参
「私には中国政府が豊臣秀吉の唐入り、つまりは朝鮮半島と中国本土への侵略を容認していると聴こえたのですが。何かの間違いではないですか。」
「いえ、先生のおっしゃるとおりですわ。間違いはございません。」
「また反日暴動がおきるんじゃないですか。もう、あんな目にあうのはごめんです。全てとは言わないが、私は大切なものを失ってしまった。」
「失ったものは、取り戻せばいいだけのことですわ。それに、先生にはそれがお出来になる。」
「ほう、中国共産党が私の誇りと生き甲斐を取り戻してくださるとおっしゃるか。」
「先生のお心次第ですわ。」
「あの忌まわしい論文をいまさらほじくり返して、あなたがたは私に何をせよとおっしゃるか。」
「先生の論文を私たちは正しく理解しておりますわ。これは東アジアに住む全ての民族にとって有益な歴史を生み出しますもの。」
「そんなことは私がいちばん理解している。中国政府がそれを容認したとしてもだ、日本人が中国を侵略するとなれば、中国の大衆が黙ってはいないでしょう。」
「東アジア史がご専門の先生のお言葉とは思えませんわ。中国には大衆などというものは存在しません。昔も、今も。政府が決定すれば誰も異を唱えることなどできませんわ。」
「そうはっきり言われると反論できませんな。しかし百歩譲って中国に大衆がいなくとも、日本には存在しますよ。」
「そうですわね。でも、豊臣秀吉の唐入りが成功する歴史はきっと日本の大衆のお気に召しますわ。これほどナショナリズムをくすぐられることはないはずです。」
「確かにそうかもしれません。だが、あなたがたは大衆というものを少々馬鹿にしすぎていませんか。」
「日本人が大衆を過信しすぎているだけですわ。先生の論文をろくに読みもせず葬り去ったのはその大衆ですのよ。」
「しかし、あなたがたの国が十六世紀とはいえ、日本の兵に蹂躙されるのですよ。」
「二十世紀に近代兵器をもって蹂躙されるより遥かにマシですわ。」
「いう言葉もありませんな。実をいうと私は思い悩んでいたのです。東アジア全体の為とはいえ、日本が朝鮮半島や中国を侵略していいという道理はありません。」
「先生のお言葉とは思えませんわ。先生は論文のなかで書いておられました。明帝国を滅ぼしたのは異民族である満州族が立てた清であると。満州族が日本人に代わるだけで、中華が異民族の支配を受けることに変わりはありませんわ。」
「やれやれ、漢民族というのはドラスティックな民族ですな。」
「中国人といっても漢民族だけじゃありませんわ。清は満州族、元もモンゴル人が建てた王朝です。昔の日本人が中国を指す名称として用いる唐という言葉の元になった唐王朝だって鮮卑族の血が色濃い王朝ですのよ。日本人だって中華文明の力を使えば世界史に大きく貢献できるはずですわ。」
「中華文明の恐ろしいところはそこですよ。唐は鮮卑族の建てた北魏の延長線上に生まれた王朝です。満州族は清を建て、漢民族を支配したはずです。ところが逆に鮮卑族や満州族のアイデンティティーは希薄になり、中華文明に乗っ取られたかたちです。」
「先生のおっしゃりたいことは分かりますわ。中華というのは民族の名前ではなく文明の名前です。中華文明は自分たちを支配した異民族の文化でさえも吸収して中華世界を押し広げてきたのですわ。」
「中原に発生した中華文明は、春秋戦国期に誕生した周辺の王朝によってその世界を拡大しました。南方では楚や呉、越が、西方では秦がそうですな。名目上の盟主とはいえ中原の周王朝からすれば蛮族です。しかし、中華に最初の帝国を築いたのは秦でした。」
「三国志の時代の後には五胡と呼ばれる五つの異民族が入り乱れて王朝を建てましたわ。先生がおっしゃった北魏は南北朝の時代の北朝を代表する王朝です。北魏には鮮卑族だけでなく北方の遊牧民族の血が様々な形で入っています。それを受け継いだからこそ唐が世界帝国に成長していくことができたのですわ。」
「しかし、日本だけは海に隔てられていたために、中華文明との接触が希薄だったわけだ。漢字や儒教といった文物だけを一方的に受け入れた感じですな。」
「日本人は外から来るものはどんどん受け入れるのに、外に出て行くことが苦手な民族ですわ。昔も、今も。」
「そうかも知れません。私を含めてね。」
