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月谷唯花が死に至るまで。Ⅶ


 足首と膝で衝撃を和らげながら、室外機の頼りない外装を踏みつける。

 一昨日は金具が外れて危うく落下死しそうになった。

 錆びついているものはダメ、着地位置はなるべく留め具の根元を意識して足を添えるように置く。



「そこから一気に跳躍っ!!」



 ガコンッと嫌な音は聞こえたが、私が跳びあがった後のことなので無問題。

 梯子が上がって地上からはアクセスできない非常階段の手すりを掴み、駆けた勢いと両腕の膂力で身体をベランダに投げ込む。


 時刻は今0時を回っただろうか?

 繁華街の路地裏はいつまで経っても、メインストリートから漏れる眩い光で照らされている。

 夜中でもこうやって移動できるのはありがたいことだ。



 怒号放つ中年が路地裏に入ってくる。

 壁に身体を張り付けて配管の出っ張りに身を隠す。


 火照った体温と壁の冷たさが合わさって、おでこに溜まりそうになった汗が引っ込んでいく。

 ビルの中は何かの飲食店だろうか、壁伝いでアップテンポの洋楽が聞こえてくる。

 それに耳を澄ませているとやがて、怒り狂った中年は脅し文句をやめると路地裏の奥へと進んでいく。

 既に私は先を行ったのだと勘違いしたらしい。

 

 フードを外して自前のミドルとロングの境目っぽい髪を晒す。

 捲っていた両脚の裾も降ろして、服装の印象を変える。



 藤沢さんと別れて3,4時間、さっき追いかけてきたのは藤沢さんに声をかけた中年ではない。

 詳しくは逃走中だったからわからないが、中年はまるでリレー走のように3人で交代しながら私を追いかけてきた。

 けれどその3人目の中年もまた、ここまで長丁場の追跡になると思っていなかったのか、路地裏の奥へ進む彼は殆ど歩いて去っていく。



 晴れて鬼ごっこは終了した。

 

 非常階段を上って、最上階までたどり着く。

 当然、屋上へ出るための入口は鍵で閉められていたが、非常階段の手すりから屋上のフェンスに直接飛びついて乗り移る。

 ほんの少しの間、高さ10mの中空へ身体が投げ出されたというのに、感覚がマヒしていたため、まったく高揚感なくこなせてしまう。


 飛び移ったあとで「これ落ちたら死ぬな」と認識するのみだ。

 窓の桟に溜まったゴミの塊を取ったみたいな気持ちに近いかも。


 けれどそれじゃ意味がない。

 兄を中心に動くこの世界から逃避するには、もっともっと剥離していかないと。



 ビル間を飛び移って、その助走のままに別のビルへと飛び移る。

 高さの合わないビル間には身体ごと転がって衝撃をいなしながら、それでも勢いのままに走る。


 外国だとこれは”パルクール”と呼ばれるスポーツだと認知されているそうだ。

 けれど、日本じゃ比較的家屋が脆い材質で作られているため危険性はかなり高い。

 こんな風に、他人の迷惑も自信の危険も省みずに走っている人間はいない。


 階下の繁華街は地獄の窯のような灯りをギラギラと地上にまき散らしているが、その分、屋上は閑散としている。


 もちろん田舎の夜と比べれば煩いことこの上ないが、こういうのは相対的に考えてしまうのだ。

 煩い人が隣にいれば、普通な人は静かに見える。

 天才が隣にいれば、他は凡才に成り下がる。



「――お姉ちゃん、そこも飛ぶの?」



「え、へ、あっ!」



 あり得ない場所で声を掛けられたせいで理解が追いつかない。

 給水塔の下をくぐって向かいのビルに飛び移ろうとしていたのに、あろうことか派手におでこをぶつけてコンクリートの床に仰向けでぶっ倒れる。



「……大丈夫?」



 夜の繁華街には似合わない女の子の声だった。

 ……といっても私もそうか。

 彼女は持っていたスマートフォンの照明を使って私を照らした。



「う、うん。えっと、……私から先でいい?それとも、言う?」



「えっと、じゃあお姉ちゃんのほうから。

 どうしてこんなところにいらっしゃるんですか?」



「趣味です。」



「……怪盗とか、スーパーヒーローとかじゃなかったんですね。

 ごめんなさい。どこからが趣味ですか?

 悪漢から逃げること? それともビルの間を飛ぶこと?」



「あれ、どうして追われてるの知ってるの?」



「コレです」



 彼女はスマートフォンの画面をこちらに向けてくる。

 その際に彼女のほうに照明があたったことで姿が露わになる。

 丁度私と同じくらいの髪の長さと、外国人の血を引いているのか暗闇で鮮やかな瞳の色が反射している。

 背丈は私よりも低かった。

 けど、それらの特徴が霞むほどに目立ったのは、彼女の両脚だ。


 太腿付近がゴム毬のように太く、足元は靴の代わりにズボンの裾から金属製の何かがわずかな灯りに煌めいていた。

 片腕には杖を持っているあたり、もしかしたら歩行のためのギプスか何かを嵌めているのかもしれない。



 彼女が示したスマートフォンの画面は通話中になっていた。

 耳を傾けると、ついさきほどまで私に浴びせられていた中年の声が聞こえてくる。



『申し訳ありませんッッ!! さっき兄貴襲った野郎、取り逃しました!!』



『ぁあ? 絶対捕まえろつって、他にも2人やったろうが?

 ――いいか?

 否応なしに俺を襲ってくるってことはよ、確実に”古崎”の連中に関わりがある輩だ。

 まして、今日の会合に合わせて襲撃紛いのことをしてきたんだ。

 カシラの前にそいつ突き出して、”古崎”のシマ荒らしやめさせんだよ!!』



『で、でも、あのガキ。塀とか上ってすばしっこくて……。』



『言い訳はいいんだ! あと十分と経たずに古崎の連中とカシラがここに来る。

 カシラは正式に古崎グループへ屈するつもりだ。

 んなこと、させてたまるか!』



 ……心当たりのある声が二人そろって聞こえてきた。

 


「これやったの、お姉ちゃんでしょ。

 出会いがしらにタバコの吸い殻をパイ投げされたって、この人たち怒ってた。」



「…………わ、私じゃないよ。」



「でも塀とか登って逃げる人なら、ビル間もしそうだなってあたしは思ったんだ。」



 彼女はニコリと笑ってスマホで再度私を照らす。

 あまり、他人に灯りを向けられるのって好きじゃない。



「あのおじさんたちって悪い人たちだから、もしかしたらヒーローが悪をさばいたんじゃないかって勘違いしたの。」



「ごめんね、ヒーローとか怪盗じゃなくて。

 ――そのスマホってどうやって盗聴しているの?」



「簡単だよ。 さっきこのビルの一階と入口に”お母さん”や”お父さん”の私用と仕事用のスマホを置いてきたの。

 自動で通話状態にしてくれるアプリをインストールしてあるから、用意した位置に電話すればこっそり盗み聞きできるよ。」



「へぇ~……。

 で、そろそろ聞きたいんだけど。

 貴方のほうはどうしてここにいるの? そんな盗聴までして。」



 彼女はこちらに透き通った瞳を向けながら、口元を鋭利に歪ませて私に告げた。



「ここから飛び降りるため」



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