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 私は北京へ迎えられた。織田信長の中国侵略を中国政府主導の下に行うために。

 長らく私の保護者だった山鹿翁は、私の中国行きを好意的に理解してくれたようだ。中国を獲れ!と、私を激励した。

 山鹿翁は羽織袴姿で私を空港にまで見送りに来てくれた。しかもカーキ色のお揃いの服に身を包んだ一団を率いてだ。空港のロビーではマスコミが待ち構えており、沢山のカメラのフラッシュを浴びた。山鹿翁とカーキ色の軍団は、万歳三唱で私を送り出し、まるで出征兵士のような私の姿をメディアは伝えた。

 私は中国政府の首脳たちと会談した。彼らはこの歴史介入作戦の命名を私に求めてきた。私は「碧海」と命名し、碧海作戦の発動が宣言された。要するに中国側は、この作戦には日本人が大きくかかわっており、どんな結果になっても日本人も納得ずくのことなのだぞ、ということを大きくアピールしておきたかったらしい。

 日本政府はひたすら恐縮していた。このたびは、貴国に侵略までさせていただきますこと、まことにいたみいります。ご迷惑がかからなければよいのですが、なにぶん歴史上の人物がしでかすことでございますから、何かありましても貴国ほうでご処分願えれば、こちらとしても異存はございません。と、いうわけだ。


 北京では歴史介入実験チームが結成されていた。歴史学者だけでなく、物理学、化学、経済学、社会学の新進気鋭の研究者が勢ぞろいしていた。彼らは例外なく早口の中国語をまくし立てている。無口なのは、人民解放軍の関係者のようだ。日本人は私一人である。一応、オブザーバー的立場なのだが、誰もが私に敬意をもって接してくれる。無口な奴らが私に敬礼してくれるので、思わず敬礼のお返しをしてしまった。

 平均年齢はかなり若い。私がいちばん齢を食っている。チームのリーダーは近世中国史研究の若きホープ、陳杭博士。三十台半ばの好男子だ。うれしいことに、李紅艶博士も私の通訳を兼ねてチームの一員となっていた。

 私たちの最初の仕事は、碧海作戦の宣伝であった。要するにこの作戦が東アジアの諸国に理解され支持されるように世論操作をすることだ。

 中国に大衆など存在しないと言い切った李紅艶博士の手並みは鮮やかなものだった。彼女は私へのインタヴューを企画し、その様子を撮影させた。しまった、と思った時には既に遅し。編集された映像のなかの私は、中国は東アジアの盟主であり、日本もまた中華帝国の一部であるというようなことを言っていた。

 私は日本から来た歴史学の大家だと言うことになっていた。その大家が日本は中国の属国だと言っているのだ。中国人にしてみれば、気分のいいことこの上無かったであろう。彼らは織田信長が何者であるかさえ知らなかった。ネットに流れていた情報でも、織田信長は日本の将軍で、中華皇帝を助けて西欧列強と戦うことになるだろう、という都合のいい解釈になっていた。

 研究室には碧海作戦のドキュメンタリーを撮るという名目でカメラが据えつけられていた。カメラマンは中国人民解放軍広報部の諸君だ。なるほど、宇宙船のブリッジのようにかっこいい研究室も宣伝効果を考えてのことだろう。正面にはちょっとした映画館並みのモニターが取り付けられ、壁面には意味不明の計測器機のようなものが並んでいた。偉大な作戦はこういうかっこいい場所で遂行されねばならんという中国政府のこころにくい配慮だ。

 メイン・モニター、オープン!

 巨大モニターには私の大アップが映っていた。

 私がカメラのまえでおどけてみせると、人民解放軍の諸君は露骨に嫌な顔をした。私は彼らの機嫌をとろうと、諸手をあげてにこやかに「万歳(ワンセー)!」と言った。

 中国メディアが私を紹介するときには必ずこの映像が使われた。中国人民は私に「万歳(ワンセー)先生(シェンシェ)」の称号を贈った。

 この様子は日本でも報道された。大衆は複雑な思いであっただろう。ナショナリストたちは私が恥を忍んで中国人たちを騙し、日本人による中国侵略を成し遂げようとしているのだと、まことに都合のいい解釈をしてくれた。

