月谷唯花が死に至るまで。Ⅱ
都会は海のさざ波のような雑音が常に聞こえてくる。
それが煩くて授業に集中できないと母に告げても答えは全て、私の我儘ということになった。
「貴方、芥が気に入らないからって文句言うのね。ママやパパに迷惑かけるのはいいけど、あの子の足を引っ張るようなことはしちゃだめ。
兄妹なんだから、ね?」
兄のせいで都内に引っ越さなければならなくなったこと、そのことでは確かに兄を恨めしく思っていたけど、母の言い分はあまりにも固執しすぎていると思った。
「お兄ちゃんのことなんてどうでもいいよ」そう言い返すと今度はヒステリックな説教が始まる。
「母さん、唯花にはいつも助けてもらっているよ。
――俺はもう慣れたけど、都内の喧噪って最初は気になるよな。
しょっちゅう工事してるし、いかがわしい宣伝車とかも普通に通って行くし。」
ははは、と笑う快活な声。
登校前に母と言い争いになると、衒いも外連味もない兄の一言が全てを解決していく。
母は途端に気が小さくなってご機嫌取りの笑みを張り付けて私と兄を通学に送り出す。
編入試験に合格したことで、私は兄――月谷芥と同じ附属中学に入学することができた。
といっても特待生枠である彼と違って、私は普通コースで中の下の成績を収めながら、かろうじて都会の学生生活を送っている。
バス通学5分が電車10分と徒歩20分を合わせた気怠いものに切り替わり、常に周囲には赤の他人が溢れかえる。
前に住んでた田舎が1カ月と経たずに、懐かしいものになり果てた。
「私、お兄ちゃんを助けてたんだ?」
こちらの早歩きにまったく嫌味なく合わせて歩く兄を横目で見る。
「あぁ。もちろん。 母さんと唯花が来てくれなかったら、今頃男所帯で餓死者が出ていたかもな。
俺も父さんもロクに料理できないから、全部外食で済ませていたし。」
「それ、私関係ないじゃん。 ご飯の準備とかしたことないもん。」
「ん、そうか? なら美少女の妹と並んで登校できるだけで俺は幸せだよ。」
「はいはい。お世辞どうも。」
おそらく本気で言っているのだろうけど、この人の視界は何もかもがお花畑に見えるのだと思う。
だって、月谷芥は私と違って順風満帆を絵に描いたような人生を送っている。
どんな習い事も短期間で大きな賞をとるまでこなしてしまうし、誰とでもすぐに仲良くなっていつの間にか話の中心にいるし。
今は確か、特待生枠としてどこかの企業にインターンシップとして通っているって聞いた。
殆ど母の兄自慢で聞いたことばかりだったけど、実際に同じ屋根の下で暮らせば、これらが”半分ほど”事実であることはすぐにわかった。
「――お兄ちゃんは”どれを”目指しているの?」
なんとなくそんな聞き方をしてみた。
兄なら将来就く職業なんて選び放題だと思ったから、既に候補をいくつか持っているんじゃないかと。
けれど思いのほか兄は渋い顔をつくった。
「いいや、何も目指すものがないから手あたり次第極めてるんだ。」
「簡単に言うのね。 私は一つ頑張ろうとしても難しいのに」
「筋道立てて計画つくって、毎日続ければ誰でもできることだ。
唯花だって、今頑張っている陸上でどうやったらもっと速く走れるか、考えるだろう?
わからなければ分かる人に指導してもらえばいい。
練習方法を教わったら、それをこなせばいい。
できなかったらどこを違えたのか確認して、また試せばいい。
それだけのことだ。」
……やっぱり簡単に言う。
この人には誘惑に負けたり、時折面倒くさい気持ちになることはないのだろうか。
良いも悪いも、兄は愚直すぎるが故に、周囲は焦りを感じてしまうことが多々ある。
”それだけのこと”と称した彼の言い分は、凡人にとっては果てしなく難しい。
加えて、言い返すことができないほどに”当たり前の正論”だった。
「わかった。じゃあお兄ちゃん、私と勝負してよ。」
「はぁ?」
「だってムカつくもん。 どうしてお兄ちゃんが陸上を語るの?
他はからっきしでも、走ることに関しては私が上。
それを証明したいの。
ね? 先に校門抜けたほうの勝ち。」
「……わ、わかったよ。 ただし、事故には気を付けること」
負ける気はさらさらなかったのに、結局私は兄に負けた。
それからだ。
あの妄執に憑りつかれるようになったのは。




