第二話
清歌の羽根の駐留地での手続きも早々に済ませ、アルマリオの操る金属人形に引かれ、一行はポンプ塔に到着した。早足となった馬車の揺れにクリスが若干の吐き気を感じ出した頃であったからか、誰よりも先にと馬車から降りたのは他ならぬクリスであった。
「おいおい、随分楽しみにしてくれてるみたいじゃないか、にしては顔色が悪いようだが、どうした、子供みたいに馬車酔いで潰れたっていうわけじゃあるまい?」
「うるさいです」
クリスには、理知的な反論をする余裕は無かった。その背中を擦り、吐き気を少しでも落ち着けようと介抱をしながら、マリアはクリスに代わってアルマリオへ反論する。
「あれだけ盛大に揺らしてもらったとあれば、馬車慣れした者でも顔色を悪くするものだよ、悪路でも無いのに、随分手こずった様子だが、そんなにも馬の扱いが苦手だったかな?」
「これは失敬、手綱よりも剣を握っていた時間の方が長いものでね」
アルマリオはマリアへ向けて嫌味を一つ言い返したが、これ以上の会話を続けるべきではない、と判断し口を噤んだ。理由は単純、正面方向から、ポンプ塔側の人間が出迎えに現れたからである。
「ようこそいらっしゃいました、勇者様。到着したとの話は既に正門と、清歌の羽根からの伝令で伺っておりましたが、それにしても早いお越しで」
現れた男は、痩躯かつ猫背の中年男性で、頭髪と瞳の色は黒、髭は半端に伸び、身だしなに無頓着な人間と一目見て理解できる。
男の姿に眉を顰めつつも、アルマリオは応答する。
「ああ、アルフォヴェイルの湧水池管理施設については、前々から興味があったからな、加えて今日は別件の都合で同行者も連れている。早すぎる到着ではそちらにも迷惑が掛かると理解はしているが、今回は時間の余裕を優先させてもらった、申し訳ない」
「いえいえ、勇者様直々の視察とあれば、事前に万全の準備を、と思っていますので。それが一刻程度までなら予定のズレは許容範囲内ですよ」
男は言うと、アルマリオの連れてきた二人の女性――マリアとクリスの方へと目を向ける。
「で、そちらの方々が勇者様のお連れ様ですね。私はこのポンプ塔で研究開発を担っております、マッドレイと申します」
「我己は――」
「こっちの人はマリアちゃん、私の保護者です、そして私はクリス。よろしくおねがいします、マッドレイさん」
マリアが名乗ろうとしたところで、クリスが割って入り込む。というのも、初対面の相手にマリアの一人称たる『我己』の意味を説明するのは面倒であり、いつもクリスが行う羽目となっている。手間を避けるため、クリスはマリアに自分の名を名乗らせない、という工夫を思いついたのだった。
「ほうほう、マリアさんにクリスさんですか。せっかくの機会ですから、ぜひ施設の見学でも楽しんで下さい、ここは最先端技術の宝庫ですから、他では得難い経験と見地を得られますよ」
「ああ、楽しみにしているよ」
クリスに遮られて不快そうな表情を浮かべていたマリアだったが、マッドレイの言葉を受け、受け答えの為に素早く作った笑顔を貼り付ける。当然これは、初対面の相手に対する配慮でもあるが、クリスの見ている手前、自分が大人としてそれらしく振る舞うことで、小さな見栄を張ってみせる意図も含まれていた。要するに、子供のクリスが仕掛けた悪戯――とマリアが思い込んでいる自己紹介の妨害に対し、あえて相手をしないという態度を見せつけることで反撃をしてみせたというわけだ。しかし、大人の態度を見せつけてやろう、という発想の幼稚さについては、当の本人、そしてクリスもまた気付いてはいなかった。マリアは僅かに得意げな視線をクリスに飛ばし、クリスはこの視線の意味をよく理解できないまま、しかしそこはかとなく、苛立ちを感じ眉を顰めた。アルマリオだけが、二人の仕草を横目で眺め、その幼稚さに苦笑を浮かべていた。
「では、さっそく施設の方へご案内します、お三方共、どうぞ私についてきて下さい」
対面を終え、いよいよマッドレイが本題を切り出し、先行して歩き出す。これを、アルマリオとマリア、そしてクリスは何も言わず、三者三様の表情を浮かべて追従するのだった。