 自称良識派は眉をひそめた。私のやろうとしていることは侵略であり、そのために多くの民衆が犠牲になると言うのだ。人道主義や民族主義が十六世紀には存在しない概念であることが彼らは理解できないようだった。彼らが守ろうとしたのは十六世紀の無名の民衆の命ではない。彼らが唯一の拠り所とする戦後民主主義という歴史的にも地理的にもローカルな価値観である。彼らはそこに普遍性があると信じて疑わない。

しかしだ、普遍性というならば中華文明のほうがよっぽど普遍的なのだ。民主的でなかろうが人道的でなかろうが、何千年にもわたって広大な版図を統治してきた中華文明を、たかだか百年足らずの歴史しか持たない戦後民主主義の尺度を以って計ろうとしているのだからお笑いだ。

 そんな日本の世論操作に一石を投じたのが陳杭博士である。私と陳杭博士の対談が日本のメディアで取り上げられたとき、陳杭博士が注目を集めた。ものすごいイケメンなのだ。時々見せる憂いを含んだような表情が日本の女子高生からおばちゃんまで、広範な女性層の心をわし掴みにしてしまった。陳杭博士は「憂いの貴公子」として、アイドル並みの扱いを受けることになる。

 某テレビ局の美人アナウンサーなどは「陳杭博士、すてき!」とか「陳杭博士、大好き!」という不用意な発言を繰り返し、それは日本の不幸な男子たちの心をわし掴みにした。陳杭という名前は中国語の発音(ピンイン)ではチェン・ハンである。中国人名の日本語読みは場合によっては不適切であるというのが私の個人的な見解である。

 女性を味方につけてしまえば世論など恐るるに足らんということだ。私は日本の大衆に一言だけ言ってやりたかった。この愚民ども、と。

 朝鮮半島の国々だけは、そうはいかなかった。反日・反中・反碧海をスローガンとするデモが日々巻き起こっていた。それはそうだろう。気持ちは分かる。朝鮮半島の国々が消滅してしまうのだから。だが許せ、日本も同時に消滅するのだ。東アジア全体の利益のために。

 東南アジアの諸国は警戒心を顕にしていた。インドははっきりと敵対的な態度をとった。西と東から同時に侵略を受ければたまったものではない。植民地支配を経験した国なら当然の反応と言わざるを得ない。

西欧諸国は静観しているかに見えたが、SPQR作戦の失敗のこともあってか、内心はらわたが煮えくり返っていただろう。「自国を侵略させて喜ぶ中国人」とか「日本人は最悪の侵略民族」とかいった西欧メディアの報道がそれを如術に表していた。

 特に腹立たしかったのはSPQR作戦実行チームの一人であったイギリスの歴史学者ジョン・メイヤー博士の黄色人種に対する差別的な発言だった。黄色いサルどもに何ができるかと、メイヤー博士はご丁寧にサルの物まねまでして私たちを苛つかせた。私は聞き逃さなかった。自慢じゃないが英語の成績は人一倍悪かった私だが、その言葉はよく知っている。

 チニだと、ジャップだと、えー根性しとるやないか。

 我が中華帝国は必ずやヨーロッパ文明に仇なすであろう。

この発言は逆に東アジアを、いやアジア全域をひとつにまとめあげた。朝鮮半島のデモは反西欧・反人種差別に切り替わり、東南アジア諸国やインドまでもが、条件付ではあるが碧海作戦に対して同意を示したのだ。その条件とは、西欧諸国に目にもの見せてやれ、ということだった。

 ここで中国人の悪癖が出た。中国政府は碧海作戦のテーマ・ソングを発表したのだ。「GO GO 壁海!」のシャウトで締めくくる勇壮なメロディーは、日本の伝説的テレビ・アニメーション「碧きポセイドン」の主題歌に酷似していたことが問題となり、世界中の嘲笑を浴びた。

 李紅艶博士は中国政府にかわり私に陳謝したが、陳杭博士はこれをきっかけにジャパニメーションの熱烈なファンになってしまった。中国当局は碧海作戦の英雄となるべき陳杭博士が日本のオタク文化への傾倒者であることをひた隠しにしたが、その事実は一夜にして日本国民および中国人民の知るところとなった。私がブログに書いたからだ。


 碧海作戦、第一号が開始された。

 織田信長による天下統一を早めることが当初の目標である。武田信玄、上杉謙信といった邪魔者を暗殺してしまえば、ことは容易にすすんだ。中国人たちのやり口は荒っぽいのだ。邪魔者と見るや次から次に暗殺していくのだ。これでは日本の中世史がつまらないものになるではないか。