「もし日本人の貪欲な吸収力があれば、中華文明は近代化にいち早く対応できたかもしれませんわ。」
「なるほど。西欧列強の外圧にいちはやく対応して近代化を成し遂げた日本人の適応力を中華の文明の中枢に取り込んでおく。私の論文の趣旨をよく理解されているわけだ。」
「それこそが東アジアの迅速な近代化にとって必要な条件だと私たちも判断しているのですわ。」
「なんだか私が私に説得されているような気がしてきました。中華文明と日本人の持つ適応力の幸せな結婚が私の論文の趣旨です。」
「中国の近代化が遅れたのは、国が大きすぎて急速な変化に対応できなかったのだという説もありますが、私たちはその立場をとりませんわ。要は適応力の問題です。」
「そうです。最も大きな問題は中国人が中華文明を過信しすぎていて適応力を欠いた。日本人による中華王朝ならばこの点を克服できるのではないかと思えるのです。なにしろ外から来るものは何でも取り入れてしまう民族ですからな。」
「日本を敗戦に追いやったアメリカの文物でさえも、嬉々として取り入れる国ですものね。」
「手厳しい指摘ですな。日本人は海の向こうからやってくるものは、何でもいいものだと思っているふしがあります。」
「そう、海の問題ですわ。先生の論文で最も興味深かったのは海洋に関する指摘ですわ。中国人はごく最近まで海洋というものに関心を払わなかった。」
「西欧列強は海洋からやってきます。北方の異民族のようにはいかない。江戸時代における日本は鎖国によって海洋への関心を鈍らせていましたが、元来は海に囲まれた国です。ある意味海洋民族といってもいい。」
「倭寇の国ですものね。特に十六世紀の日本人は海洋への感性が豊かだったと思いますわ。」
「中国人にだって素晴らしい実績があるでしょう。明の永楽帝の時代には宦官の鄭和に率いられた大艦隊がアフリカまで行ったというではないですか。あの大艦隊についてはタイムマシンで調査なさったのでしょう。どうでした。」
「鄭和の大艦隊に関しては軍事機密となっておりますので詳しいことは申し上げられません。歴史介入実験の候補の中には鄭和の艦隊に関するものがあったとだけ申しておきますわ。」
「なるほど、時代が早すぎたと理解しておきましょう。十五世紀初頭ですからな。西欧はルネッサンスの時代ですか。」
「鄭和の大艦隊は中国史のなかでもあまりに特殊な例ですわ。本来、中国の歴代王朝は海には興味がなかったのだと思います。」
「北からの異民族の侵入に注意を払わなければならなかったからでしょう。各王朝は中原に執着せざるを得なかったというわけですな。」
「それだけじゃありませんわ。中原は中華文明発祥の地ですわ。漢民族にとってのアイデンティティーといっても過言ではありません。昔も、今も。」
「清王朝を建てた満州族には、漢民族のアイデンティティーは関係ないでしょう。彼らも海には出ようとしなかった。」
「満州族は遊牧民族です。海に興味を持たなかったのも当然ですわね。」
「そのかわり乾隆帝の時代にはチベットや中央アジアを征服しましたな。」
「中国の広大な版図はこのときに完成を見たといって過言ではありません。私たちの偉大な歴史ですわ。」
「確かに偉大です。満州族はこの偉大な中華文明にとりこまれてしまいましたな。辮髪を除いてね。」
「辮髪も悪くありませんわ。日本人のちょん髷と同じ程度に素敵ですわ。」
「まあ、月代をするということでは満州人も日本人も同じかもしれませんな。中華文明から見れば周辺の蛮族の奇習ということになる。」
「でも、日本人を遊牧民族と同一視することはできませんわ。中華文明の影響下にありながら日本人は独自の文化を創りだしたのだと思いますわ。」
「日本人だって中華文明の中に回収されていくと私は思っていますよ。」
「でも日本人には遊牧民族には無い強烈な文化がありますわ。それが全て中華文明に溶けてしまうとはおもえません。」
「だが日本には文明は無い。そういう意味では日本人も周辺の蛮族にすぎません。文明というのは広範な地域、多数の民族に適用しても通用するものです。」
「つまり普遍性を持っているとおっしゃりたいのかしら。」
「そうです。逆に文化は限定された地域のなかでしか通用しない概念です。日本人であれ中華王朝を建てるとすれば中華文明の下に従わざるを得ないでしょう。日本文化に他民族を従属させるなんて不可能ですよ。」