施設の中をマッドレイが先導しながら、三人が追随しつつ周辺を観察する。無数の配管や機械的な構造物に埋め尽くされた広い空間や、様々な情報が文字となって映し出される光るガラス板のようなものが壁に張り巡らされた部屋を案内される。マッドレイはこのガラス板をディスプレイと呼んだ。計測機器の反応を、このガラス板に数字として映し出す機能を持ったものだ、と解説があった。希力工学の最先端技術によるものであり、首都アランザーグでもそうお目にかかることの出来ない産物だ、と語られた。その要因には技術の高さによる量産の難しさもさることながら、ディスプレイ一枚で家が建つと言われるほどの高価さもあった。
「そんな高いものを壁いっぱいに貼るぐらい、アルフォヴェイルはお金持ちなんですね」
クリスはディスプレイを、目をまんまるに見開きながら順繰り眺めつつ言い、息を漏らす。すると、これにマッドレイが詳しい解説を加えて返答した。
「そのとおりです、と言いたいところですが、半分正解といったところですね。実はこのディスプレイを使った希力機械化事業は、その資金の半分は首都アランザーグの支援金で成り立っているんですよ。というのも、こうした高度な希力工学機器によるインフラ施設というのは未だに世界に存在していないのです。将来的には、情報管理の平易さと安定性、正確性等の観点から広がっていく可能性はありますが、まだそれは夢物語の段階に過ぎません。こうした将来的な人族の社会発展に向けた研究開発の為の、ある種大規模な社会実験として、このアルフォヴェイルに白羽の矢が立ったのです」
マッドレイが詳細に語ってみせるが、クリスには言い回しが難解過ぎたらしく、首を傾げつつ、必死に理解しようと頭を捻っている。
「うーん……つまり、それはどういうことでしょうか」
「いつか近い将来、ディスプレイが便利に使える日が来るかもしれないから、その日のための実験をこの施設で行っているということだよ」
そこへマリアが口を挟み、マッドレイの発言を要約してクリスに聞かせる。
「なるほど……でも、そんなことして大丈夫なんですか? このポンプ塔って、アルフォヴェイルの人の生活用水とか、工業用水とかに使われてるんですよね?」
クリスが続けて口にした問いに、マッドレイは驚いたような表情を浮かべ、すぐに笑顔を取り戻す。
「そこにお気づきになられるとは、さすが勇者様のお連れ様ですね」
この一言に、クリスは僅かばかり不愉快めいた表情を浮かべるのだが、マッドレイは気付かずに説明を続ける。
「もちろん、安全面に関しては考慮されていますよ。ディスプレイで管理していると言っても、別に旧型の油圧式計器室を撤去したわけではありませんから。計器関連に関しては、今でもそちらでディスプレイと同様の情報を確認可能です――と言っても、既にここの作業者はディスプレイの恩恵の虜ですがね。正確で、メンテナンスも簡単。しかも必要な情報が整理された状態で閲覧できる。今や油圧式の方へ足を運ぶ者は、ただの物好きか年寄りばかりです」
油圧式、という言葉の意味が分からないものの、クリスにはそれが希力を使わない手段による計測器のことだろう、という推測だけは出来ていた。そのため、続いて口から出てきた質問は意味の確認ではなく、新たな疑問点についてだった。
「それって、ディスプレイを使ってまでやることなんですか? 効いた感じだと、ディスプレイで出来ることって、古いやり方でも再現できそうな感じがしたんですけど……それでもお金をたくさん使って、新しくディスプレイを使ってるのはどうしてですか?」
「ふむ……少々踏み込んだ質問になってきましたね、こうなるとこの施設自体についての詳しい説明から入った方が分かりやすいかもしれません」
マッドレイは顎に手を当て、真剣な表情を浮かべて語る。
「まず、そもそもの大前提からですね、ディスプレイで出来ることは、確かに油圧式の計器でも再現できます。しかし、ディスプレイと油圧式計器では、同じことをやる為に必要なコストが違いますし、運用上の利便性にも格差があります。つまり大きな目で見れば、ディスプレイでしか実現不可能なこともある、と言って問題ありません」