 歴史介入にはコツのようなものがあり、勢いのあるものに勢いを与えることはじつに簡単なのだ。本能寺の変が起こるはすだった年には、信長の天下統一は完成していた。明智光秀に謀反の気配はなかったが、念のため暗殺しておくことに決まった。

 大陸では、明王朝の弱体化が早められていた。万暦帝の時代に王朝を葬らねばならないのだ。明王朝末期において財政再建と綱紀粛正を行うはずだった宰相、張居正を暗殺してしまうと、予想どおり幼帝をめぐって官吏、宦官たちの勢力争いが激しさを増していった。政治が不安定になると官吏の不正や汚職が常態化し、その反動は各地での反乱となって現れた。特に南方の反乱勢力は海賊集団である倭寇と結びつき強勢であった。この当時の倭寇のほとんどは、日本人ではなく福建や広東の中国人である。

 北方では歴史介入により、満州族の若き王、ヌルハチの台頭が加速されていた。満州族を統一したヌルハチは幾度も国境を脅かし、明王朝は満州族との激しい戦いを強いられていった。

反乱の鎮圧と北方の防衛のために国庫は底を尽き、民衆には重税がのしかかった。困窮した民衆は大量の流民となって反乱勢力に吸収されていく。果てしの無い悪循環が生まれ、明王朝は疲弊し、その統治能力を失っていった。

 明王朝の危機にもかかわらず、万暦帝は後宮に閉じこもり、朝政の場にさえ姿を現さなくなっていた。明王朝の滅亡はもはや日を見るよりも明らかであった。もともと「明史」に「明朝は万暦に滅ぶ」と書かれているくらいなのだ。万暦帝の後、三人の皇帝が即位したほうが奇跡と言っていい。

 衰え行くものの滅亡を加速することも比較的容易なのだ。西欧人のように滅び行くローマ帝国を蘇生しようとすれば、歴史の復元力に真っ向から対抗しなければならない。

 ただ、このとき私たちも予測していなかった。北方に勢力を拡大しつつあったヌルハチの勢力が、後に碧海作戦の前に、最大の障壁となって立ちはだかることを。


 第二号作戦開始。

 信長は兵を休ませることなく、大船団を組み対馬海峡を渡り朝鮮半島を蹂躙した。明の冊封受けていた朝鮮の李王朝は、宗主国に救援を求めたが、もはや弱体化した明にその余力はなかった。李王朝は首都、(ハン)城府(ソンブ)を放棄し、北方の平壌(ピョンヤン)に逃れ亡命政権を建てた。

 漢城府を占領した信長は進軍を止めた。ここで予想外のことが起こった。どういうわけか信長は北進を中止し、再び大船団を編成して黄海へ出帆、山東半島へと渡ったのだ。朝鮮半島には羽柴秀吉が残され、補給と、北方に残った李王朝へのけん制を任された。

 この時、信長のなかにひらめきのようなものがあったのではないかと私は想像する。海をこえ、日本列島から外に出たことによって信長の世界観が大きくひろがったのではないか。それはやがて信長のユニークな構想となっていくのだ。 

 大陸に兵を進めた信長は抵抗する明の軍団を次々に打ち破っていった。信長強しと見るや、もはや統治力を失っていた明に見切りをつけた漢民族の武将たちは、我先にと信長に投降していった。信長はまるで無人の野を行くが如くであり、日ごとに膨張する軍団は五十万を数えるに至った。

首都、北京へ兵を進めたのは徳川家康の別働隊だった。激しい戦闘の末、北京を包囲した家康は紫禁城に使者を送り、万暦帝に自殺を迫った。皇帝の自殺を請う、と。万暦帝は自縊し、明王朝は事実上その幕を閉じた。

 家康の胸中には野心があった。信長が北京に入城すれば、家康は首都攻略の大功をもって論考行賞に望めるだろう。もし信長の北京入城が何らかの原因で不可能になった場合、家康は中原において力を蓄え自立することをも考えていたのだ。

 当然、速やかに北京への入城を果たすものと思われた信長は、再び私たちの予想を裏切った。信長の軍は 中原には見向きもせず南進を始めたのだ。目標は明の副都、南京であった。

