伍
密かに、碧海作戦に中止命令が下った。中国政府の指導者たちが織田信長に不快感を示しているという。彼らは信長の暗殺さえ考えているというのだ。
齢六十を過ぎた信長を今さら暗殺してどうしようというのだ。
歴史を遡って、朝鮮半島を侵略するまえの信長を暗殺するという。
馬鹿も休み休み言え。遡って暗殺すれば、そこから別の歴史が枝分かれするだけだ。一度創ってしまった歴史は変えようがないのだ。
もし中国政府が碧海作戦の失敗を宣言し、その歴史を隠蔽しようとしても無駄なことだ。他国、特に西欧諸国は「失敗した歴史」を追跡し世界中に公表し笑いものにするだろう。面子を重んじる中国人には耐え難い屈辱である。現に今だって、我々が創っている歴史を世界中が監視しているはずだ。
中国政府には碧海作戦の失敗を宣言することは不可能なのだ。これが歴史の罠というものなのだ。
私はたかをくくっていた。その当時、私はアメリカ政府からオファー受けており、中国がダメなら、アメリカに乗り換えれば済むことだった。東アジア史の研究者である私をアメリカが招聘していったい何をやらせようとしているかは不明だったが、信長の鉄砲隊の映像を見たアメリカ人たちは織田信長に熱狂していて、これをプロデュースした私はちょっとした時の人になっていたわけだ。
だが、失敗が宣言されなくとも中止になれば、誰かが責任をとらねばならないのだ。おそらく陳博士や李博士たちが責任をとるのだろう。学会を追放されるくらいならまだいいが、罪に問われる事だってありうる。私は最悪の場合を考えた。
そうだ、この国はそういう国なのだ。私は民主的でないだとか、ヒューマニズムに反するだとかいうことで、この国の文明や文化を否定することを避けてきた。民主主義もヒューマニズムも近代西欧の生んだ思想であり、それが絶対的な正義を担保するとは言い切れないからだ。
でも、この国はそういう国なのだ。私は密かに中国共産党は中華王朝のひとつであると考えていた。皇帝がいて、官僚がいて、物言わぬ民がいる。支配するものと、支配されるものがいる。昔も、今も。
歴史学者の矜持にかけて、それを悪だとは言わない。歴史学者は常に相対的な場所に自らをおく覚悟が必要なのだ。私はその場所を一時放棄することにした。
陳博士も李博士も、今では私のよき理解者だ。これほどの理解者を得たことはかつて無かった。
私は猛然と走り出した。政府首脳に会見を申し込んだが、門前払いをくわされた。
今度はテレビ局に出向き出演交渉をした。碧海作戦の中止命令はまだ公になっておらず、万歳先生がテレビに出たいならそれを拒む理由は無い。
私はその夜のニュースショーに出演し、碧海作戦がいかに英雄的であるか、中華帝国がいかに偉大であるかを熱弁した。私は何度も繰り返した「我が中華帝国」と。
最後はおきまりの万歳だ!
ワンセー、ワンセー、ワンワンセー!
ワンセー、ワンセー、ワンワンセー!
私は涙を流していた。涙でくしゃくしゃになった顔をさらしながら叫び続けた。
その放送はどういうわけか、中国全土を感動の渦にたたきこんでしまった。何度も何度も繰り返し放送され、ネットにだってアップされた。
中国当局は中止命令を撤回せざるを得なかった。
私は売国奴になった。
日本のナショナリストたちは私の写真を公衆の面前で踏みつけ、焼いた。
自称良識派も私を破廉恥漢とののしった。
マスコミは私の齢老いた両親の自宅を包囲していた。
もう日本には帰れないかもしれないにゃぁ。まっ、いっか。
碧海作戦、第四号の発動がひっそりと宣言された。
といっても、もはや積極的に歴史に介入する必要はなかった。ただ、成り行きを見守るのみだ。
歴史の流れが新たに分岐すると、そこから一気に現代までの歴史が創造されるわけではない。私たちの時間で一年の間に、だいたい半世紀弱の歴史が生成される。ビデオテープの早回しみたいにして私たちは歴史を観察することになる。
いちど物理学の専門家にどうしてそんなふうになるのか、という疑問に答えてもらったが、私にも、陳博士にも、李博士にも、さっぱり理解できなかった。わしらは三馬鹿トリオだ。
ヌルハチの軍団を葬り去った信長は、そのまま兵を満州から朝鮮半島北部に進め、朝鮮半島南部の羽柴軍と挟撃して平壌の李王朝を攻めた。このとき羽柴秀吉は既にこの世になく、おいの秀次が後を継いでいた。
平壌を包囲すること十日にして、既に戦力を失っていた李王朝は降伏した。李王朝は属国になることを条件にその延命を計ろうとしたが、信長は許さなかった。平壌包囲には朝鮮の農民反乱軍も協力しいたのだ。信長は李王朝が既に統治力を失っており、利用価値さえ無いと判断したのだ。信長に首都を追われ、平壌に逃れた後は、ヌルハチに服属し出兵まで強要されたのだ。民心が離れるのも無理はない。気の毒にも、李氏朝鮮はここに滅亡した。
