凄く痛い。
撃たれてしまったのではないかと疑うが、内心で必死になりながら「銃声は聞いてない聞いてない!」と自分に言い聞かせている。
受け身を取ってそのまま地面を蹴り、無我夢中で男の持つスマホへと手を伸ばす。
シックな黒革のケースに、あまりにも似つかわしくない毛玉型の猫ストラップが彼の手から垂れていた。
男のどこから流れているのか分からない血が、彼の手にべったりと貼りついている。
それでも勢いのままに手を掴んで無理やりスマホを握った手のひらをこじ開けようとした。
もし片時でも恐怖を感じたら、足が動かなくなってしまう気がした。
だからそう感じてしまう前に行動に移す。
けれどそれは悪手すらも躊躇わずに選ぶという意味になる。
顔を抑えて仰向けに倒れこむ男の手を開かせようと努めたが、こちらの目的がスマホだと露見するや否や、男は闇雲に腕力を駆使こちらの手を振り払う。
それだけでもこちらには脅威だ。
左肩に男の拳があたり、思わず倒れそうになった。
ふんばって今度はスマホの手に蹴りを喰らわせた。
おそらくは湯本紗矢の父親のものであろうスマホとストラップがひしゃげるのを見て、多少戸惑いがないわけではない。
けど、この際スマホ自体が壊れるのも良しだ。
データが復元できないくらいに壊す!!
蹴り上げ、弾かれたスマホがアスファルトを滑る。
あとはアレを拾ってこの場から立ち去るだけでいい。
一心不乱に駆け出すも、左脚を掴まれて無様に身体が地べたに倒れこむ。
「てめえがスマホで盗聴してた犯人か! 生きて返さねえぞ!!
ガキでも容赦しねえ!」
頬を大量の血で染めた男が、鬼の形相でこちらを睨んでいた。
空き缶の刃は彼の片頬を大きく切り裂いていた、
私と同じく地面を這って、暗闇から電灯の明かりの元へ入ってくる男は、今まで観たどんなホラー映画の化物よりも恐ろしく思えた。
悲鳴を我慢することはできなかった。
「はっ、はは。ガキで……しかも女か!」
振りほどけない掴み上げられた脚と自由な片足で男の腕を何度も蹴る。
しかし、万力で締め上げられ足首の骨が軋むような感覚に囚われる。
相手は余裕ができたのか、のそりと上体を起こすと所持していた拳銃を取り出す。
警察官が持っているのとは違う。
映画やアニメでしかその存在を知らない黒光りする銃口がこちらを向く。
「あ……ひっ」
頭によぎるのは、糸が切れたように非常口マークと同じ格好で倒れこむ中年の姿だ。
自分もあんな風に変なポーズをとりながら地面に張り付くのだと思うと、途端に憤りを感じた。
ビルの最上階から何度も跳んだ身の上だ。
今更死ぬことなんて……怖いけど、恐れる必要はない。
むしろ喜ぶべきことだ。
私は今、兄とは無縁の世界で、”勝手に”生死を争う戦いを繰り広げている。
多少仰々しい表現だけど、兄を私の世界から排出することができたのだ。
家出用に使っていた兄のクレジットカードももう捨てよう。
いっそ湯本さんに全面協力して、私の物語は彼女を主役にするのもいいかもしれない。
「そのためにッ! 」
こちらの片足を引っ張って拳銃の狙いを定めようとする男へと、両腕を使って逆に身体を接近させる。
急に抵抗する力がなくなったことで男は片膝を立てた状態を崩し、銃口はこちらから僅かに外れた。
引き金は引かれ、どこかの電灯付きの看板が派手な音を立てて砕け、地面へ落下する。
耳をつんざく銃声と至近距離で破裂した弾丸の煙が、全身を萎縮させる。
「この距離で避けっ――」
無我夢中で男の顎を両手で持ち上げて再び地面に押し込んだ。
そのまま男は強く後頭部を打ち付けて呻き声をあげる。
掴まれた脚の力が弱まり、すぐさま腕から逃れると、私は更に彼へと追い打ちをかけた。
自分がされたら嫌なことは他人にもするな、そんな小学校で習う教訓をガン無視したスタンピングで、血に染まった男の顔面を何度も踏みつけてしまった。
男が途中で顔を庇おうとしたのを見計らい、踵を返してスマホを拾い上げる。
あとは逃げるだけ――!!
メインストリートの騒々しい灯りと行き交う通行人の影が見え始める。
ここまでくれば、あの男も無暗に発砲することはできないはず……。
けれど結局のところ、私は憤慨した人間がどのような行為に及ぶのか、藤沢さんとの一件があったにも関わらず何も学んでいなかった。
背後で銃声が立て続けに3回鳴り響く。
表通りを行く人の影が止まるのが見えた。
同時に私の脚がもつれて、路地裏から抜けるまであと数歩のところで倒れこむ。
後ろを振り向くと、1mほど伸びた真っ赤な足跡が私へと続いている。
それは言わずもがな、私の左足から流れたものだった。