 信長の大軍が南京に迫ると、徹底抗戦の構えをとったのは明の武将、李如松であった。介入前の歴史では、朝鮮半島を侵略した秀吉の軍団と戦った勇将である。南京には兵乱を逃れた万暦帝の弟、潞王朱翊鏐(しゅよくりゅう)が居た。李如松は潞王を奉じて南京を死守しようとしたのだ。ところが、潞王は数名の寵臣とともに密かに南京を脱出してしまったのだ。兵士たちは完全に戦意を喪失してしまった。抵抗を諦めざるを得なかった李如松は、子飼いの軍団を引き連れて潞王の後を追った。南京はもはや空家同然だ。

 福州において李如松と合流した潞王は、台湾に渡って即位し、亡命政権を建てた。南明王朝である。後のことになるが信長は台湾に執着し何度となく兵を送り我が物にせんとした。南明はゲリラ戦をもってこれに応じ、台湾では長い戦いの歴史が始まった。

 南京への入城に際して、信長は一切の殺戮と略奪を禁じた。一糸乱れることなく入城する信長の軍団を、南京の人々は好意的に迎えた。それは日本人の規律正しさを印象付けたひとつの事件でもあった。南京の文官たちは城外にまで出て信長を出迎えた。信長は彼らをブレーンとして採用し、中国本土への道案内とした。南京から号令を発した信長は、大陸の各方面に兵を送り中華帝国を制圧していった。

 私たちは第二号作戦を見直さなければならなかった。北方に都を置かなかった歴代の王朝で、中国統一を成し遂げたものが無いというのが定説なのだ。春秋戦国、三国、南北朝と、中国は幾度となく分裂の歴史を持っているが、いずれの場合も天下を統一したのは北方の王朝である。契丹族の遼に追われた北宋は南に逃れて南宋を建てたが、その後も女真族の金、モンゴル族の元に圧迫され、北方を回復することなく滅びたのだった。唯一の例外は当初、南京に都を置いた明王朝なのだが、これも永楽帝の時代に北京に遷都して長期政権となったのだ。

 理由は様々に考えられるが、軍事的な問題が大きいだろう。中華帝国の安全保障は、北方の異民族の侵入に備える必要があったからだ。常に軍事的緊張状態を強いられた北方は強兵である。それに引き換え、経済的には圧倒的に優位にある南の政権は軍事的に弱体化するというのだ。陳博士はそのことを強く主張し、李博士も同意した。

 まさにこの時、北の平原では満州族の王ヌルハチが、モンゴル族をも服属させ、一大勢力を形成しつつあったのだ。ヌルハチは瀋陽において(ハーン)の位につき、国号を清とした。

 私たちは碧海作戦遂行中の人民解放軍工作部隊に指示し、信長のブレーンとなっていた漢民族の文官たちを買収し抱き込むことにした。文官たちは何度も信長の説得を試みた。

 大王(ダーワン)、中原をお取りください。天子(テンツー)のおわすべき場所は中原をおいて他にありません。

 信長が彼らの諫言に耳をかすことはなかった。

 信長様のお考えになることは、わしらのような凡人には解らんということじゃ。そんなことよりも、私は早く十六世紀へ行きたかった。送られてくる映像や資料を見て検討し指示を出すが、現地での作業は人民解放軍のみなさんのお仕事なのだ。現地は危険な状態にあるとかで、なかなか行かせてくれないのだ。それな らさっさと平和な時代をつくろうではないか。

 はい、第三号作戦。いってみよー。



 信長は新都を建設しようとしていた。揚子江の河口にある小さな港町に目をつけた。現在の上海である。信長は巨大な城郭と海港都市の建設に着手した。新都の建設にあたったのは、主に日本から呼び寄せられた人々だった。

 上海において信長は皇帝に即位した。国号は「(ハイ)」。歴代の中華王朝は最初に封ぜられた地名を国号とするのが慣例なのだが、海の向こうからやってきた信長にはそんなものは無かった。チンギス・ハーンの末裔たるモンゴル族は「元」の嘉名をもって国号としたが、信長は「海」の一字を選んだ。「我、海より来る」ことの表明と私は理解した。

 信長は東アジアに海洋帝国を作り上げようとしていた。西欧の大航海時代に対して、東アジアでも大航海時代が幕を開けようとしていた。ユーラシア大陸の西端と東端では競うように巨大な造船が行われていた。