秀吉より長生きした信長も十六世紀の最後の年に没し、太祖の廟号を贈られた。後継者の織田信忠は小ぶりではあったが、それなりに優秀だったのだろう。彼は父の政策をよく受け継ぎ海に向かって帝国を拡大していった。
台湾では信長の死後も南明王朝との戦いが続けられていた。最後の抵抗者となったのが南明の武将、鄭成功であったことは、歴史の数奇な復元力と言っていいかもしれない。南明王朝はここに潰えたが、国姓爺、鄭成功の物語はその後も長く語り伝えられた。
琉球王国は海王朝の冊封を受け属国となったが、その都、首里が海洋の中継地点として大発展を遂げると、琉球王朝は武力をもって廃され、直轄支配されることとなった。
海王朝は征服王朝である。かつて中国では数々の征服王朝が建ったが、いずれも少数民族が人口の多い漢民族を支配することに苦心しなければならなかった。だが、日本人は少数ではなかったのだ。この時代の日本人と中国人の人口は共に五千万人くらいで拮抗していた。信長の天下統一後、平和な時代が続いた日本では人口が倍増し、明末からの戦乱で中国の人口は激減していたからだ。介入前の歴史でも、江戸時代初期には日本の人口は中国のそれを上回っていたというデータがあるくらいなのだ。日本人というのは狭い国土のなかでひしめき合うのが大好きな民族のようだ。
中国の各都市ではカタコトの日本語が通用していた。日本人が大挙して大陸に押し寄せたため、日本人相手の商売が大流行し、怪しげな日本語の物売りや客引きの声が巷に溢れることとなったのだ。
当初、この規律正しい支配者を歓迎した中国人たちは、やがてその口やかましさに閉口し、犬のようだと揶揄しだした。唐土の民は礼教の民だと信じていた日本人は、実際に接してみるとその海千山千ぶりに翻弄され、猿のようだと罵った。犬猿の仲ではあったが、いったんこの犬と猿が協力すると目覚しい成果を挙げるのだから面白い。地方官吏などは日本人と中国人をコンビで送り込むのが良しとされた。絶妙のボケとツッコミで見事な行政手腕を発揮するのだ。
公用語は中国語だった。日本や朝鮮の知識階級は漢文に慣れ親しんでいたので文書によるやりとりには支障をきたさなかった。商人たちはみな中国語をしゃべった。バイリンガルであるものが多かったのは、中国人もすすんで他国の言葉を学んだからだ。
中華帝国には世界中からありとあらゆる物産が集められた。輸出品は絹織物や陶磁器、茶などであった。絹と茶は主にヨーロッパへ輸出され、替わりに大量の銀が流入した。西欧諸国が新大陸から持ってきた銀が地球をぐるりと廻って東アジアへもたらされたのだ。経済活動はバブルといってもいいほどの活況を呈していた。インフレーションが起こり物価は上昇していった。
この経済の変動は封建的地主階級の力を弱め、替わって商人たちが力を蓄えた。商人たちは新しい階級を形成し、そのエネルギーは農村への搾取に向かわず、海に向けられた。海王朝の重商主義政策の後押しもあり、商人たちは世界の海に飛び出していった。
東アジアの船はインドや中東、ヨーロッパまで出かけていった。海は東西からの船が行き交い、文物が激しく往来した。十七世紀中盤には太平洋を越えた東アジア人たちが、新大陸の西海岸に到達し、移住を開始していた。同じ新大陸の東海岸においてイギリス人たちが植民地を建設していたころである。
信長の築いた王朝は代を重ねるごとに中華文明のなかに溶けていった。織田家にも漢民族をはじめ様々な民族の血が入り、もはや日本人とは言えなくなっていった。宮廷からは日本語が忘れ去られ、習慣も中国化していった。日本列島も朝鮮半島も中華の一員となり、誰もがそのことを誇りに思っていた。朝鮮と中国を征服した日本という国はいつのまにか消滅していた。
海王朝は内陸に関心が薄かったため、清の乾隆帝の時代に行われるはずのチベットや中央アジアに対する侵略は行われなかった。東西の交易は海が舞台であり、もはやシルクロードは必要なくなっていたのだ。
中華帝国は大陸の華北・華中・華南と周辺の半島や島々によって版図を構成していた。異民族の侵入には、当時世界最強の火砲をもってこれに応じた。
帝国の中心は海である。中華帝国というよりは東アジア海洋帝国と呼ぶにふさわしい。
