8話
煮えたぎるような憤怒が消えない。
じりじりと内側から身を焦がすこの感情と折り合いをつけるためにどうしたらいいのか、ずっと考えていた。
答えは出ない。
だから『やられたこと』を自分もやってやろうと思った。
試みは成功だ。
『あいつら』にされたことを、『あいつら』にやり返している時だけは、心が高揚して、怒りを忘れることができた。
……気付く。
これはきっと復讐なのだと。
胸がすくようで、気分が高ぶって、背筋が震えるほど気持ちがよくって――
ふと冷静になれば、たまらなく陰鬱な気持ちだけが残って、この世全てを侵したくなる。
だから、止めてはならない。
復讐を永遠に続けよう。
――私の怒りはこの世すべてへ。
――毒よ、呪いよ、世界を侵せ。
◆
うっそうと生い茂った木々の中心には、葉と枝の天蓋に守られた湖が存在した。
あまりの美しさに息を呑む。
監獄島という場所にあって、この土地はあまりにも清浄すぎた。
「うわあ……綺麗……」
「草も水も毒に侵されてるっていう話だがな」
「ええっ!? で、でも――こんなに綺麗なのに?」
「毒を宿したモノは、あでやかで美しいモンだ。……毒草の知識はロクサーヌから教わってねぇのか?」
「教わりましたけど――でも、どの植物も、習った中にはないものですよ」
レベッカの言葉はもっともだった。
ルシアンでさえ毒物には見えない、美しい植物たちに、澄んだ水。
けれどこの場所は毒と呪いの魔女の根城だ。
見た目の初心さに騙されてはいけない。
触れただけで危険なほどの毒物というのは、案外そこらに咲く素朴な花のようであったり――思わず触れてみたくなるような、魅力的な見た目だったりするものだ。
「綺麗でしょう?」
――突如響いた声は、とろけるほど甘い。
慈母のようだと感じた。
娼婦のようにも感じた。
あるいはその声から、燐光をまとい絵画に描かれる聖女の姿を連想する者もいるかもしれない。
その声にはおおよそ男をたらしこむすべての要素が存在した。
そして――声の主の、見た目は。
「……テメェがアナマリアか」
それは銀髪の美しい毒華だった。
ボディラインにぴったりと貼り付くような赤いローブ。
豊満な胸、視線を下げれば腰はくびれるだけくびれ、ヒップにいたればまた魅惑的な肉付きを目撃することができる。
この柔らかな黒土の森の中でハイヒールを履いている。
そのお陰かスリットからのぞく白いふくらはぎは美しく引き締まり、脚をそろえて歩む姿も相まって強烈に『女』を感じさせる魅惑的なシルエットを形成していた。
なにより、顔立ち。
垂れた瞳と瑞々しい唇からは、めまいがするほどの大人の色香が発せられている。
だというのに真っ赤な瞳をジッと見れば、そいつが汚れを知らぬ乙女のように思えてくる。
噂通りの。
いや、噂以上の、美しさ。
見た目と色香だけならば『世界一』を名乗っても多くの男が納得するであろう、美しき毒と呪いの華が、そこにあった。
「大変だったでしょう? ここに来るまでには、かなり険しい道を歩く必要があるもの。おじいちゃんと、子供では、きっと、疲れたことでしょう。……ああ、なんてかわいそう」
心のしんから気遣うような声音だった。
前情報を知らなければ、きっとその優しい言葉を素直に受け取ってしまったことだろう。
「もう、つらい想いはしなくていいわ。……わたくしが、あなたたちのこれからを、すべて幸福で満たしてあげますからね」
パチン、とアナマリアが指を鳴らす。
すると周囲の木々の陰、低い草の中、あるいは枝の上――あらゆるところから、男たちが姿をあらわした。
みな一様に上半身は裸であり、口枷をはめ、息を荒くして、目を血走らせている。
そいつらはじりじりとルシアンとレベッカに近付いてくる。
レベッカは、突如現れた、変態的な見た目の男たちに、おどろいた顔をしていた。
ルシアンは眉をひそめたけれど――おどろきは、しない。
気配などとっくに察していた。
半裸で口枷をはめた男の集団――ざっと三十人超の集団――の視覚的おぞましさはあるものの、この程度の人数で怯むことはない。
そして、レベッカもまた、『怯みは』しなかったようだった。
一歩前へ踏みだし、口を開く。
「あ、あの、アナマリアさん! 私たちは、あなたにお話があって――」
「ダメよ、しゃべっちゃ」
アナマリアは、穏やかにレベッカの言葉を遮って、
「わたくし、しゃべる子は嫌いなの」
「えっ……で、でも、私、あなたにお話を聞きたくて……」
「認めないわ」
「……」
「あなたの権利を、認めません。あなたの発言を、認めません。あなたの自由を、認めません。だってわたくしが認められなかったんだもの。あなたばっかり、ずるいじゃない」
「……え、えっと……」
レベッカが困惑した顔で、ルシアンを見た。
ルシアンは肩をすくめる。
「たまにいるんだよ、ああいう手合いが。……残念だったな、会話は成立しねぇタイプらしい」
「女の子は黙っている方がカワイイわ。きっとわたくしと仲良しになれる。――老人は、男は、家畜にする以外にないけれど」
「一応示威行動をしてみるか。……オレは『刑期五百年』『元勇者ルシアン』だ。痛い目に遭いたくなけりゃあ、周囲にいる物騒な連中を下がらせな」
「――勇者」
アナマリアの赤い瞳が、ぎらつく。
彼女はベロリとみずみずしい唇を真っ赤な舌で舐めて――
「勇者。勇者。勇者、勇者、勇者、勇者――勇者! ……ああ、いいわ。勇者様。ずっとお目にかかりたかったの。そうして、聞きたかったの」
「……なんだ」
「なんで、わたくしを助けてくださらなかったの?」
「……なんの話だ?」
「わたくしは、あなたの手から取りこぼされたモノ」
「……」
「救い手に問いましょう。なぜ、あなたはわたくしを救ってくださらなかったか? ――みんな。あのおじいちゃんを捕えてちょうだい! 一番うまくできた子には『ご褒美』よ!」
号令と同時に、男たちが飛びかかってくる。
ルシアンは舌打ちをして、レベッカの前に出る――
――寸前。
ふらり、と。
レベッカがよろめき、まったく踏ん張ることができずに、倒れた。
「……チッ」
舌打ちをしながら、思い出す。
――毒と呪いの魔女。
なにも接種しておらず、いかなる攻撃もまだ受けていないが――
「あら? あらあらあら? そうね、体が小さいものね! わたくしの毒の風に、早速一人、侵されたわ!」
――ようやく思い出す。
戦いの空気。
弱者を守り誰かと敵対することは、次々襲い来る理不尽との戦いなのだと、約三十年ぶりに意識させられた。