黄海と東シナ海は豊穣の海となり、各国の船舶が行き来した。中国の船、日本の船、朝鮮の船、東南アジアからの船や南蛮船もいる。各港は賑わい、交易は盛んになった。

 日本列島は信長の次男信雄によって治められた。博多と大坂には巨大な城郭が築かれ、新しい時代に備えようとしていた。海港都市を拠点とした海の時代だ。一方、江戸幕府の開設をみることがなかった東日本は辺境の地になっていった。

 羽柴秀吉の支配下に置かれた朝鮮半島南部は活況を呈していた。秀吉は信長の重商主義政策をよく理解し貿易の振興に努めた。

 自由貿易が奨励されると、十六世紀の東アジアの海を脅かした倭寇たちにも新たな活躍の場所が与えられた。商才あるものは貿易商人となり、腕に憶えのあるのものは信長の水軍に加わった。フランキー砲を何門も搭載した軍船が次々に建造され、強大な水軍が出現しつつあったのだ。

 中国は沿岸部を中心に新しい時代を築きつつあった。信長は江南の穀倉地帯を背景に国力を充実させ、貿易によって国を富まそうとしていた。

 一方、漢民族のアイデンティーであるはずの中原では、徳川家康が着々と力を蓄えつつあった。陳博士や李博士たちは徳川家康による中華帝国の可能性を検討し始めていた。

 そんなとき、歴史は巨大な復元力を働かせようとしていた。

 満州族の王ヌルハチが平壌に逃れた李王朝の軍勢をも従えて、山海関を突破し、中原になだれ込んだのだ。その数、三十万。しかもそのほとんどが騎兵である。

 北京の徳川家康は、これを迎撃せんとして全軍をもって出動したが、満州騎兵の圧倒的強さの前になすすべもなく壊走した。中原に勢力を拡大し、あわよくば海王朝の簒奪をも画策していた家康の野望はあっけなく潰えた。

 北京を発したヌルハチは、湖北から漢水に至る道に大軍を進めた。日本兵、恐るるに足らずと見て、信長に決戦を挑むつもりだ。

 各地に兵を分散していた信長は、訓練中の兵をかき集めて軍船に乗せた。その数はよく見積もっても十万がいいところだろう。信長の率いる水軍は長江から漢水に遡り、武漢において精兵、五万を糾合した。信長は漢水平野に陣を張り、迎撃の体制をとったまま動こうとしない。

 陳博士は碧海作戦の失敗を口にした。中原を無視した信長は、滅ぶべくして滅ぶのだと。海王朝は短期政権に終わり、替わって清王朝が中華帝国を制圧し、歴史は復元されるのだと。

 騎馬軍団を迎え撃つなら、水路の張り巡らされたもっと南方に敵を誘い込むのが兵法というものだ。騎兵に最も有利な平原で、しかも敵の半分の戦力で会戦するだと。何を考えているのだ信長様ぁぁ。などというのは、日本史のイロハも知らないシロウトの考えだ。私はお茶をすすりながら観戦を決め込むことにした。さすがは中国政府だ。研究室には鉄観音茶の最高級品が常備されている。苦味の後に口の中にほんのりただよう甘味がなんともいえない。このおかげで血糖値がどれだけ改善できたことか。


 地平線の向こうから三十万の騎兵が疾風の如く押し寄せてくる。大地は揺れ、風が巻き起こった。信長は目を閉じている、兵は微動だにしない。敵をぎりぎりまで引きつけたところで、信長は何事かを叫び、叫びは轟音に掻き消された。六万丁の鉄砲による三段射撃が開始されたのである。信長は鉄砲隊を三つに分け、火縄銃を順番に撃たせることにより間断ない連続射撃を実現したのだ。そのうえ左右に百五十ずつ配置された合計三百門のフフランキー砲が同時に火を噴いた。信長は軍船からフランキー砲を取り外し、ここまで運ばせたのだった。

 三十分足らずで、勝敗は決した。

 武田勝頼の騎馬軍団を一瞬にして壊滅させた日本戦国史上の白眉ともいえる長篠の合戦の再現である。残念にも歴史介入によって雲散したかと思いきや、ここに数十倍の規模をもって蘇ったわけだ。

 砲煙で白く濁ったメイン・モニターは沈黙していた。

 陳博士は成り行きを呆然と眺めていた。李博士はその場にへたり込んだ。

 その映像は一般にも公開され、世界中を戦慄させた。

 見たか!これが歴史の破壊者、信長様じゃぁぁ。


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