中国政府の要人たちはその芋虫のような版図を眺めて、何か納得がいかないという表情をしていた。中国人には、海が領土であるという感覚は持ちにくいのかもしれない。優秀な中国共産党の指導者たちをしてなお、理屈としては理解できても、不快な感情を払拭できなかったようだ。
私はかつての日本の軍国主義を支持しないが、ひょっとして大東亜共栄圏というものがあるとすれば、ちょうどこんな姿をしているのではないかと思ったりもした。
李博士は、私がこうなることを予測していたのではないかと疑ったが、歴史の予測など当たったためしがない。昔も、今も、だ。
歴史はようやく十七世紀の生成を終えようとしていた。おそらくこれから西欧文明との衝突が始まる。東アジア海洋帝国の国力は充実している。十七世紀を通じて海王朝は封建制から中央集権制へシフトしていった。西欧の情報もいちはやく伝えられ、技術開発においても西欧と競い合う勢いだ。近代の萌芽もひょっとすると西欧より早いかもしれない。なにしろ信長の創った火砲を主力とする軍隊は十六世紀において既に中世や近世のものではなかったからだ。
そんなことよりも、行こうではないか。十六世紀の東アジアの海へ。
中国政府は約束を守ってくれた。歴史介入実験チームの視察旅行というわけだ。もちろん陳博士も李博士も同行する。これは楽しい修学旅行になるぞ。やるぞ!マクラ投げ。
私はその日から髪を伸ばしはじめた。少々薄くなりかけていた額をきれいに剃り上げ月代を作った。長く 伸ばした髪を結い上げちょん髷にした。李博士は無礼にも爆笑をもって答えた。ちょん髷も素敵だと言ったのを忘れたか、馬鹿女め!
タイムマシンで十六世紀へ向かった。場所は上海である。
私のいでたちは肩衣に袴姿である。腰に大小の刀をたばさんで街を闊歩した。「コスプレ、コスプレ」と、陳博士は覚えたてのオタク用語で私をからかったが、そんなことはおかまいなしさ。
陳博士は粗末な儒服を身に着けている。ただでさえ人目をひく色男なのだ。目立たないようにという方針は分かるのだが、私は陳博士の見事な士大夫ぶりが見たかったのだ。
好、好!李博士は赤いチャイナドレスではないか。正確にいうとチャイナドレスの原型となった満州族の女性用の胡服である。李博士がこんなにも素敵な体の線をしていたことに今まで気付かなかった。残念ながらスリットから覗く脚には白いズボンをはいている。あのエッチなスリットは騎乗のためのもので、決して足をなまめかしく見せるためのものではない。満州族は中華文明のなかにこの偉大な遺産を残し、男たちを悩殺し続けることになる。
街は華やいでいる。様々な民族がそれぞれの衣装を競うように往来していた。東アジアの民族はもとより、ヨーロッバ人やアラブ人もいる。肌の黄色いもの、白いもの、黒いのもいるぞ。
街のあちこちでは槌音が響いている。上海は未だ建設中の都である。信長はここを「海都」と名付けるつもりだったが、元からあった上海の発音が気に入ったらしくそのままにした。上海はまぎれもなく世界の首都になるであろう。
私たちの滞在中に織田信長の喪が発せられた。庶民には一日だけ喪に服するようにとの御触れがあった。一日だけ喪に服し、あとはさっさと働けという信長様のありがたいご遺言じゃ。
船に乗れるという。日本の平戸行きの商船だ。
夢が叶う。
上海市街を流れる黄浦江の港から私たちの乗る船は出航した。黄浦江はやがて長江の河口に合流する。
河口には無数の船が行き交っていた。南蛮から来た商船は、長い旅のうちに傷だらけになり、ようやく目的地に辿りつこうとしている。日本から来た船は小ぶりながら見事な操船で波を切っている。長江を遡らんとしている船は重い荷を積んでいるらしく、船体を深く水面下に沈めている。海に向かって舳先を並べる船団は未知の世界へ憧れ出ようとして、激しく帆を動かしている。
私たちの船は外洋に出た。風は順風、帆は美しい曲線を描いて膨らんでいる。日はゆっくりと傾き、海はどこまでも碧い。私は十六世紀の風に吹かれている。
陳博士が筆を取り出し懐紙にさらさらと何事かを書き付けている。私が覗き込むと、李博士も覗き込んだ。李博士の顔が近い。いいにおいもする。
陳博士はその懐紙を私に手渡した。読めるか?ということらしい。
この漢詩はよく知っているぞ。たしか「海市」という題名だ。海市とは蜃気楼のことだ。北宋の大詩人、蘇東坡の作である。漢詩にはめずらしく海に題材をとっている。中国人にも海に対するこんなにも豊かな感性があったことに私はあらためて敬服した。
私は朗々と、日本語で読み下した。
斜陽万里、孤鳥没す
但見る、碧海の青銅を磨けるを
きらびやかな歴史の海を眺めながら、もう何も想うことは無い