16話
「ずるい!」
その言葉は『卑怯』を現さない。
ずるい。
『全然勝てない』
『何度やっても及ばない』
『隔絶した差は感じるが、何度試行してもいくら考えても、差を作っているものの正体が判明しない』
『手詰まりだ』
ようするにこの言葉に内包されているのは不満ややるせなさといった感情だった。
それに失敗を繰り返していることへのいらだちが混じって、『ずるい!』という叫びは生まれる。
微笑ましい限りだった。
何度も転がされて全身はとっくに泥まみれ。白かった厚手のワンピースは最初からその色だったように土にまみれ、顔には泥化粧。髪の毛は乾いた泥のせいで固まってしまっていた。
それでもあきらめずに向かってくるレベッカを見ていると、今まで経験のなかった感情がわき上がってくる。
その感情に戸惑った。
それは温かで、胸がじんとなるような気持ちだった。
レベッカを見ている。彼女の一挙手一投足に自然と頬が緩んでしまう。
『殺しに来るレベッカ』『それを迎え撃つ自分』という状況にもかかわらず、彼女を応援したくなってしまう。
目の横のシワが深くなり、彼女がまばゆいものであるかのように、知らず目を細めてしまう自分がそこにいた。
経験のない穏やかさだった。
こうまで気持ちが緩んだことは、生涯で一度もなかった。
愛した女性の前でさえ、ここまでの緩みはなかっただろう。
「あれ? 当たった?」
……己の内に生じた気持ちに戸惑っているあいだに、どうやら攻撃を許してしまったらしい。
いつの間にかレベッカは目の前に立っていて、彼女の手にした木剣――というか周辺の木立から折って持ってきた太い枝――は、たしかに、聖鎧で阻まれてはいるが、ルシアンの喉を突いていたのだった。
「……油断した」
素直に認める。
ありえないほど緩んでいた。これは修行なのに、レベッカに申し訳がない。ただ突っ立っているだけの相手に致命傷を与えるなどと、そんなものは修行とは呼べない。
「油断してても一回は一回ですよね!? 当たりましたよね、私の突き!」
「ああ、当たったよ。言っただろ、ごまかさねぇよ。それに、今のは完全にオレが悪い。稽古をつけてやってるのに油断するとはな……」
「じゃあ、私に課した禁止事項を一つ解除してくださいね」
「……チッ。しょうがねぇ。『オレを語る』ことを許そう」
「えええ!? それ!?」
「……提示した順番からすれば、妥当だと思うがな。それに、順番にまつわる決め事はなかったはずだ」
「そうですけど……!」
「……お前に禁止を言い渡した行為は、どれもオレにとっちゃあゆずりたくないもんだ。オレは、オレについてわかったふうに言われることを好まない。……だがまあ、嘘をつくつもりもねぇ。オレのことは好きに語れ。間違っていれば否定はするがな」
「ルシアンさんは、本当のところ、島を出たいと思っているように感じます!」
「思ってねぇよ。ほれ、次の攻撃をしろ。今みたいなマグレは二度とねぇぞ」
「ふえええ……なんかこう……なんかこう……! や、やっぱり別な禁止事項を解除してくれませんか?」
「今回はダメだが、次に解除する禁止事項は選ばせてやってもいい」
「じゃあ、『おじいちゃんと呼ぶな』で!」
「……それなのか? それこそ、一番どうでもいいと思うがな」
「私にとっては大事なことです! あなたと私の関係を……私があなたの血を引いていることを認めてもらいたいんです。そのために、あなたを……『ぉじぃちゃん』……って呼ぶことは必要だと感じています!」
認知しろ、という話らしい。
てっきり次は『世界のことを語るな』の解除を要求されると思っていた。どう考えてもそちらの方が重要に思えるからだ。
レベッカはどのようなことを考えているのか――
そこまで考えて、わかった。
とんだ茶番だ。
そもそも何の強制力もない禁止事項なのだ。
どうだっていい。どうしても言いたければ言えばいい。だというのにレベッカは律儀に課されたルールを守っている。
――きっと私のこれからの人生、『お互いに納得ずくで問題が解決すること』なんて、何回もないんですから。
彼女が律儀に禁止事項を守るのは、そういうことなのだろうか。
納得ずくで問題を解決したい。
……言葉の端々から、彼女を取り巻く世界の状況は、そうよくないことが伝わってくる。
不可能に挑んでいる、とレベッカは言った。
その状況で、己のこだわりを通そうと、彼女はしているのだ。
「……ああ、クソ、まずいな」
ほだされていた。
もはや認めるしかない。自分は彼女の行為をいちいち愛おしく感じている。小さい彼女が覚悟をもって困難な状況に挑んでいる姿に、ハラハラしているし、心配もしている。
多くの人を助けてきた。
その中には子供だっていた。
けれども、ここまでほだされたことはない。ここまで、何をしても好意的に解釈する力が働いたことは一度たりともないのだ。
孫。
「……まったく、厄介な」
迫り来るレベッカの剣をかわして、投げ飛ばす。
小さな彼女はコロコロと泥の上を転がって、しかしすぐに立ち上がり、また向かってくる。
えいやあ、と幼い声を精一杯鋭く響かせ、手にした太い枝で斬りかかってくる。
それをまたかわしていなして転がして、微笑む自分に気付いて思う。
――ああ、歳をとったものだ。




