2話
かつて、この先にはもう幸福しかないと思ったことがあった。
それがただの妄想にしかすぎなかったと知るまでのほんの短い期間だったけれど、人生でたった一年、なにもかもがうまく転がっていた時期がある。
激闘を終えて、世界を救った、あと。
お姫様と、身分の差を乗り越えて結ばれた。
「いいのかな、オレたちだけこんなに幸せになって……」
世界を救うための戦いでは、多くの人が死んでいったのに。
幸せを願ってやまなかった人々の中で、自分だけが『それ』を手にしてしまった。
彼はあまりにも『幸福』に不慣れだった。
青春の大半を戦場で過ごし、多くの者の死に触れてきた彼は、たびたび戸惑いに襲われる。
『自分なんかが、幸せでいいのか?』
「いいのよ、幸せで」
二つ年上の彼女は、彼が幸福に対する戸惑いにすくむたび、仕方なさそうに笑った。
「ほら、ルシアン――ねえ、あなた。聞いてみて」
まだふくらみの目立たない腹部に、彼女は彼の耳を導く。
そこには彼と彼女の子供が宿っている。
……けれど、生まれてくるのは、まだまだ先の話だ。
「なにも聞こえないよ」
彼は言う。
彼女は、微笑む。
仕方なそうに、できの悪い弟でもたしなめるみたいに、頬を緩ませる。
「そうね、あなたには、まだ聞こえないかも」
「……なにが、聞こえるようになるんだ?」
「幸せの足音」
「……」
「きっと、このお腹から本当に音が聞こえるようになるころには、あなたも幸せを肯定的に受け止められるわ。そうして生まれてきた子を腕に抱けば、『自分たちは幸せでいいんだ』っていう実感が湧くわよ」
「……そうかな」
「ええ。絶対」
自信たっぷりに言われると、そうなのかな、という気分になってくる。
だから彼は、自分が幸せでいいのだと思える日を待ち続けた。
……それはもう、うまく思い返すことさえできない、幸福の断片。
結局、彼は幸福を腕に抱き損ねた。
それだけの、とっくに終わった話だ。
◆
孫はいない。
なにせ、子が、生まれる前に死んだのだから。
子がいなければ孫がいるはずもない。
論理的帰結と言うのもおこがましいほどの『当たり前』。
だから元勇者ルシアン――懲役五百年、『国家叛逆罪』の咎人は、幼い少女の発言を鼻で嗤うこともできたはずだった。
できなかったのは。
幼い少女の、気高く強い瞳に、かつて愛した人の面影を見てしまったからだろうか?
「……ハッ、くだらねぇな」
やっと言葉を絞り出せたのは、ずいぶんと波音を聞いたあとだった。
汚れた岸辺には、もはや誰もいない。
新入りが『人喰い』に襲われるシーンを見物していた罪人たちは、どこかへ消えてしまっている。
……いつものことだ。
ルシアンが姿を現せば、罪人たちはかかわるのを避けて逃げ去っていく。
この監獄島に三人いる『触れるべきでない罪人』のうち一人に、元勇者ルシアンも名を連ねているのだ。
「う、嘘じゃないです! 私は――」
「いいか、お嬢さん」
しゃがみこむ。
ボサボサの長い白髪の隙間から、少女を真っ直ぐに見つめる。
その暗くよどんだ瞳は、色が黒いのもあって深い闇を感じさせた。
見つめられるだけで不気味であろう。
だというのに、幼い少女は、真っ直ぐに、見つめ返している。
恐がっていないという様子ではない。
なにを考えているかわからない怪しい大人に恐怖を抱きつつも、視線を逸らさずに踏みとどまっているという印象だった。
その強さに、また愛した人の面影を思い出して舌打ちをしながら――
「……オレに孫はいねぇんだ。誰に入れ知恵をされたか知らねぇが、この島でオレを味方につけたいんなら、もっと調べるべきだったな」
「証拠があります!」
「どうせ、でっち上げだ」
「『森の賢者』ロクサーヌ様から、証拠をあずかっています!」
「……なんだと」
思わず反応してしまう。
森の賢者――とかいう通り名は知らないが、ロクサーヌというのは、かつて仲間だったエルフの名だ。
小言の多い女だった。
仲間内では最年長だったのもあり、若かったルシアンに苦言を呈し、しつけ、導く役割を担っていたのだ。
そして――
彼女の話を無視すると、あとから長々と説教される。
……なんという滑稽なことだろう。
二度と会うはずのない相手の説教が恐くて、反射的に歩みを止めてしまったのだ。
若いころに身についた習慣は、未だ心に染みついているらしい。
「チッ、めんどくせえ……まあ、一応見てやるから、その『証拠』とやらを出しな」
「あ、えっと、舌の裏に貼り付けてて……」
「……」
『証拠をあずかっている』と聞かされた時、その『証拠』を尻から出されるぐらいは覚悟していたが、どうやら口の中にあるらしい。
……ずいぶんと罪人の身体チェックが甘い。
この年齢で島に来たことといい、やはり訳ありに違いなさそうだ。
ルシアンの目の前で、少女は口の中に手を入れた。
そして、一枚の小さな封筒――人差し指の上にでも乗りそうな、水に強い油紙で包まれたなにかを取り出す。
「今開けますね……」
「…………」
「……い、今すぐに」
「………………」
「あれ? これ、どうやったら開くんだろう……」
「……よこせ」
「で、でも、ヨダレで……」
「そんな程度で気にしてたらここでの生活はやってけねぇんだよ。……お嬢さんはなんていうか、すさまじく不器用だ。見てられない」
「で、でもこの封筒、すごく固いし、合わせ目も小さいんですよ!」
「……本当にロクサーヌが折ったんなら、決まった開け方がある。よこせ」
しぶしぶ――
という様子で、封筒を薄汚れた白のワンピースでごしごしとぬぐってから、封筒をルシアンに渡す。
受け取ったルシアンは、その極小の封筒を見て、
「……チッ」
「や、やっぱり汚かったんだ……」
「違う。……この神経質な折り方は、どうやら本当にロクサーヌからみてぇだと思っただけだよ」
「そうですよ!? 信じてください!」
「わかったわかった……」
極秘の伝令を飛ばす時など、よくこのサイズの油紙封筒を使用したものだが……
どうやらロクサーヌは相変わらず、手先の衰えもなく、若々しいままなのだろうことが、封筒一つで察せられた。
反対にルシアンのほうは、ずいぶんと自分が老いたことを実感させられる。
昔はすぐに開けた『ロクサーヌ折り』の封筒を開くのに、ずいぶん時間がかかってしまった。
しかも……
「……字が小せぇ」
「読みましょうか?」
「いや、いい」
昔は普通に読めたはずだが、今はもう、ただ文字を判別するだけで一苦労だ。
かつての仲間が『老い』を突きつけてくる。
その事実にルシアンは思わず笑った。
「……歳食ったなあ、オレも」
「髪とおひげをどうにかしたら、格好いいと思いますよ!」
「…………」
なぜ『格好いいと思います』というフォローが入ったかはわからなかった。
年齢差のせいか、やりとりのポイントがズレている感がある。
ともあれ、顔からいくらか遠ざけて、目を細められるだけ細めて、ようやく手紙の文字が読めた。
――その内容に。
「……クソババア」
思わず漏れたのは、若かりしころ、ロクサーヌからの説教後に幾度もついた悪態だった。