回りくどい言い回しに、またもやクリスは眉を顰めていたが、最後に付け足された補足説明により、マッドレイが言わんとする話の大筋は理解できた。
「では、ディスプレイと油圧式計器では何がどう異なるのか、それについて語るには、まずこの施設自体の仕組みを説明しなければなりません。――突然ですがクリスさん、このポンプ塔は、希力による巨大な湧水池を管理する為に建てられた施設である、というのはご存知ですか?」
「はい……確か、水源も無いのに、おっきな湧き水がとても強い勢いで吹き出しているんですよね」
「はい、と言いたいところですが、また半分正解です。水源もないのに湧き出る希力による湧水池というのは正解ですが、実は一つの巨大な湧水が発生しているのではなく、強く吹き出す無数の湧水点の集合体、というのがこのアルフォヴェイルの湧水池の正体なのです」
マッドレイの説明に、クリスは驚きながらも、首を傾げる。
「それは、そんなに大きな違いですか?」
「はい、全く異なります。ただ一点から強く巨大な湧き水が吹き出るだけであれば、このポンプ塔は今ほど複雑な管理はしていませんでした。しかし、現実には神の奇跡たる湧水池は無数の湧水の集合体です。効率よく、この噴出する水圧を利用するためには、別々の地点ごとの湧水を個別に確保し、これを然るべき地点で集合させ、その後都市に分配する方が優れています。故に、現在当施設では十七の湧水地点を確保し、それぞれの水圧を常に計測し、適切なバランスで合流させています。実際に可動している湧水地点は十箇所程度なのですが……と、まあこの話をしてもキリがありませんね、もっと本題に迫る話をしましょう」
つい話に熱が入り、脱線を始めたマッドレイに向け、クリスだけではなくマリアとアルマリオからも視線が飛んだ。これに気付いたマッドレイは、すぐさま元の話に戻る。
「ともかく、この施設では十七ヶ所、別々の湧水地点を管理していますが、油圧式計器では、これら全ての地点で計測された情報を一処に集めるのは現実問題として困難です。まず、距離が長い為に起こりうる誤差の問題です。油圧管の距離が伸びるほど、誤差は無視できない、深刻な問題を発生しうるものとなっていきます。さらに言えば、設備点検のコストの問題も大きいです。距離が離れるほど、点検コストは爆発的に上がっていきます。しかも、配管の不調はメーターには現れません、ちょっとした不調であれば、むしろ現実的な範囲で数値を違えることになります。この関係で、計器を集合させた部屋を作るとすれば、ある程度どの地点からも近い場所を選ばなければなりません。しかしどうしても、湧水地点同士の距離は遠く離れたものも多いです。なので、旧式の計器室は第一から第五まで存在しているわけです。一方で、ディスプレイであれば距離は問題になりません。計測値の情報そのものを送りますので、誤差や数値のズレはありえません。配線が不調であれば、明確に数値が異常を示し、多くの場合一切の表示が無くなります。つまりトラブルのリスクが圧倒的に下がるわけですから、全ての湧水地点の計器情報を一つの部屋へ集めてしまうことも不可能ではなくなるわけです」
マッドレイは、早口気味に説明を続けるが、既にクリスは理解することを諦め、言葉をただ無心に耳に入れることだけを意識していた。ただ、マリアとアルマリオだけは、口も挟まず真剣な表情でマッドレイの話に聞き入っていた。
「さらに言うと、計器の問題は湧水地点だけに留まりません。この施設には、他にも無数の計器があり、それぞれが水の安全管理という点において重要な役割を果たしています。例えば、塔の上部には生活用水を送り出すための浄水施設が存在しています。当然、多くの管理施設は地上付近にありますから、距離は大きく離れてしまいます」
「あの、それなら浄水施設を地上の近くに作ってしまえば良いんじゃないですか?」
クリスはここまできてようやく、素朴な疑問を口にした。これは良い質問であったらしく、マリアもまた、同じことを疑問に思っていたらしく、クリスの言葉の後に続けて数度頷き、マッドレイの回答を促した。