「そうかもしれません。でも満州族のように完全に中華文明に回収されては意味がありませんし、そうならないと思っています。遊牧民族の文化はあまりにも素朴すぎたのだとわたしたちは考えていますわ。」
「確かに。日本文化は中華文明のなかで生き残るだろうし、影響を与えることもあるでしょう。それでも中華文明は日本を呑み込んでしまうでしょう。」
「さあ、どうかしら。」
「あなたがた中国人の意図はそこにある。日本人が中華に王朝を建ててしまえば、逆に日本列島は確実に中国の版図になります。もちろん朝鮮半島も中華帝国の一部にならざるを得ません。つまり、侵略したほうがいつのまにか侵略されたことになっている。」
「さきほどの鮮卑族や満州族のことをおっしゃられているのかしら。」
「いま、この地球上に鮮卑族の国も満州族の国も存在しません。彼らは中華帝国を支配したはずですが、いつのまにか同化し取り込まれてしまったんです。」
「日本も同じようになるとお考えですのね。」
「チンギス・ハーンの世界帝国でさえ中華とイスラムの文明に従属せざるを得なかったんです。いわんや日本人をや、ですよ。」
「それでも彼らは偉大な歴史を残しましたわ。」
「文明は偉大です。その偉大さが文明というものの恐ろしいところです。文明は民族を超えて存在します。場合によっては日本のような文明を持たない国を呑み込んでしまいます。」
「でも、それこそが先生の論文にあるとおり東アジア全体の利益ですわ。」
「いえ、中国の利益です。」
「それでも先生はあの論文をお書きになった。」
「ローマ帝国復活を試みた西欧人たちの傲慢が許せなかったからです。」
「ふふふ、私たちは例のSPQR作戦の失敗を予測しておりましたのよ。だから安保理でも拒否権を発動しなかった。」
「やはり裏取引がありましたな。それにインドへのけん制という意味もある。」
「西欧諸国には中国がどんな歴史介入実験を行おうとも文句は言わせませんわ。」「あなたがたもSPQR作戦の失敗はキリスト教にあるとお考えですか。」
「それが全てとは言いませんが、西欧人たちがこの重要な要素を無視することは目に見えてましたわ。」
「なるほど、あなた方は中国の、いや東アジアの歴史を効果的に変えるにはどうすればよいか考え抜いた。そして日本人である私の論文に目をつけた。」
「わたしたちの歴史介入実験にご協力いただけますね。」
「私を売国奴にするつもりですか?」
「偏狭なナショナリズムは先生にはお似合いになりませんわ。」
「あなたがたは歴史を変えることの重大性をどうお考えですか。キリスト教無きヨーロッパ文明を想像できますか。たとえローマ帝国が生き延びたとしてもだ。」
「虎穴に入らずんば虎子を得ず、ですわ。何かを得ようとすればリスクは当然ですし、場合によっては何かを棄てなければなりません。西欧人はそれを理解していなかっただけですわ。」
「わかりました。それほどの決意がおありなら協力しましょう。」
「ありがとうございます。先生のご協力に感謝いたしますわ。」
「ただし、何もかもがあなたがたの思いどおりにはいかないということだけは憶えておいてください。」
「肝に銘じておきますわ。」
「それと、ひとつだけ、あの論文の書き換えを許していただきたい。」
「書き換えですか?」
「そうです。豊臣秀吉を織田信長に変更してもらいたい。元々、唐入りの計画は織田信長の着想です。秀吉はそれを引き継いだにすぎません。東アジアの歴史を塗り替える気なら、本物の変革者の力が必要です。」
「なぜ、そうお思いになるのですか?」
「歴史学者の勘です。」
「実はわたしたちも織田信長の可能性については検討しておりますのよ。」
「なるほど、そちらの方でも検討済みというわけですな。」
「私たちの結論も織田信長ですのよ。」
「かないませんな、中国人には。」
「中国人民は先生を歓迎いたしますわ。」
「ひとつ、協力には条件があります。」
「おっしゃってください。」
「私は十六世紀の東アジアの海が見たいのです。」
「お安い御用ですわ。」
「それと、もうひとつ。あなたの本名が知りたい。」
「李紅艶。女優か女スパイみたいな名前だってよく言われますわ。」