「そうもいかないんですよ、街に送り出す生活用水は、遠くまで送り届けなければなりませんから、より塔の高い位置から送り出す必要があります。低い位置では、水路が街の隅に届くより先に地面へ触れて止まってしまいます。浄水施設に水を通すことで水圧は分散されてしまいますから、浄水施設だけを地上に設置しても、塔の上部へと浄水を送ることができません。故に、湧水地点で得た水圧を利用して塔の上部まで水を押し上げ、その場で浄水施設に通し、街へと送り出さねばならないというわけです。ちなみに、工業用水はポンプ塔近辺に水を送るだけで済みますから、塔の比較的低い位置から水を送っています。清潔な水が欲しい場合は、それぞれの工場で浄水施設を設けてもらう決まりとなっていますので」
「な、なるほど」
辛うじて、疑問点の解決だけは自分の頭を捻りに捻ってどうにか成し遂げたクリス。これにマッドレイも満足し、笑顔を浮かべて頷きながら、話を続ける。
「以上のような理由で、油圧式の計器では情報を一つの部屋に集めるのが難しく、これがディスプレイを導入するといとも簡単に可能になってしまうというわけです。もちろん、もっと具体的な性能格差も存在するのですが……まあ、油圧式に出来ないこと、という意味では今説明した話が最も適当でしょう」
そしてようやく、マッドレイの話が終わる。あまりにも長い話であったため、話題を振ったクリス自身が疲れの溜息を漏らす。だが、マリアはマッドレイの話を終始興味深そうに聞いていたばかりか、ついにはさらに質問さえ返してしまう。
「興味深い話をありがとう、マッドレイ殿。しかし、浄水施設というのは具体的にどのような施設なのか、詳しく教えて頂けないかな?」
これに、マッドレイは再び目を輝かせ、口を開く。
「なるほど、確かに説明不足であたかもしれませんね。浄水施設とは、名前の通り、水を浄化し、飲用にも耐えうる品質に上げることを目的とした施設です。湧水池の水には雑菌や不純物も多いですから、浄水施設で丁寧に殺菌消毒し、不純物を取り除かなければ、時には砂利まじりの水や、飲むと寄生虫に悩まされる水と仲良く暮らす羽目になるでしょうね」
「ふむ、それだけの品質となれば、首都アランザーグの貴族街と同等か、あるいはそれ以上に安全な水を供給していることになるな……いや、さすがは水の都といったところか。貴族様方がお使いになられるほどの水を、平民の誰もが平等に利用出来るというのは、即ちこの街に住むだけで、水由来の病気を患うリスクが著しく下がるということにもなるだろう。いやはや、浄水施設こそがこの街の生命線と言えるだろうな」
「そこまでご理解いただけますか! そうなんです、この街に住む万人の命を預かり、護り平穏なる日々を守っているのは、それこそこのポンプ塔であり、管理施設であり、各種計器類とそれを読み判断を下す職員、研究員であり、そして浄水施設なんですよ。特に浄水施設がこの街にもたらす恩恵は計り知れません。故に、警備のためにも清歌の羽根の方々が日夜駐在してくださっています。警戒レベルは非常に高く、私でさえ浄水施設への無断立ち入りは不可能なほどです」
そこまで語ると、マッドレイは急に沈んだ表情を浮かべ、一つ溜息を吐き、重い調子で淡々と吐き出す。
「本当なら、浄水施設に入り、細部をよく研究してみたいところなんですがね。私のような研究員は、より良い施設の開発、新技術の発明こそが主な仕事です。故に浄水施設を実際に見て得た見地さえあれば、今よりもずっと良い方向に設備を改良できると思うのです。それは職員としての責務であり、科学者としての願望なのですが……どうにも、立ち入り許可は簡単には頂けないものでして。今まで幾度となく申請を出してきましたが、一度たりとも許可が降りたことはありません」
この言葉に、クリスだけが驚きの表情を浮かべた。これほど真面目で、熱心な人間さえ立ち入りできない、浄水施設とやらの重要性に思いを馳せた。また、同時にこのマッドレイという一途な研究者の理念に、素直な尊敬の念を抱いくのだった。